インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 西郷頼母と西郷四郎(十三) >>
 
西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●大いなる東

 日本は国家の歴史の中で、長い間、中国などの傍系文化国の影響を受け、その論理に左右されて来た国内事情を持つ。特に儒教の影響は少なからず、日本人の気質的・思考的影響が大きく、これがそもそも日本人の気質を育て上げたと言える。その最たるものが『修己治人論』であろう。この中には、朱子学的な儒教的な国家思想が見い出す事が出来る。

 儒教を母体にした『修己治人論』は、まず次のように説く。
 まず第一は、「格物致知」(かくぶつちち)の論理であり、「物格(ものいた)りて、后(のち)に知致(ちいた)る」と言う。これは万物を深く考え、類推することにより、理知(物の道理を分別理解する知恵)が生まれると教える。

 その第二は、「誠意」(せいい)であり、「知致りて、后に意誠(いせい)なり」と言う。理知を伴ってこそ、その人の仁であろうとし、その意欲は誠となると教える。これは私欲を離れ、曲ったところのない心で物事に対する気持を顕わし、「まごころ」を指す。

 その第三は、「正心」(せいしん)であり、意誠にして、后に心正し」と言う。誠は「まごころ」であり、これは陽明学ならびに朱子学ともに共通する事柄であるが、誠意がある心は、常に正しいものであると教える。心を正す事を指す。

 その第四は、「修身」(しゅうしん)であり、心正しくして、后に身修まる」と言う。正しい心で人生を全うすれば、自分の立場は自ずと固まり、人々から高く評価されると教える。自分の行いを正し、身をおさめ整える事を指す。

 その第五は、「斉家」(せいか)であり、「身修まりて、后に家斉(いえととの)う」と言う。確固たる個人は周囲からの祝福と称賛を受けるばかりでなく、家族や親族も良い方向に持って行かなければならないと教える。家庭を整え治める事を指す。

 その第六は、「治国」(ちこく)であり、「家斉いて、后に国治まる」と言う。国民が国民の義務を果たし、こうした人々で構成された国家社会は、自(おの)ずから正しい在(あ)り方になると教える。国を治める事を指す。

 その第七は、「平天下」(へいてんか)であり、「国治まりて、后に天下平らかなり」と言う。確固たる社会が構築されれば、万物の道理は一定しにて不変の安定を迎え、平らかに治まり、戦乱は起らず、クー・デター(非合法的手段に訴えての政権争奪)や革命(revolution/従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること)などはあろうはずがなく、平和に治まる世の中が到来すると教える。国を治めて急激な変化を求めず、更に天下を安んずる事を指す。

 その第八に、「万物の不変」であり、万物が不変であれば、次の世も、この教えに従い、不変で平らかな世界が出現するであろうと教える。万物が安定していて、この万物は未来永劫(みらいようごう/未来永久にわたること)にまで、穩やかで不変である事を指す。

 そして多くの日本人は以上の事柄を修身教育で心の底から信じ、これを実践する為に、道徳を基盤として己(おのれ)を修め、出しゃばる事なく、自己主張を強めず、人を説得し納得させ、人間集団を治める論理を儒教の中で学んで来たと称している。しかし、果たして儒教の教える論理は、理想境を導き出し、その理想境なるものが地球上の何処で存在したのだろうか。

 古今を通じて皆無である。また、『修己治人論』の最終段階に位置する「万物の不変」は、現象人間界ではあり得ないものである。何故ならば、万物は常に流転(るてん)しているからである。万物は常に流動変化して極まりがない事が、この世の中の現実なのだ。
 時は流れ、刻々と変化し、新しいものは古くなると言う制限下に人間は生きている。常に時間と空間に制約され、物理的乗り物がなければ、わが身一つ移動させる事は出来ない。また、現代人は交通機関と交通手段の発達によって、他国との距離を縮めてしまった。しかし交通に掛かる時間を、如何に縮めてみても、人間は生まれた以上、確実に死へのメルトダウン(melt down/炉心溶融)を進行させている。

 この現実の下(もと)では、喩(たと)え神でも、齢(とし)を取るのである。神すらも、人間と同じように生まれて来た以上、寿命もあり死もあいうるのである。最初は黄金のように眩(まぶ)しく輝いている神すらも、その黄金の色はやがて色褪(いろあ)せ、齢と共に老醜(ろうしゅう)が襲うのである。今迄は年齢の変化に気付かなかった神も、やがて輪廻転生(りんねてんせい)の法則くにより、神も寿命が尽きれば、身に「五つの衰え」が現れるものなのである。そして、やがては死滅するのである。

