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西郷派大東流と武士道
細川忠興が豊前小倉に移封され、三十五万石を領したのは慶長七年(1602)のことであった。
 同十七年四月には巌流島で試合が行われた。佐々木小次郎が細川藩の剣術指南役に請われたのは前年で、小次郎26歳のときだった。武蔵が細川家に招かれたとき、門弟のなったのは細川家の重臣・長岡佐渡であった。そして長岡佐渡は武蔵の試合の模様を伝えた。(写真は小倉城。H21.4.5)

■ 「武道」でなく「武術」の語を用いるわけ ■
(「ぶどう」でなく「ぶじゅつ」のごをもちいるわけ)

●堅甲自立の精神

 武術は、元来先人の智恵としての経験から積み上げた「戦訓」を活かして、長い時を経て完成したものである。そして武術と武道の違いを単刀直入に述べるならば、武術は「負けない事」を教えるが、武道は「勝つ事」のみを強調するという思考である。
 そして、「勝つ事」のみが強調される背景には、先の大戦で、日本が敗れた「敗戦恐怖症」があるのかも知れない。

 日本は、昭和20年8月15日、太平洋戦争に敗れた。この戦争では、単に日本が敗れたと言うばかりでなく、日本中が焦土(しょうど)と化し、おまけに広島と長崎に、人類初の原子爆弾が落とされたという、残虐(ざんぎゃく)行為がアメリカによって行われたからだ。そして、「被爆恐怖症」にも罹(かか)った。

 日本人の「敗戦恐怖症」や「被爆恐怖症」は、アメリカ側から検(み)て、日本人を去勢(きょせい)するに充分か効果を発揮した。日本人を大いに混乱させる効果もあった。思想工作も遣りやすかった。
 現に被爆恐怖症は、日本人の念頭から決して去ることはない。核兵器は根絶させねばならないと言う。実に尤もなことだ。筆者も大賛成である。

 しかし、核はいけないと言いながら、医療現場ではレントゲンと言う「核」には寛大で、これに反対する者は居ない。被験者は被爆の現状が続いている。これは、レントゲンは大目に見るが、核兵器はいけないということである。人間を被爆させるのであるから、医療現場が許されて、これを寛大に扱い、一方核兵器を悪とするのは、一体日本人のどのような感性から起ったものなのか。

 被爆を取り締まるなら、両方を取り締まり、地球上から廃絶させるべきであろう。レントゲンによる被爆で、ガン細胞が増殖する(医療現場では、レントゲンの被爆量は極めて微量で、健康には一切害がないといっているが)ことは余り知られていないようだ。

 さて、日本人は戦後、アメリカの思想工作により、去勢された。去勢されたまま、今日に至っている。その「去勢」が著(いちじる)しく顕れたのが、学校教育の教育現場だった。
 戦後の日教組教育は、従来の学校教育を不健全にした。生徒や児童を不健康にした。その学校教育の不健康さは、今日も、金や物に換算されて続けられている。

 例えば、少年少女のプロ選手の出現である。多くのスポーツ界に、未成年のプロ選手が出現し、高額な賞金を稼いでいる。またその親達も、わが子をスポーツタレントにしようとして、幼稚園児からサッカーに、野球に、ゴルフにと、躍起になって、英才教育と称した親達の奔走を繰り広げている。一攫千金(いっかく‐せんきん)を目論(もく‐ろ)む親達の画策が、今日では手に取るように顕れ、こうした現象が各地に伝染しているようである。何処の幼稚園にも、サッカー場が作られ、その加熱ぶりは異常である。
 こうした現象は、決して健康ではないし、健全でもなかろう。

 健康とは、字源に遡(さかのぼ)れば、「堅甲自立」を指し、この状態の心身を言う。不堅甲にして不自立では、「健康」と言い難く、また主体性すら喪(うしな)っているであろう。教育に、日本人特有の主体性がなければ、民族や文化は崩壊し、亡国を齎(もたら)す元凶となろう。多分にその可能性がある、この社会に私たちは生きているのである。

 

●武術と武道の根本的な違い

 さて「戦訓」とは、元々失敗や敗北の本質から成り立ったもので、それらの原因を冷静に見つめ、分析し、内容を洞察し、その中から新たな教訓を導き出し、次回の勝利へと結び付けようとするものである。
 戦いの場に於て、勝者はいつまでも勝者であり続ける訳はなく、屡々(しばしば)先の敗者に覆(くつが)えされる場合が往々にしてある。
 それは敗者が、これまでの戦訓を活かして冷徹に分析し、研究し、対抗策を考えて、修練を繰り返し、激しく迫るからである。
 此処に失敗や敗北の本質が生かされているのである。

 これに対して勝者は、勝ちに気を良くし、大衆層の全人格を代表し英雄を気取り、あるいは安易に奢(おご)り高ぶり、戦勝気分に酔い痴(し)れて、敵対する相手を単純に弱者と見下し、侮(あなど)り、自らの短所を根底から正しく見つめ直す事を怠るからである。その最たるものが、太平洋戦争勃発当時の、真珠湾奇襲攻撃の戦勝祝賀会に沸いた、日本人の提灯(ちょうちん)行列をする醜態ではなかったか。

 つまり敵を侮ったのである。そしてやがて焦土と化す元凶を招いた。それは物事を客観的に観る事を忘れてしまった為である。この意味で試合の勝者は、まさしく、勝ちが「一場の夢」であった事を、後になって思い知らされるのである。

