●有害なる科学一辺倒主義
近代の学校教育は、権威ある学説を丸暗記し、それを鸚鵡(おうむ)返しのように答えられる者を系列的秀才と讃え、また権威に対して、思惟の追従を唱える者を論理的知識層として祀(まつ)り上げて来た。
その為に、科学者といわれる連中の中には、創造的な自己を失却した「分別知(ふんべつち)」に支配され、科学一辺倒主義に毒されるようになった。
現代人が科学一辺倒への妄信に奔(はし)った誤りは大きい。科学こそ、「分別知」が齎(もたら)した妄想と言えよう。
また、科学的と云う言葉に惹(ひ)かれる事が多く、現代人は「科学」という言葉に異常な執念を燃やすようだ。何事も、「科学的」と称しておけば、知識階級の仲間入りが出来るからである。
例えば、「分別知」で考えるレベルの多くは、数字による判断であり、数字と面(つら)を併(あわ)せ、その数値が正しいか否かのことばかりに重点を置き、これが信用され、信頼される。
また、数値で反応する「分別知」は、数字が入っていると、何故か信憑性を帯び、更には突っ込みがよく、より専門的に映り、より真実性が高いと勘違いするものである。
例えば、その数値に示された数字が正しいものとしても、数値が齎(もたら)されている定量的な点よりも、数値以前の定性的な方が遥(はる)かに重要なのに、これは余り関心が注がれない。
この元凶は、何処から派生したかと云えば、これまでの「アナログ表示」から「デジタル表示」に変わったことが起因している。「デジタル」では、そこに行き着くまでの過程が省略され、結果のみで判断する思考が支配しているからである。
例えば、科学実験を繰り返せば、実験から得られた有効数字には、その数字に至るまでのアナログ的な段階がある。途中経過にも、実験の方向性や試行錯誤があり、そうした中から実験結果の有効数字は摘出される。
しかし、デジタル的な有効数字には、そこに至るまでのプロセスが存在せず、小数点以下の桁数(けたすう)が、やたら多くなって、こうした数字の羅列(られつ)が、如何にも「科学的である」と、錯覚してしまう点がある。この錯覚こそ、「分別知」から派生した元凶であろう。
何事につけても、科学的とするような課題が掲げられていれば、文句無しに信じ込んでしまうと言うのが、現代という時代の特長である。
ところが、科学であっても、法則の発見とか、研究の進展と言うものは、基本的には豊かな直観力により齎(もたら)される。この直観力を無視して、科学的と表すれば、非科学的な烙印(らくいん)が押し付けられ、今日の科学的とする根拠は大方が、厳正かつ理性のみによって築かれている場合が少なくない。
しかし、此処にも落とし穴がある。
それは、掲げられている事柄や論拠が、科学的と称されている場合、それは理論的であると同時に、実証的であり、この実証性こそが、科学的と豪語する絶大な信用を勝ち得ているという事である。この絶大な信用の為、科学的と表(ひょう)されれば、何の疑いもなく、頭から信じてしまうのである。これはある意味で危険なことではないか。
これは時として、迷信と何ら変わりのない悪影響を招くのである。
特に、食品や薬品の危険性は、健康と直結した研究結果から派生したものと解釈されがちである。情報化時代の特長は、こうしたデータの氾濫(はんらん)により、身体に必要な食品や薬品が、何ら、毒と変わりないように押し寄せて来ているという事である。
そして、研究結果やデータのみで、その評価が問われ、現代人は有識者の言のみを、鵜呑(うの)みに盲信を抱いている。
科学的と称されるものは、「一種の仮説」により展開されている。そして、仮説はあくまでも仮説であり、やがてそれとは異なる、一歩上の、変わった成果や、実験結果や、極端な場合、今日の科学的と称されるものが、後になって否定されることもある。そして、科学的と思われたものが、全くの迷信であったと言う事態も発生することがある。
したがって、単なる「分別知」で考えるのではなく、今と云う時点では「信」であるかも知れないが、やがて「疑」に変わるかも知れない事態が起ると、警戒する必要がある。
