合気揚げの基礎知識 3
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●フリーメーソンと取り引きした長岡藩国家老・河井継之助
また、ナポレオンの戦術を研究した、当時としては屈指の近代軍事学に長じた軍略家としても知られている。 洋式の銃砲を購入して、フランス式の調練を行ない、戊辰戦争にあたっては長岡城に籠城(ろうじょう)して、政府軍を散々苦しめたが、負傷し、落城後に死亡しぼうした。 慶応3年(1867)長岡藩国家老に就任した河井は、同年12月藩主牧野忠訓に従い上洛(じょうらく)、王政復古(おうせいふっこ)で誕生した明治新政府に対し徳川への大政再委任を建白した。 翌明治元年(1868)1月には鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、徳川軍の総崩れとなって江戸に退いた。 後、藩邸の資財を総て売却し、その金で当時最新の兵器であったガトリング砲を始めとする新兵器をフリーメーソンから買い込み、同年3月長岡に帰った。
ベルギーのフリーメーソンであったシャルル・ドモングランは薩摩の五代才助(友厚)に近付き、オランダ系のプロシアのフリーメーソンであったエドワード・シュネルは長岡藩の家老・河井継之助に接近した。 また、エドワード・シュネルは、会津藩にも取り憑(つ)き、会津藩はこの武器商人の斡旋業者に、まんまと騙されてしまった。エドワード・シュネルの兄であったヘンリー・シュネルは、在日プロシア公使館書記官として、慶応3年12月、弟とともに奥羽越後同盟諸藩にくみした。 弟は武器商人として奥羽越後をテリトリーとして、武器売り付けに奔走し、兄ヘンリー・シュネルは会津藩に取り憑いて、その身代を揺すぶり突けた。 ヘンリー・シュネルは会津藩では、日本名を平松武兵衛と称し、軍事顧問として家老職の待遇で、会津城下に棲み続けた。そしてフリーメーソンの奥の院の意向に従い、プロシア系メーソンと、フランス系メーソンの戊辰戦争を仕掛けたのだっいた。
こうした裏側の、巧妙な仕掛けを知らなかったのは、当時の激動の渦の下で奔走した日本人だけであった。 もともと函館五稜郭(ごりょうかく)での函館戦争(戊辰戦争の延長)は、フランス系フリーメーソンとイギリス系フリーメーソンの戦いであった。 つまりフリーメーソンが、幕府(徳川宗家並びに、徳川家の近親が封ぜられた藩とそれに準ずる奥羽列藩同盟)と西南雄藩(薩摩・長州・土佐・肥後)を背後から、それぞれに煽り、煽動して戊辰戦争を企てたのであった。 また幕府の横須賀ドックに来ていた技師フランソワ・ベルニー並びに日仏文化交流に関係していたレオン・ドロニーらは、いずれもフリーメーソンだった。 こうした最中、河井継之助は武器調達の為に、フリーメーソンと取り引きしたのであった。
この攻防戦に於て戦った長岡藩士は1531名で、この内、戦死した者は390名である。全体の約二割が殆ど降伏する事なく、最期まで壮烈な戦いを展開したのである。十四歳から六十五歳までの全員が志願によって市街戦に加わり、西軍を苦しめた。他の幕府軍の戦いと比較してみれば、その戦いが如何に激しかったか分かるであろう。 ここで河井継之助の戦いの奮戦ぶりを上げて見よう。 先ず、戦争あるいは事件、戦闘志願者数、戦闘期間を上げて見た。 西軍との衝突で火蓋を切ったのは上野戦争である。これは江戸に於ける幕臣旗本の反乱兵士が上野に立て篭り西軍と交戦したのであるが、その戦闘期間は僅かに一日弱であった。次に 鳥羽・伏見の戦い であるが、 徳川慶喜(よしのぶ)を中心とする幕臣軍と西軍が交戦した戦いであり、西軍の精鋭部隊に押されて鳥羽から敗走を重ね、伏見に至る戦いであったがその期間は約四日間 であった。 次に会津若松鶴ヶ城の攻防戦であるが、会津藩士が松平容保を中心にして戦った戦争であり、戦闘期間は約三十日間であった。 白虎隊の悲劇もこの時に生まれた。
しかし最後には膝を弓矢で打抜かれ倒れてしまう。 その倒れた萬に、敵は飢えた狼のように群がり、それでも幾人かを薙(なぎ)倒しながら戦い、そして三十数人を打ち倒して、弓を折り、剣を川に投じて、ついに力尽きて自らの首を短剣で刺して絶命した。彼の屍(しかばね)は逆賊として八つ裂きにされ、更に八つの国に持って行かれて串刺しにされた。それが朽ち果てるまで数ヵ月間風雨に曝されたという。無慙(むざん)な最期だった。 萬は物部守屋の「天皇(すめらみこと)の楯(たて)」という言葉を信じ、それを絶叫しながら最後の一騎になっても戦ったのである。しかしこの絶叫に、誰一人として耳を貸す者はなかった。萬は絶叫しながら、「共に語るべき者来(ひときた)れ。