 命ある者は、喩(たと)え神でも、死の法則からは逃れる事は出来ない。神に現れる衰えは、失明、落下、発汗、汚臭、絶望である。喩え、天界の神すらも、死の法則から逃れることができないのである。
 これと同じように現象人間界には、『修己治人論』では片付けられない、「合成の誤謬(ごびゆう)(fallacy of composition)なるものが存在している。
 例えば、この現象を経済学的に言えば、個人を富ます貯蓄は、ケインズ経済学(イギリスの経済学者ケインズJohn Maynard Keynesの『有効需要理論』『乗数理論』『流動性選好理論』を柱とする主著「雇傭・利子及び貨幣の一般理論」(1936年発表)などによって、ケインズ革命と呼ばれる独創的な経済理論を形成した経済理論)を挙げるまでもなく、経済全体は貧しくなるのである。これこそが「合成の誤謬」なのだ。

 例えば、老後の生活に備えて、各個人がみんなが貯蓄を始めたらどうなるだろうか。この時、各個人は貯蓄によって富むであろうが、個人の貯蓄は消費を激減させる。同時に消費の激減は、有効需要(ゆうこうじゅよう/実際の貨幣支出の裏づけのある需要)をも激減させてしまう。次に、有効需要が激減するとどうなるか。
 まず、国民生産ならびに国民所得が激減する事になる。

 これまで多くの日本人は、儒教の影響もあって、個人を富まし、個々の家庭が心身ともに健全ならば、国家全体も富み、富国強兵(ふこくきょうへい/国を富ませ、兵力を強めること)の理論で、国家全体は健全な状態が維持できると信じて来た。あるいは逆に国が豊かになれば、個人も豊かになると信じて来た。富国強兵によって経済と武力の両方を兼ね備え、強力な国家が出来上がれば、同時に国民も経済的に豊かになり、強い国家として世界に君臨できると考えて来た。ちょうど、今日の世界の警察官を気取るアメリカの如きである。
 しかし、資本主義の総本山であるアメリカは、貿易赤字に苦しみ、経済的には最後の足掻きを行っているではないか。
 「合成の誤謬」は個と全体の関係の中にも巣喰っていたのである。

 したがって儒学の影響によって、多くに日本人が信じていた、「修身」「斉家」「治国」「平天下」のまさに正反対の命題が、「合成の誤謬」によって出現した事になる。
 儒学の朱子学から発展した「格物致知」は、哲学的に言って、やや直観的な論理で貫かれている一面が否めない。孔子は儒教を、キリスト教やユダヤ教のように預言の書で色彩(いろどり)はしなかったが、逆に宗教の一面を従えながら、預言(よげん)に満ちた言葉が一言も出て来ないのが他の宗教と異なるところだ。また、仏教の如き、自己開発の超能力や、神通力すらも全く説かれていない。

 孔子を祖とする教学の儒学の教えは、四書・五経を経典とする一種の道徳や修身に終わっている観が否めない。そして、孔子に始まる中国古来の政治や道徳の学問は、後漢に五経などの経典が権威を持ち、儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた学問的な形跡は止めたものの、六朝(りくちょう)・隋(ずい)・唐(とう)代には経典の解釈学は進んだ反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時おくれをとった事は否定できない。また、インド哲学の数学的な概念の「ゼロ」の発想は、とうとう最後まで出て来なかった。

 宋(そう)代に「宋学」が興り、特に朱子学による集大成を見た以後は、清末まで中国思想の主座を占め続けた。しかし、その間、朱子学が体制教学化する一方、明(みん)代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて、多くの儒家による学理上の革新が続き、苦難の淵(ふち)を辿りつつ、日本には応神天皇(おうじんてんのう/第十五代天皇で五世紀頃の天皇であったと推定されるが天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后とされ、『記紀』に記された天皇であるがその真意は謎)の頃に『論語』が伝来した【註】この信憑性も低い)と称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降の事であり、幕末には陽明学が倒幕運動の原動力に遣われ、儒学から始まった朱子学は、人間の行動原理とはなり得なかった。
 そして陽明学と同じように「格物致知」ではじまる朱子学は、数学的帰納法の命題で、矛盾点が幾つか曝(さら)け出される。
 「合成の誤謬」的な思考で、朱子学を論理的な詰めを行っていくと、完全な構成で出来上がったものが、不合理の背理で、論語学者も立つ瀬がない程、意図も簡単に突き崩されてしまうのである。