だからこそ、科学万能主義が持て囃(はや)される、こういう時代には、自然で、素直で、鋭い直観力を養わねばならない。つまり、「勘」である。しかし「勘」という言葉を持ち出すと、何かこうした言葉には、非科学的と映る響きが横たわっているように感じとる人が少なくない。
それは「勘」という言葉の意味が持つ、直感や第六感というものの根拠が、可視世界の者として実際に眼に見ることができないからだ。あるいは弁証法を用いて現象学的な意識の質的な説明が極めて困難であるからだ。そこに物質的存在の優位と、それの弁証法的唯物論を展開させる事が出来ないからだ。
何故ならば、「勘」は、「見えない心」から派生するものである。「見えない心」が主体となる場合、それは非科学的の烙印が押され易い。「見えない心」は、機械論的自然観に抗する、認識とは別の、波動的な働きかけから起因しているからである。そして、「勘」が波動から派生するなどと論ずれば、これは忽(たちま)ちのうちに「非科学」の烙印を押されかねない。
然(しか)し乍(なが)ら、「波動」は決して非科学的なものではない。単に、未だに解明されない「未科学」の分野のものである。
二十世紀という時代は、科学が横行した時代だった。あるいは科学的でないものまでが「科学」と称された時代であった。その代表的なものが、唯物史観で歴史を考える、「社会科学」という、科学ではない科学であった。この妄想科学、あるいは虚構科学を、世の知識人は忽ちこの科学の信者に取り込まれる現象が起った。今日もその後遺症を引き摺っている。
したがって、この後遺症は、今日の世界に於ても、眼に見えないものを切り捨てて来たという歴史的背景があり、不可視世界のものはオカルトとして一蹴(いっしゅう)された。
しかし、今日にも解明されない、「未科学」分野はかなりの領域で残されている。
物理学の世界では、量子力学が「見えない心」を解明する糸口を掴み始めた。一方、現代医学は「見えない心」を科学する意識が希薄である。未科学分野に対し、真摯(しんし)に現象を究明する姿勢が失われ、ある意味で未科学分野を認めない傲慢(ごうまん)がある。
したがって、この傲慢はこの世の中の総ての事象には、因縁に導かれる必然的な意味を持ち、それが起因して人心が導かれているという「縁」をうまく説明できずにいる。
今日の科学者とか、技術者と云う類(たぐい)は、物理や化学の総(すべ)ての定理や法則について、疑いを抱き、これを再度実証してみようとする態度がない。最初から丸暗記の定理や、公式を法則に当て嵌(は)め、これを用いているに過ぎない。ここに「科学的」と称された、事象を丸暗記し、鵜呑(うの)みする危険性がある。
刻々と事象は変化する。現象界の真理は「変化する」ことなのである。
しかし、旧態依然の定理が覆(くつがえ)されつつある、そう言う時代にあっても、科学者の研究主体は、定理や法則の丸暗記であり、これをもう一度実証しようとする態度がない。
また、本当に理解しているのなら未(ま)だしも、鵜呑みで事を運ぼうとしているのである。その癖に、霊感とか、宗教となると、非科学的の烙印を押し、実証しなければ信用しないのが殆どなのである。そして一般大衆の思考にも、この考え方は広がっている。
一般大衆には、権威に縋(すが)る「知」を、「分別知」の元凶であるとも知らず、盲目的に信用する現代の恐ろしい一面を持っている。
現代は、こうした「分別知」により、科学的である事と、非科学的である事が錯綜(さくそう)し、可視現象と、それを凌駕(りょうが)する不可視現象があるのにも関わらず、小さな世界観で、物事を考える時代になっていると言えよう。
特に、数値で数字を示し、科学的と称する現代栄養学などは、この「分別知」の最たるものであり、誤った食指針が示されている。何と恐ろしいことではないか。
●高速化社会とストレス
現代こそ、「無分別智(むふんべつち)」が破壊された時代はない。