願はくば殺し、虜(とら)ふることの際(わきだめ)を聞かむ」と悲痛な言葉を語って息絶えたという。 会津藩の悲劇を考えた時、頼母の心には、この萬の心境に近いものがあったのではあるまいか。 孝明天皇の信任の熱かった松平容保は、坂本龍馬の策した薩長同盟(裏では武器商人トーマス・ブレーク・グラバーが坂本龍馬や伊藤博文を操っていた)によって、会津・薩摩同盟は反故にされ、一転して会津藩は裏切られた形になった。 まさに戊辰戦争に敗れた会津藩士達も、「共に語るべき者来れ。願はくば殺し、虜ふることの際を聞かむ」と悲痛な絶叫(ぜっしょう)と混乱に号泣したのではあるまいか。結局彼等は、時代の流れに置き去りにされて行ったのである。 特に会津戊辰戦争の敗北は、「尊王愛国」を掲げながらも、逆賊として扱われ、その汚名を着て、錦(にしき)の御旗(みはた)の官軍に殺された会津藩士たちは、もしかすると萬の末裔ではなかったのだろうか。 また征韓論(せいかんろん)に破れ、「西南の役」で逆賊の汚名を着た、西郷軍(西郷隆盛)も萬の末裔であったような気がしてならない。 それはあたかもフランス革命当時のマリー・アントワネットのような心境ではなかったか。 |
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▲マリー・アントワネット ルイ十六世の王妃だったが、フリーメーソンの画策したフランス革命で断頭台の露と消えた。 |
▲フリーメーソンの前掛け。 前掛けの中央上部に表されているものは、「墜天使ルシファーの目」である。そしてコンパスと直角定規。 |
元フランス国王妃マリー・アントワネットは死など、ものともせず、悟り切った尼僧の面影を漂わせながら、断頭台に上ったという。彼女は、オルレアン公の庇護の下にパレ・ロワイヤルに集まった革命主義者やルソー主義者や反体制主義者等の不平分子と結託した一握りの銀行家や金貸しに踊らされた革命家の毒牙(どくが)にかかったのである。また、フランスブルボン王朝も、フリーメーソンの暗躍によって崩壊した王朝であった。
また彼女は、口先だけで、自由・平等・博愛(当時のフリーメーソンのスローガンは、この部分が友愛)を唱え、血を血で洗う欺瞞(ぎまん)に満ちた革命家たちの利殖と打算を心から軽蔑し、恐怖政治の狂気の沙汰を尻目に見ながら、一切の嘆願もせず、抗弁や弁明もせず、一度も取り乱したり、或いは自信や気品すら失わなかった。 三頭政治を形成した沐猴冠(もっこうかん)のロベスピエール、ジャコバン党(ジャコバン修道院を拠点とし過激派としても有名)の公安委員のサン・ジュスト、躄(いざり)のクートン達の、骨を刺す毒舌家の恐嚇 にも恐れず、なぶり殺しに等しい責苦の中にあっても、終始ハプスグルグ流の気高き誇りを片時も忘れず、その品位を保ったという。 また身の熟しも王家の気品を保ち、背筋を伸ばし優雅であったともいう。流石マリア・テレサ(マリア・テレジア)の姫君に恥じぬ堂々たるものであった。 フランス革命の恐怖政治の許で断頭台の露(つゆ)と消えたのは、一説によれば約七万二千人以上と謂(い)われているが、王侯から庶民に至るまで、死に際して非常に立派な人が多かったという。マリー・アントワネットもその一人であった。 此処に人間としての、気品の高さと潔さと誇りがある。会津藩士達も、気品の高さと潔さが誇りであったに違いない。 そして時代は移り変わり、明治も半ばに差し掛かった頃、再び浮かび上がってきたのが「大いなる東」を掲げた大東亜思想であった。 此処に頼母は、新たな新天地・中国大陸に向かって、「五族共栄(ごそくきょうえい)」(【註】正しくは「五族共和」といい、中国で、辛亥(しんがい)革命当時、帝政を廃して、五族による共和政体樹立を目指した標語)の理想が泛(う)かんだのではなかろうか。 それに示唆を与えたのが樽井藤吉の『大東合邦論』であったに違いない。 そして頼母の脳裡(のうり)に泛かんだものは「大東流蜘蛛之巣伝」と称する、欧米ユダヤの血のネットワークに対峙した、日本人の霊的神性であった。 しかし、こうした霊的神性も西欧化の波に押し流され、明治を機転として日本人は、気品を失う民族と成り下がってしまった。そして、戦後の昭和以降に於ては、この気品は殆ど失われ、拝金主義に走る人種にまで低下したのである。 別の人種に変わってしまった日本人の元凶は、西欧化の波が押し寄せた「文明開化」の頃であり、これは奇(く)しくも、頼母が警鐘した日本民族の「誇り高き気質」を失墜させた時からであった。これより、日本人は転落を始めて行く。日本精神を放棄し、外圧の圧力に屈し、横文字文化に傾倒して行く日本人像が多く顕れたのは、この頃からであった。 |