 特に、朱子学的儒学は、「格物致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」「万物の不変」と順に循環させ、回帰の路程を辿り、論理的に追求していくと、最初は完全な形になっていたと思っていたものが、帰趨的(きすうてき)には正反対の形となって現れるのである。
 「格物致知」で始まる朱子学的儒学は、数学的な観点から検討すれば、喩(たと)えば、方程式の均衡点と図式の均衡点が安定条件(stability condition)を充(み)たしている時に限り、一致するものであって、数学的帰納法から考えた場合の相互連関の三条件が一つでも崩れてしまえば、忽(たちま)ちのうちに必要十分条件は充たされなくなってしまうのである。

 この場合の三条件とは、均衡条件(equilibrium condition)、存在条件(existence condition)、安定条件(stability condition)の三つであり、数学的帰納法が真の命題に対し、それを証明する時に限り、説得の技術として論ずる事が出来る。そして人間現象界は、「関接効果」というものが常に存在しており、これを「波及効果」というが、この効果が人間社会の生活・経済に影響を与える場合、直接効果の四倍の威力で現象界を襲うと言う事を知らねばならない。要するに「2」の二乗である。

 そして資本主義における「ねずみ講」は、最初はジャンケンのような、「三竦(さんすく)み」であり、『関尹子』に出て来るような、ナメクジは蛇を、蛇は蛙を、蛙はナメクジを食うとあるところから、三者は互いに牽制(けんせい)し合って、いずれも自由に行動できないことで、推移律(sliding order)を充たさず、循環律(cyclic order)を充たす構造になっている。宣伝効果によって新製品を売れ続けている間はいいが、その商品が末端まで行き渡ると、形や内容や性能の改良が迫られ、再び新製品を発売し、これを底辺の裾野(すその)に広げる循環律を企てねばならない。
 新製品発売当時は最高のできばえで、最初はちょっと見ただけで、合理的に思えた大概の選択が、やがては時代と共に古くなり、推移律を充たさなくなるのである。

 つまり、ある集合の二元対極に対して、定義された関係ある条件下において、喩(たと)えばa〜b、b〜cならば、a〜cであるという「三竦みの法則」であるが、反射律(はんしゃりつ)や対称律(たいしょうりつ)とともに、同値の概念を規定する移動おいて、個人の選択が合理的であっても、全体の選択は合理的でないと言う現実が発生する事である。
 したがって資本主義社会では、近代資本主義の最終段階に「高度大衆社会構造」を設けねばならず、大衆を煽る事で消費の為の消費を繰り返し、あたかも大衆が豊になったかのような錯覚を持たせ、大衆消費を促す事により、個人の消費増減を右上がりに導き、大衆挑発の仕掛けが機能していると言う事が分かるであろう。つまり、推移律は充たさず、循環律のみを充たすという現象が「ねずみ講擬き」の資本主義の実体である。

 これにより、『修己治人論』の如き、個人の選択が総べて合理的であっても、全体的には不合理が起ると言う事実が確認されるのである。
 その逆に、全体主義を取り入れ、一人の独裁者のカリスマによって個人的な豊かさを無視し、あるいは基本的人権すら蔑(ないがし)ろにして、一人の人間に権力を集中させ、個を全体に置き換えて実現させるのが社会主義である。全体主義に至れば、個は悲惨になる事は目に見えているのである。何(いず)れにしろ、虚構理論である事は間違いない。

 歴史を振り返れば、明治維新の命題は、封建制打倒と、日本に近代国家を創出させ、身分制度を崩壊させる為の「四民平等」であった。この広義の命題は、新政府の財政を潤(うろお)す為に廃藩置県・秩禄処分・地租改正など様々な改革が企てられ、その第一義が身分制度を廃止して、法律上「四民平等」になることであった。封建時代の旧体制の要(かなめ)である身分制の四階級の士・農・工・商を、徳川封建制の破壊と共に、汚く崩す事にあった。特に工・商に位置していた者は、規制が緩和されて資本家へと伸(の)し上がって行く。
 そして日本は四民を平等にして、デモクラシーを取り入れようとした時、奇(く)しくも共和政を取り入れず、王政復古を行い、天皇を中心とする君主制を取り入れたのである。この点は、西欧の共和政あるいは民主政とは大きく異なる点である。一種の時代逆行であった。

