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現代に生きる武士道集団
西郷派大東流シンボル
抜刀・据え物斬りに適した見事な現代刀。銘:(表)伯州住小林吉永造之。(裏)平成五年仲春日。大尖先(おお‐きっさき)、菖蒲(しょうぶ)造り。刀身幅も広く、重ねも厚い、刃渡りは、抜刀・据え物斬りに最も遣い易い、刃渡り72.6cm(2尺3寸9分)。反り:2.1cm。
 
拵は牛革柄巻きで、抜刀に素早い小鍔造り。
 
大尖先から伸びた“棟返り”の見事な波紋。
 
わが流、高垣卓也参段の所蔵刀。(写真提供 : 大東美術刀剣店 福岡県公安委員会 第10221号)

「剱(けん)の道」とは、「死を嗜む道」である。必死三昧の精神修行を積み、生死の道を明らかにすることである。それを明らかにした上で、独立自在の境地に至ることを言う。
 つまり精神修行で積みかされられた武儀こそ、「奥儀」といえるものであり、勝機の気をもって、「行」を行うことをいう。(術者:習志野綱武館道場長・岡谷信彦)

●武門の武術とは、かくあるべきもの

 それを如実に顕わす話に、「武術・武道」と「格闘技」の違いを顕わしたものがある。
 江戸中期、尾張の武士に、星野勘左衛門(ほしの‐かんざえもん)という柳生新陰流の達人が居た。勘左衛門はある時、所用で家老宅を訪ねた。家老は第の相撲好きで、丁度その時、大相撲の関取が来ていた。この関取は五百石積みの船の錨を片手で振り回すほどの大力であった。

 家老が勘左衛門に、「この関取と試合してみよ」と命じ、これを強く強要した。勘左衛門はこれを何回も辞退した。しかし、家老はこれを認めず、止むを得ず立ち合うことになった。武士のとって“立ち会う”ことは「太刀合い」を意味する。
 それ故に、勘左衛門は度々断り続けたのである。太刀を抜かなければならないからである。太刀を抜けば血の雨が降る。無益な殺生をしなければならなくなる。武士と雖(いえど)も、太刀を抜いて無益な殺生をする「生殺与奪(せいさつ‐よだつ)の権」はない。

 勘左衛門は何回も断り続けたが、遂に聞き入れられず、仕方なく試合をすることになった。試合場に関取は裸になって“廻し”を絞めて出て来た。一方、勘左衛門は紋付袴(もんつき‐はかま)に、袴の“もも立ち”をとって、大小二振りの刀を腰に指していた。
 これを見た行司(ぎょうじ)は、「相撲をとるのに、刀を指す法はないだろう」と咎(とが)めた。
 すると、勘左衛門は「私は武士であって、相撲取りではない。家老の、たっての望みで試合するのであって、試合は“死合”であり、武士は腰に両刀を指して試合するのは作法でござる」というのだった。

 これを訊いた関取は「お前は試合で俺から投げ飛ばされるのが怖いのだろう」と高飛車にものを言い、勘左衛門に掴み掛かる。勘左衛門はこれをさっと躱(かわ)し、抜打で関取を袈裟切りにし、斬り殺してしまう。これに周りのものは驚き、ざわめきはじめると、勘左衛門は“血振り”をして太刀を鞘に納め、家老の前に進み出て、次のように言うのだった。

 「武士が勝負をして試合で争うことは、このようなものであると存じます」
 こういって、勘左衛門は一礼し、家老宅を後にした。これに家老は激怒したが、どうしようもなかった。
 そしてそこに居た武士が、「星野勘左衛門の振る舞いは、武士として最もなことである。相撲取りと武士が試合をするなどは筋違いであり、そもそも家老がこれを強要したことに間違いがある」と云ったのである。そこに居た武士達は、これに大いに尤(もっと)もだと頷(うなず)いたと言う話である。武士たるものの本分に帰ったのである。

「劔(けん)の道」こそ武門の武術である。(術者:習志野綱武館道場長・岡谷信彦)