無分別智が破壊されれば、総(すべ)ての景色は機械的に見え、その周囲には利害と打算だけが横行するようになる。人間の精神が否定され、個人の霊魂までが否定される。これこそ、人格の自由の否定であり、個人の霊魂の完全無視であり、人間の恐るべき非人間化であり、家畜化である。
また、この状況下では、衝動的な感情が副作用となって、競争意識から起る忿怒(ふんぬ)や羨望(せんぼう)が、現代人の生命と心を蝕(むしば)んでいく。
種々の外部刺激が負担として働くとき、そこには必ず、心身に生ずる機能的な変化が起る。この変化こそ、「ストレス」の元凶だった。
ストレスの要因は寒暑・騒音・化学物質など物理化学的なもの、飢餓・感染・過労・睡眠不足など生物学的なもの、精神緊張・不安・恐怖・興奮など社会的なものなど多様である。こうした多様かつ有害な環境下で、現代人は心身を変化させ、人間生活を浄化させる方法を見失った。
本来、生命の有る所には必ず、その至る処に「韻律(いんりつ)」が存在した。しかし、現代社会ほど、この韻律を見逃してしまった時代はない。
もう、現代人の耳には、こうした韻律が聞こえないところに隔離されてしまっている。
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▲人間の感情に届くのは、いつか見たことのある「哀愁」である。
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自然の中には、小川の水のせせらぎがあり、森林を駆け抜ける風の囁(ささや)きがあり、海の水の波打ち際の寄せては返す波音があり、雲の行き来や、陽の輝きも燦々(さんさん)として、人間の感情に優しく届くものがあった。
また感情に届くものの中には、四季の哀愁(あいしゅう)と相まって、遣(や)る瀬ない苦悩の中にも、時にはその時代を思わせる、ゆかしい優秀が備わっていた。しかし、こうした人間の心に迫る韻律は、現代人には殆ど響かないようになっている。
世の中の進歩度合いのテンポが早くなると、益々加速度がつき、世の中全体は打算と多忙に追い捲(ま)くられるようになる。
これまで人類が培った、内部的美意識の経験や秩序と云ったものは根底から覆(くつがえ)され、機械的な思考や、儲けを中心とする打算利害だけの有害な副作用から抜け出せなくなり、現実の枯渇(こかつ)を潤す、「生活の浄化水」が枯渇の一途を辿っている。
そうした状況下に、人類はストレスに伴う危機に直面した。ストレスが原因の、心身の機能変化を下垂体や副腎系のホルモン分泌に増加反応が加わり、刺戟を与え、交感神経の緊張、代謝の変化などを招来して、反ショック相が形成される社会環境の中での生活を余儀無くされている。そして、この症状が進行すると、「警告反応」の段階を迎え、これが適応症候群の「第一期」症状が起こる。
また、第一期症状の警告反応につづいて、第二期反応として「抵抗期」に入り、副腎皮質機能の亢進による糖質・蛋白質・塩類の代謝の変化が起って、防衛体制をつくるようになる。
更にストレスが継続すると、副腎皮質は疲労に陥り、第三期の「疲憊(ひはい)期」に移行し、防衛反応が適度に進行しない場合には、リウマチ(運動器に疼痛を生ずる疾患で、筋肉や関節に痛みと炎症が多発し、それが身体の各部に流れていく。現在ではリウマチ熱、慢性関節リウマチおよびリウマチ性多発性筋肉痛に限ってその名称を用いる)・胃潰瘍(胃壁の潰瘍で、胃部の疼痛、むねやけなどを訴え、重症になれば吐血・下血・穿孔を起すことがある。胃酸の過剰分泌が主因とされ、胃ガンに変化するともいわれる)・ショック(激な末梢血液循環の不全状態であり、血圧および体温の低下、意識障害等に重大な異常を起こす。重症の場合は脳・心臓・腎臓などの機能障害を招来して、死に至る場合もある)等が起る。
また、健康に見える人が突然死ぬ「突然死」においても、心臓・中枢神経・呼吸器などの疾患による他に、乳幼児急死症候群や青壮年のポックリ病、更には特発性心筋症など原因の明らかでないものも含まれ、これにストレスが絡んでいるとされる。