 明治維新革命によって、旧体制である徳川封建制は取り除かれた。表面的には、国民の目にそのように映った。ところが、薩長土肥の下級士族達が革命の功労者になった後、そこに存在したものは、決して四民平等などではなかった。維新功労者の、細胞としての血縁が重視されたのである。その最たるものが華族の爵位(しゃくい)の登場ではなかったか。これは徳川封建時代より、更に時代後退した措置であった。
 また、一口で天皇制の採用と言うが、決して天皇制を主体に置いたのではなかった。明治憲法(大日本帝国憲法)下では、天皇に最高の権威と大権を与えたが、この大権を、天皇に一度も遣わせた事はなかった。最高の大権を与え、然(しか)もこれを天皇に遣わせない。これこそが薩長土肥をはじめとする藩閥政治の最たるものであった。

 では、天皇制の実体とは何か。
 その第一は、オーソドックスに見て、天皇制を政治権力の掌握と実行と見る場合である。これは古代天皇制と近代天皇制の、いわゆる天皇親政だけが本来の天皇制とする考え方と、これに対して、歴史的に一貫したものは「祭司王」(祭儀・呪文(じゆもん)に通じ、霊験をもたらす者、また、神霊の代表者として、信仰の対象と俗人との間に立って宗教上の儀式・典礼を司る最高責任者)として、宗教的な対称としての存在であり、政治権力を持つ天皇制は異例のものであると言う考え方である。これが、今日でも天皇制を、簡単に理解できない理由となっている。

 また天皇の使用価値は絶大なものがあり、これは一貫して明治以降の戦前も、戦中も、戦後も天皇は常に政治支配に利用されて来た。そしてデモクラシーの世である今日に於いても、天皇は利用され続けると言う不可解な現象が起こっている。デモクラシーとは、途轍(とてつ)もなく難しいシステムである。一歩間違えば、愚衆政治になる事は目に見えている。こうした事実を踏まえれば、人間は一口で平等であると言っても、その言は容易は、理解できないほど難解な命題であるといえる。
 「人間は平等である」と近代社会ではじめに言い出した人物は、イギリスの哲学者であったホッブズ(Thomas Hobbes/1588〜1679)であった。

 ホッブズは自然主義や唯物論を国家や社会にも適用し、自然状態では、人間は万人の万人に対する闘いの状態にあるが、相互の契約によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従うことが出来れば、永遠の平和が確立されると説いた。更に彼は、人間が平等である以上、力の総体も、そんなに差がないと説いた。総体力がほぼ同じであるならば、人間は平等であり、ある人が失敗すれば、失敗者は成功者を怨むわけであると、人間の最も自然で、感情的な観念に存在する「嫉妬」を説いた。そして彼の結論は、人間は平等であるから、その観念に嫉妬が生まれ、本来誰もが平等と思うから嫉妬心が起るのだとした。

 こう考えていくと、デモクラシーの世界では、最終的に誰が勝利者になるか分からないのである。格闘技のような肉体戦は、体力が強く、戦うテクニックを持っている者が勝つが、しかし、デモクラシーの論理に立つと、その人は、次の人とあまり差はないと言う事になり、また、齢を取るので、次の世代の若者から必ず負けてしまうと言うのである。だから、どんなに強くても、必ず勝と言う保証はないと言うのである。

 だが、これにも落とし穴がある。
 それは人間は生まれながらに平等ではない事だ。
 デモクラシーは個人のエゴイズムを最大限に発揮しても、法的には、何一つ罰されない社会システムである。これを個人の総てが最大限に利用した場合、総ての人間が、自分が、自分がと主張し、自分の利益と他人に利益が正面からぶつかりあって衝突した時、「万人に対する、万人の闘い」が繰り広げられる。これが秩序の崩壊であり、自由奔放から派生する社会的危機の発信源となる。共倒れの危険性があり、国家間の戦争もこうした発想の中に包含されている。したがって、ヘーゲルのデモクラシーの欠陥を理論的に乗り越えようとする考え方に行き着くのであるが、そもそもデモクラシーとは、最終目的の真理ではなく、手段だと言える。

 この事を指摘したのがルソー(Jean-Jacques Rousseau/フランスの作家・啓蒙思想家。1712〜1778)であった。
 ルソーは、全体意志(=一般意志)と、多数意志(=特殊意志)を区別し、多数意志は真理を代弁していないと指摘した。デモクラシーに於ては、昨今の政界の茶番劇も見ても分かるように、各々の利害は、調整を行い、多数を占めた者が勝つと言う構図になっている。これに対し、全体の事を考える意志がなければ、理性的な存在者あるいはどんな条件下でもあらゆる事に答える事の出来る存在者が必要になり、ルソー曰(いわ)く、自分の言う事をみんなが聴く事が民主主義であると主張したのである。何と言う恐ろしい考え方であろうか。

