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西郷派大東流と武士道

■ 宇宙永遠なる武士道 ■
(うちゅうえいえんなるぶしどう)


 『葉隠』の著者(口述者)山本常朝やまもと‐つねとも/元佐賀藩士。田代又左衛門陣基(たしろ‐またざえもん‐つらもと)筆録)は、武士道に題してこう言う。
 「武士道と謂(い)うは、死ぬ事と見付(みつけ)たり。……(中略)……若(もし)図に迦(はず)れて生(いき)たらば、腰ぬけ也。此境(このさかい)(あやう)き也。図に迦れて死たらば、気違にて恥には成らず。是(これ)が武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(いおお)すべき也」と。
 常朝は、「生死は元々一如であり、生命は不滅、宇宙は永遠である」と力説しているのである。
 したがって「日々一生懸命に生きよ」と力説するのだ。「一日一生人生の如く、今を懸命に生き、その一瞬一瞬を、死を以てこれに充(あ)てよ」と言うのだ。常に、心に死を充て、生きれば、それは輝くというのだ。新鮮で生き生きしているというのである。
 だからこそ、死は決して恐れるものでもないし、忌(い)み嫌うものでもないと言う。これが死を超越する境地である。
 もし、あなたが明日死ぬとしたら、あるいは末期の症状などで死ぬ運命にあり、その必然的運命を変えられない事態であったら、「今」というこの瞬間をどう過ごすだろうか。ただ途方に暮れ、困り果て、嘆き、呆然(あぜん)と、わが運命を呪(のろ)うだけの時間を過ごすだろうか。

 人の死は、これでその人が居なくなる事ではない。人の死は、その人が「空」に至りて、寔(まこと)の生命に目覚め、燦然(さんぜん)たる一景を描くことにある。
 では、死を以てその一瞬に当てるとは、どういう事なのだろうか。
 「今、この一瞬」という、「今」という次元・瞬間がある。この「今」を大事にすることであり、「今、この一瞬」を真剣勝負で生きることだ。「今」を大事にすることが出来れば、当然己自身を大事にして、尊ぶ事が出来る。しかし人間は案外、浅知恵で行動していることが少なくない。
 形有るものに眼を奪われ、車やマイホームを大ローンを組んで購入し、物財や取り巻は非常に大事にするが、その一方で不摂生を繰り返し、保健や衛生に気配りせず、酒食に溺れ、自ら美食家を自称してグルメに明け暮れ、自ら命を縮めている現実はどうしたことか。
 恐れ、迷い、怒り、悲しみ、妬み、恨み、不平、不満などは、単に一切の病気の根源になっているだけではない。こうした事は人生を一層不幸にし、事業を不振にして、不幸現象を招く要因となっている。
 己を大きく向上させ、躍進(やくしん)し、完成の道に至るには、まず、己自身を「空しくする」ことである。大自然に対して畏敬の念を持つことであり、「今、この一瞬」に総てを賭(か)けて、身を捧げることである。ここにこそ、真の幸福は存在する。堕落や怠慢からは、幸福は生まれないものである。

 古人は「死に方」を重んじた。立派な死に方をしたいと念願した。それは何故か。 それは小事に対して、末(すえ)を乱す人は、大事に終りを全うしないからである。その為に悲惨な死に方をするからだ。
 立派な死に方は、正しく生きた人でなければ出来る事ではない。まして、生きて居る間は楽を得ることはなかったが、せめて死んだ後に楽を得ようというような、死して後の、極楽浄土を祈念する輩(やから)や、自殺願望者の死は、決して美しい死に態(ざま)ではないと断言できる。
 美しい死に方の出来る人、見事な死に方の出来る人は、「今、この一瞬」という、「今」という瞬間に真剣勝負で取り込み、そして見事に一生を大切にして生き抜いた人である。 武士道とは、一般に思われているように「死をイメージ」する類(たぐい)に扱われているが、実は「見事に一生を貫く秘法」を、求道者(ぐどう‐しゃ)となって求道することであり、ここに何年生きたか、何十年生きたかの年齢の差は問題ではない。

 大自然には四季が存在する。そして人間の一生にも四季(四期)が存在する。大自然の四季である春・夏・秋・冬に準えて、人間にも生・老・病・死の四期がある。
 吉田松陰は、この四季に題してこう答えている。
 「今日死を決するの安心は四時(四季)の順環(循環)に於て得る所有り」と。 つまり松陰は、穀物の狩獲に喩(たと)えて、死生観を説いているのである。農事を見るにつけ、春に種まきをし、夏に苗を植え、秋に刈り入れをして収穫し、冬にその穀物を貯蔵するという循環である。秋冬に至れば、農民がこれまで汗を流し、穀物の成長を育み、その働いた成果として収穫という歓喜が訪れ、米から酒を作り、あるいは甘酒を作って、農村は歓喜に充(み)ち溢れる。
 松陰は死を目前にして、三十年の人生を顧みる。
 「私は、今年で三十歳になった。そしてまだ一事の成功を見ることもなく死んで行こうとしている。これを穀物の四季に喩えるならば、穀物は花を付けず、また実ることも知らないで死んで行くのと同じだ。これに於ては非常に残念ではあるが、しかし私自身の身の上について言うならば、『今』が花を付け、結実の秋(とき)なのだ。したがって何を悲しむ必要があろう。何故ならば、人の寿命というものは天命によって定まっているからである。穀物のように毎年繰り返し、四季を巡る必要はないのである。

 

西郷派大東流合気武術

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