こうした症状は「気血の調和」が崩れ、運動量が適度に行われない場合に起る。したがって、人間の健康を維持するには、気血の調和が大事であり、またそれに併せて躰(からだ)を動かす事である。しかし、この三者の調和が崩れた時、人間は病気になる。
健康維持に大事なことは次の通りである。
1
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精神の安定(気)
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信念と情熱をもって日々精進を目指す。また生命と自然との関わり合いを正しく理解する。 |
2
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正しい食生活(血)
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粗食・少食に徹し、穀物菜食の「正食」を実践する。また、一日2食の食餌法を心掛ける。 |
3
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適度な運動(躰)
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適度に躰を動かし、心臓肥大症にならない呼吸法をマスターし、躰動法(たいどうほう)を行う。 |
現代人は、今日の資本主義社会の競争原理の中で、この社会における科学技術の発展上、科学一辺倒主義を齎(もたら)した弁証法的唯物論は曲り角に差し掛かり、今日の科学技術は私たち現代人に、マスプロ化され大衆文化を与える反面、選択の幅や自由性、あるいは個性と云った数的なものを制御するどころか益々、選択範囲を広域に増やし、一方で、非大衆化と云う相矛盾する現象の中で戸惑を感じるようになった。
つまり現代社会は、社会の各層や上下関係が様々な形で細かく分類され、各々が専門家しているという事である。それに伴って、二次文化的な多種類の小集団が出来、それが専門化して、更にそこから益々細分化が進んでいるという現象が起こっている。
各々は、お互に横のレベルで馴染まない、異なった専門用語を喋り、異なった個性で横とは交わらず、異なった考えと、異なった個性の、異なった生活様式で、差異を表面化させつつ存在しはじめている。つまり、異なった専門化により、次々に新たな二次的文化が誕生している事である。そしてこうした状況下で加速度がつき、社会の動きは高速化されているのである。
また価値観の転換は、これまでのどの時代にもなかったような急激な早さで移り変わっている。
昔ならば、人間と言う存在は自分が生きている社会の公的価値体系は、殆どが同一の物をもち、一生涯殆ど変化する事はなかった。しかし現代においては、この価値観も、未来における一種の仮定とした生活様式の普遍性も、殆ど通用しなくなって来ている。
多くの存在は、公的ならびに私的な面を含む価値体系の構成は、常に一時的なものであり、次々の新たな新奇性をもって変化して行く。かつての産業化社会時代の価値観に執(と)って変わるべき価値内容は既に廃(すた)れ、古いものに変貌(へんぼう)して、その内容は殆ど意味を為(な)さないものになった。
その上、非常に寿命が短く、一時的なもので、その当時には最新科学と思われていたものが、明日には古典的なものに成り下がり、急速な価値観の変化は、旧時代の異物を置き去りにして次々に細分化され、専門化され、価値観は多様化する。したがって、こうした時代、まず「意見の一致」などは殆ど見られなくなった。
本来ならば中核を為(な)す「核」は、幅広い共通の価値観を持っていた。ところが現代社会では、社会の中心にあって不動のものであった、これらの「核」は急速に縮んで来ており、幅広いコンセンサスは、多種多様性の圧力によって押し潰されている。
現代こそ、コンセンサスを失った社会として、行動や言語、作法や基準と云ったものは殆ど見向きもされなくなり、「意見の一致」を失った社会を出現させてしまったのである。
