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古人の叡智が集約する護身武術

■ 西郷派大東流発祥の地 豊山八幡神社 ■
(さいごうはだいとうりゅうはっしょうのち、とよやまはちまんじんじゃ)

●受難の習志野時代

 その近年の過去を振り返れば、曽川宗家は平成2年9月17日、知人や地元出身の政治家を訪ねて単身上京した。最初に腰を据えた所は千葉県習志野市大久保だった。
 身装りは夜逃げ同然であった。

 「この時、随分と人には助けられた。生きていくのに自分だけが精一杯の時代、それでも人の温情があって、そういう人に助けられた。しかし高利貸しは執拗に追いかけてきたね」と、当時の取立の凄まじさを話してくれた。そしてぽつりと、「……ところが進龍一(関東方面指導部長)からは随分と助けられた。やつも四人の子供を抱えて、生活は苦しかっただろうに……」と、あの頃を振り返ってそう呟いた。
 ここで著作活動をしながら、この地で約1年半暮らした。

 しかし受難は次から次へと降り懸かった。
 平成3年11月頃、知る人ぞ知る、「金槌事件」を起こしてしまったのである。
 ある一人の善良な人が、習志野では鼻つまみであり、警察も手を焼いていた街のチンピラ学生12人から取り囲まれ、暴力を受けようとする寸前の時であった。
 曽川宗家は、助けを求めてきた人に応呼して救出に向かい、たった一人で全員を退治してしまったのである。それも金槌を持って、片っ端から頭を潰していったのである。全く獰猛の一言であった。早きこと、火の如しとは、この事を言うのであろう。

 日頃は横着で、傲慢で、喧嘩好きであった、街のチンピラ学生達も、この時ばかりは勝手が違うとみえて、曽川宗家から半殺しの目に合い、逆に助けを求めて近くのコンビニに逃げ込んだのである。
 これで一件落着と思った曽川宗家は、塒(ねぐら)に帰ってその日、酒を飲んで寝たところ、深夜、警察がやってきて、そこでいきなり逮捕されてしまったのである。
 そしてその夜ひと晩、警察署に泊められ、厳しく訊問を受けたということであった。

 しかし事の真相が明らかにされるに従い、その事件の経緯を理解した警察は、早朝曽川宗家を釈放したという。
 「その翌日はBABジャパンの、AtoZのビデオ撮影で、どうしようかと困っていたところだった。あの朝、釈放されなければ撮影は流れてしまうところでした」と、また他人事のように言う。

 この事件は、チンピラの殆ど全員が頭蓋骨挫傷という被害者となり、警察としてはありがた迷惑の出来事であったという。そしてこの事件から一ヵ月ほど経った頃、警察と習志野市福祉事務所の係官がやってきて、「引っ越し代と、当座の生活費を無償で支給するから、習志野を出て行ってもらいたい。あんたが居ると、ややこしくなるので……」と、わけの分からぬ申出があったというのである。要するに、街ぐるみの要望で追い出されたのである。

 これには行き先が無くて熟々困ったという。
 しかし捨てる神あれば拾う神あり。
 当時、愛知県豊橋市から曽川宗家の主宰する「東京講習会」に稽古を受講しにきていた、八光流皆伝師範・松永毅氏(当時69歳)が、「もし宜しければ、うちの道場に住みませんか」という有難い申出があり、さっそく平成4年元旦よりこの道場の居間に、間借りする事になったのである。この道場を神武館と言った。

 この頃、京都から曽川宗家の許に個人教伝を受けにきていたのが、東亜ハウス(株)社長の法澤剛雄氏(柳生流第十七代家元・岡田了雲斎先生の嫡男、当時54歳)であった。
 法澤氏は熱心な弟子であったが、「京都から豊橋まで通いで習いに来るのは、しんどいので京都に住んでもらえませんか。住まいも全て用意しますから」という事で、今度は京都から電車で17分の、滋賀県大津市瀬田に住む事になった。
 そしてここで開設した道場が玄武館であった。

 大津市瀬田に家族とともに9年間住み、平成13年3月、現在の北九州市小倉南区志井に研究所開設のために再び戻ってきた。
 曽川宗家は、ご自分の人生を振り返ってみて、「しかし何とも不思議で、奇蹟の連続だった」と語る。