 いま、武道界では外国から逆輸入された格闘技がのさばっている。世界最強を自称している。柔術も、グレーシー柔術やブラジリアン柔術が幅を利かせている。また、打撃系の格闘技も、柔道やサンボやレスリングを組み合わせて、新たなる格闘技を展開している。何れも素手で戦う格闘技である。素手で戦うものは、生まれながらの肉体力を必要とする。肉体に物を言わせて素手で戦う格闘技である。何れも肉体力がものを言う。格闘柔道や合気柔道、格闘柔術も花盛りである。

 しかし、もともと柔術は、剣術の裏技である。素手で戦う格闘技は、もともと武門の武術ではない。最初から肉体力を必要とするからである。修練も、筋力とスピードを鍛える為の筋トレが必要となる。こうした論理で構成される格闘技に武門のものは存在しないし、こうしたものが武門の武術に入り込む隙間はない。あくまで武門の武術は、日本刀を象徴するものであり、剣こそ、その鍛練の中心課題である。

 そして剣の裏技は、矢が尽き、刀が折れてからの格闘組打が柔術の始まりである。したがって、基本に戻れば、剣術となり、剣の業が武門の、生涯鍛練してそれを見極めようと努めるものである。柔術は、即ち、剣術が本義であったのである。柔術に固執する必要はないのである。

 日本は、古来より剣で切り開かれた国で、剣によって国運を守り通した国である。菊と剣は国の象徴であった。つまり剣の国だ。徒手空拳で争う格闘技の国でない。剣により、知性と理性を保ち、心を剣によって律した国である。その象徴が日本刀であった。したがって、武士の象徴は日本刀であり、日本刀に類似する武器である。
 そしてその象徴こそ、「剱(けん)の道」の本分となる。

西郷派の修行は、段位が上がり、資格が上になればなるほど、きつくなる。また、段位などが上の階級ほど、精進努力が求められ、一般にスポーツ団体などで見られる、「社長出勤」や「殿様稽古」は許されない。上の者ほど、率先して後進者の手本になることを求められる。
西郷派は資格の修得ではなく、生涯、人間修行である。その修行は止むことがない。
ネバー・ギブアップの精神。勝負の場は、今日だけではなく、明日も明後日も、一生涯、無制限で続けられる。今日勝っても驕らず、今日負けても失望せず。これが西郷派の説く「負けない境地」である。
妥協をしない精神が、生き残る為の必要条件となる。人間というものは、一度妥協すると、更に妥協しなければならなくなり、それは「負け犬根性」となる。付け入られる隙を作る。これに「警戒すべし」と教える。
一度死ねば二度死なない。人生は死ねば終わりだが、最初から死を超越していれば、生死は存在しなくなり、死ぬ覚悟で中(あた)れば、一度死んだ人間は二度死なない。生死を超越した必死三昧(ざんまい)の精神。

 したがって、「大剛に兵法なし」 といわれる所以(ゆえん)である。
 「道」を求める者は、生死の悩みを解脱しなければならない。そして生死の悩みを解脱した真人に、もやは武道の必要はないのである。
 古来より、武の道といわれるものは、武士の間で大いに研究され、修行されたものである。血と汗の研究の成果といってもよい。

 そして根本には、「殺さねば殺される」という殺気があった。この殺気をもって、まっしぐらに突き進むものが「武の道」である。一瞬にして 剣の閃光(せんこう)を浴びると、首と胴は忽(たちま)ちに離れてしまう。これが必死必殺の「武の道」であった。

 生き死に、殺すか殺されるかと、真剣になって修行することにより、はじめて大事に臨んで生死を明らかにすることが出来るのである。生にありては、「生の道」を尽くし、死にありては「死の道」を尽くす。これが真人間となる為の「武の道」である。

 しかし残念ながら、今日の日本に「武の道」に値するものが如何ほどあるだろうか。
 規則を決め、危険をなくし、個人的な闘技を競って、格闘するこれらのものは、単なるスポーツであり、また体育であり、真の意味での「武の道」といわれるものではない。

 西郷派大東流は、今日ブームの絶頂にある格闘技や、他の大東流とは一線を画するものである。生き死にを明らかにする以上、「争わない」ことこそが武の本義であり、必死三昧の境地に至ることこそ、その本義とするものである。


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