双方が両立しない価値観が益々殖(ふ)える一方であり、価値体系の狭間(はざま)に現代人は板挟みになって生きている。しかし、自分がこうした状態にあると云う事を自覚する人は少ないだろう。誰もが重いストレスに押し潰されそうになりながらも、多く人はその自覚症状すら持たないのである。
街の商店街に足を運べば、眼も眩(くら)むばかりの消費物質がどっさりと堆(うずたか)く積み上げられていて、あらゆるサービスが顧客争奪合戦で鎬(しのぎ)を削っている。
一方、教育上、職業上、リクレーション上、レジャーや旅行の面に於いても、多くのオプションが与えられ、これを未来人達は、その多くの中から新しい方法で選択しなければならない世の中に直面するだろう。
既にこうした直面は現代でも始まっており、新奇性を伴う生活様式を「消費」しはじめているのである。こうした状況下では、社会の高速化についていけなくなる一部の人に、ストレスとしてのしかかって来る側面がある。
肉体の防衛と、社会構造の変化が人に与える影響は少なからぬものがあり、その変化と圧力は、強烈な波となって現代人を襲う。この変化の軋轢(あつれき)は、連続的かつ動的な巨大変化となって、現代人を襲い、内的な面と外的な面が「有害な要素」となり、均衡を著しく崩しているのである。その有害性が、実は病気を誘発させ、身体の防衛力に弱った者に対し、猛烈な勢いで襲い掛かるのである。
昨今の成人病の猛威は、実はこうした内的な面と外的な面から襲い掛かり、躰(かだら)に侵入して住み着き、病気を誘発しているのである。
特に神経系統や内分泌組織を通じて、強引に変化の圧力を加え、身体の防衛システムを破壊しているのである。身体の防空システムが、ある線以上の防衛能力を持っていなければ、病気に圧倒され、生活の急変に耐えられなくなる。つまり、病気に対する体質が悪ければ、病気のみならず、死そのものも課せられる、適応に対する圧力が掛かるのである。
この場合、これと対抗するのは体力ではなく、あくまで病気を防衛する「体質」である。病気を防衛し、それと闘うのは体力ではなく「体質」である。体質の善し悪しが、病気を阻止するのである。
幾ら体力があっても、体質が悪ければ、病気は阻止する事が出来ず、死そのものも招き寄せてしまうのである。
また精神的な弱さと病気の関連性は深い。精神が弱り、病んだ状態にある場合は、非常に病気を招き易い。
例えば、一見、何の前触れもなく、急な出来事の変化に襲われて、突然死するような人が居る。しかし、こうした突然死に至るまでの状況を厳密に調べて行くと、そこには死亡に至る種々の要因が浮かび上がって来る。例えば、その人の職業、住居、個人的な習慣や性癖、家族の離合集散状況などで、何らかの変化があった場合、死亡に繋(つな)がる要因が明らかになる。
厳密な調査によれば、例えば、妻や良人(おっと)を亡くした人達にとっては、配偶者を亡くして最初の一年未満の死亡が非常に多いと報告されている。特に良人を亡くした高齢者の未亡人の場合、心への打撃が大きくなり、病気への抵抗力を弱め、その後、一挙に年齢以上に歳をとると云われている。
また、「男寡(おとこやもめ)」についても同じ事が言えると報告している。妻を亡くしての、最初の年の六カ月未満の場合、この間の死亡率は約40%を占めると云われている。
これは「悲しみそのもの」が病気を招き、その精神的衝撃が病気に冒されることになる。
また、単に悲しみだけではなく、悲しみに絡んだ複合的な要因が、配偶者を亡くした事により、これまでの生活に急激な変化が起るという事である。こうして考えていくと、配偶者を失った場合のインパクトは大きく、そこに悲しみを含む急激な変化が、精神的な代償を伴うという事である。
そして変化が急であればあるほど、その対価は法外に高いものとなり、最悪の場合は、自らの命を失う危険性もあるのである。
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