 そしてまた今度、曽川宗家は新しい方針を打ち出した。
 自分の主宰する「西郷派大東流合気武術」というこの団体を、財団法人にする運動を始めた。
 個人名義の現道場の敷地並びに建物の一切を、未来の財団法人に無償で寄贈するというのである。更には、ご自分所有の古美術品などの動産の全ても、ここに無償で寄贈し、その代価を請求しない話が、此度、発起人の弁護士の間にまとまり、これが動き始めた。

 曽川宗家は、武術家とはまず、武人である前に、「一人の人間」でなければならないと説く。いくら武技に優れていても、人間を離れ、それを忘れて、殺伐とした好戦的なストリートファイターでは、多くの人の尊敬を集めないと説く。
 そして「武士道とは何か」と問われた場合、それは「人民への奉仕。全人格の全てを賭けて、有事の際には戦える亡国を憂うる士」でなければならないと説く。

 今日の日本は、国際的には発展途上国で、武道界・武術界は未だに次元の低い「弱肉強食理論」が吹き荒れている。
 そしてこれは十六世紀の乱世の兵法に逆戻りさせただけに過ぎない、という現実に気付かない愛好者によって、こうした武道や格闘技が展開されている。
 自分だけの勝ち、自分の所属する団体だけの勝利、そんな狭義的な一面ばかりが露出されて、武術本来の「戈を止める」という、本当の意義が見落とされていることは、甚だ残念である。
 しかしこうした曽川宗家の悲願は、必ず正しい評価を受ける時代が来るであろう。

●現在の総本部としての尚道館

 現在、尚道館に道を求めてやってくる人々は、むしろ小倉南北周辺や北九州市内からよりは、新幹線や北九州空港を利用しての遠方からやってくる人の方が圧倒的に多い。灯台元暗しという観が強い。

 最近は韓国やメキシコ、カナダなどからの合気道師範や大東流師範なども訪れ、また柔道関係者やフルコン空手関係者、並びに、変わり種はアメリカン・フットボールの選手までもが、直接曽川宗家から個人教伝を受け、「合気の業(わざ)に日夜精進している。

 その中でも、キューバ人でカナダ・オンタリオ州トロントを中心に、メキシコやキューバにも大東流合気柔術の道場を持つ、ゲリモ・デルクエト(Gillermo MurphyDel Cueto)師範は曽川宗家を尊敬する一人で、また、平成14年2月入門を許された韓国ソウル市の柔道家・金明進師範も、曽川宗家の不思議な人柄に魅せられて、韓国から個人教伝を受けに通ってくる一人である。

▲カナダ/ゲリモ・デルクエト師範(左)と

 今思えば、昭和42年4月、豊山八幡神社の境内に開設された小さな道場は、あれから時を経て、形なりにも安住の地を探したように見える。
 しかし曽川宗家は、人よりも一歩先を歩く人である。先駆者と言ってもよいだろう。
 こうした人は、むしろ賞賛を受けるよりは、中傷と誹謗、非難と無理解の矢面に立たされる場合が多い。これはいつの時代も同じである。先駆者につき回る必須条件だ。
 しかし、こうした異能の人材が悪しき世間票に振り回されて、闇に葬られることがあってはならないと思う。私は熟々そう感じるのである。

 曽川宗家は「誠を尽くせば、それに感じない人間はいない」と言う。
 だが、こうした事すら、軽く見られ、安易に見落とされているのである。
 曽川宗家が予言するとおり、今、日本人の間では民族の威信が失われ、金や物や色に支配される可視的世界が表面化している。肉体美だけが賛美される、浅はかな思考が横行している。しかしこのまま進めば亡国であろう。

 こうした亡国への憂いが、そのまま曽川宗家の憂いに反響する。
 「人間とは何か」
 「人生とは何か」
 「武士道とは何か」
 こうした次々に起こる疑問に対し、武術・武道を志す人は、表皮的な恰好だけの可視的現象に振り回されるだけでなく、もっと謙虚に、もっと真摯にこれを探究していくべきではなかろうか。

 いま、こうしたことの重要性に気付いているのは、むしろ日本人よりは外国人の方が多いのではあるまいか。
 その証拠に尚道館は、本物の武術・武道を志す人が国外から遠路遥々訪れるのである。


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