 また武道の格闘が、躰(かだら)のみを張っているのに対し、武術は古人の戦訓から学んだ「智慧」を生かし、「術」を巡らし、それを実戦に応用するのである。この智慧と術こそが、秘伝の源泉なのである。
 古来より、「勝者の勝ち戦の戦法より、敗者の負け戦の敗因の方が、その価値としては大きい」と謂(い)われる所以(ゆえん)は、これである。

 人生に於て、明暗を分けるのは勝者の奢(おご)りと、敗者の執念であり、この双方が火花を散らしてぶつかり合った時、次の軍配はまさしく先の、一敗地に塗(まみ)れた敗者に挙がるのである。命を賭(と)して、戦いから学んだ「教訓」が大きく作用するからである。

 武術は「負けない事」を教えると謂(い)う事が、実は武術の極意であり、負けない事、付け入られない事、侮られない事、攻められない事が、先人の智慧となり、やがてこれが「秘伝」となったのである。
 そして武術と武道の根本的な違いは、武術は「死の道」を嗜(たしな)むことであるが、武道は競技を通じて、生きることのみを前提にして、人と人が争う“人為ゲーム”である。つまり、死を嗜むことなど、何処にもないのである。
 したがって武術の「術」は、死と対面させることにある。また、そこに「死の哲学」があるのである。

 

●武術の呼吸観

 さて、武術と武道の違いを、「呼吸法」の面から迫ることにしよう。
 先ず、これを一言で解り易く例えるならば、武術はヨーガの呼吸法や瞑想の呼吸法に似ており、武道は西洋スポーツを近年に利用した筋力トレーニングであるので、言わばラジオ体操的なものであり、基本は西洋体操を模倣したもので、その動きは呼吸法を無視したものが多く、早い動きで、身体の振り子反動を利用している動きが多い。

 その為、その不完全性を認める動きとして「深呼吸」を付け加えているが、それ自体も形式的で早い動きであり、筋肉の緊張を益々高めるものとなっている。
 つまり筋力とスピードの養成を狙ったもので、躰の柔軟性を目的としたものでない事が分かる。

 躰が柔軟性に欠けていれば、その頭脳もまた柔軟性に欠け、柔軟性の欠けた中からは変応自在な業(わざ)は飛び出す事がない。
 結局、力ある者が弱き者を下し、手の早き者が遅き者を叩くという、弱肉強食論に戻ってしまう。これでは詰まるところ、十六世紀の乱世の兵法に、次元を逆戻りさせただけであって、先人の培った智慧が全く生かされていない事を物語っているだけである。

 また武術と武道を比較した場合、武術は正対し、対峙する双方はお互いが「敵」であり、この辺が武道の「相手」という感覚とは異なっている。
 武道競技は、お互いが相手であり、従って相手がルール違反をしたり、卑劣な手段を遣(や)ったり、禁じ手を遣ったり、得物を持ったりすると罵声の限りをあれこれと論(あげつら)い、また一人に対し、二人以上の相手が現われて勝負すると、卑怯と詰って、これを憚(はばか)らない。一対一で、正々堂々と、正面からというのが武道競技のスポーツ的ルールである。

 また、演武形式を取っている合気道や大東流や、その他の柔術は、双方の相手が「取り」であり「受け」であって、「敵」という感覚を持たない。
 こうした演武形式の武道は、定められた約束事を、約束通りに熟し、品評会式に出来不出来を競うだけに終始する。早い話しが狎(な)れ合いの中で成立している演武を無難に、失敗無く、熟(こな)すだけの事である。

 しかし「戦い」という実戦の中で、自分に襲い掛かる輩(やから)に対し、「敵」という感覚が無ければ、武術としての「術」は成り立たない。
 敵は一人とは限らず、また素手であるという保障もない。巧妙な手段で悩ますかも知れないし、特殊な隠し武器を遣って、ほんの一瞬の隙(すき)を窺(うかが)って攻め込んで来るかも知れない。

 西郷派大東流は、こうした多敵に対して「多数之位」や「多敵之位」がある。
 これに備え、防備を図ろうとすれば、まさに敵対者は「敵」であり、あらゆる手段を計算に入れて、「心の備え」をしておく事が肝腎である。

曽川和翁宗家/多敵之位・剣

曽川和翁宗家/剣術における多数之位。

 武術には、不慮の出来事に対する備えの心がある。その心を「呼吸」というのである。
 この呼吸は一般に言う、空気取り入れの為の、息の吐納だけではない。隙(すき)を作らぬという事である。隙がなければ、背後の敵を感じることも出来る。不意討ちされる危険性も少なくなる。

 そしてまた、この呼吸は、相手と接し、あるいは人間と接し、良好な人間関係を保つ為の心得であり、時としては護身の備えにもなる。ここに相手の、あるいは敵の呼吸を外したり、受けたりする極意が存在するのである。

 心中の害意は瞬時に感知できなければならない。その為には、狂人扱いされるほどの「一人稽古」が必要であろう。
一人で、誰一人、観戦者が居ないところで修練を励むことは、孤独で辛い修行である。しかし、孤独に耐えてこそ、孤高を持す境地が見えてくる。秘伝に通ずる開眼の糸口があるとしたら、狂人扱いされるほどの猛烈な「一人稽古」であろう。


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