 これを典型的な形で実践したのが社会主義であった。個人の独裁によって諸問題を解決し、旧弊(きゅうへい)を治(なお)そうと言う考え方である。そして、これこそが虚構理論の最たるものであると言う事が分かる。
 個の理論に従えば、内容などはどうでもいいから、あらゆる事も、独裁的手法で、何でも遣(や)っていいと言う事になる。かつてのソビエトがそうでなかったか。ソビエト連邦一千万人以上の粛清(しゅくせい)もこの理論から行われた。

 一方、デモクラシーは、間違ってもいいから、多数意見を取り入れ、それを実行に移すと言うのが民主主義であり、これに対峙(たいじ)するのが社会主義の、一人の人間に権力を集中させ、その通りに実践するというのが社会主義である。
 社会主義の場合、個人の独裁であるから、その人の思考がどんなに正しくても、それを全体に取り入れて実行しようとした場合、社会は悲惨な状態が現れる。「合成の誤謬(ごびゆう)(fallacy of composition)なるものが存在するからだ。
 個がどんなに優れていても、社会全体が優れていると言う事にはならないからである。

 社会全体を優れたものに導こうとするならば、個全体の各々が努力して、一様に優れた存在にならなければならないからである。しかし、人間社会の現象界で、個全体が優れたものに進化し、それが可能になるという時代は、淘汰を必要とし、現状では個自体の万人が優れたものに変身すると言う事はあり得ない。

 そこで登場するのが、西郷頼母の霊的神性から導き出した民主主義ならぬ、「神主主義」である。
 神々の徳をもって、人間より一等も、二等も上位にある、神の集合体で政(まつ)り事を行い、社会全体を統治し、下位の人間を正しく導くと言う考え方である。頼母は《大東流蜘蛛之巣伝》の構想の中に、この神主主義を取り入れようとしたのである。こうした事は、頼母が北畠(村上源氏の一流で、のち伊勢国司の家柄で南北朝時代の公家)陵参拝の折の祈念にも窺(うかが)われる。

 人間には、神霊学的に言って、正守護神と副守護神の両方を所有する。
 物質文明の恩恵に預かっている間は副守護神が優勢となり、逆に精神世界が理解できるようになれば正守護神の働きが活発となる。今日のように金や者や色に踊らされている間は、副守護神が優勢であり、精神世界の重要性に気付かず、正守護神は眠ったままである。いわゆるこれが、体主霊従(たいしゅれいじゅう)の現実であり、物質社会では肉体が九割強を占め、霊体はわずかに一割弱である。だから金や者や色が先行し、誰もがこれに溺れる現実がある。

 明治維新と言うフリーメーソン革命も、下級武士や豪農や豪商が、時の権力体制に抗(あらが)って、これを逆転させた下剋上ではなかったか。
 天皇を現人神(あらひとがみ)と看做す攘夷思想とは異なって、今日のように象徴に祭り上げ、この象徴を利用した観が否めない。
 この意味に於て西郷頼母の攘夷思想は、薩長土肥からなる欺瞞(ぎまん)を公言する政治家どもとは根本的に異なっていたのである。

 西郷頼母の熱烈なる尊王家ぶりを考えた時、そこに見るものは、自分の信じる者を絶対真理と考える陽明学の思想であった。
 陽明学に回帰すれば、歴史上の闇(やみ)に葬らてた人物の中に、ある人物が浮かび上がって来る。西郷頼母の非運は、まさに幕末と言う時代を的確に捉えた為に、賊軍の汚名を被り、それに甘んじたのではなかったか。

 物部守屋(もののべのもりや/敏達(びんたつ)・用明天皇朝の大連(おおむらじ/官職の地位の一つで、大和朝廷の執政者として参与した。連の姓(かばね)を持つ諸氏中の最有力者が任ぜられ、ふつう世襲する。記紀伝承では物部・大伴両氏から出て大臣(おおおみ/大和朝廷の執政者で、臣(おみ/朝廷に仕える臣下)の姓(かばね)を持つ諸氏中の最も有力な者が任ぜらた)と共に執政したが、六世紀末に大連物部守屋が大臣蘇我馬子らに滅ぼされたのを最後とする)で、尾輿の子。仏教を排斥して蘇我(そが)氏と争い、塔を壊し仏像を焼く。用明(ようめい)天皇の没後、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために滅ぼされた)の家来であった捕鳥部(ととりべ)の萬(まん)という勇者と重ね合せてしまう事がある。そして彼の姿こそ、武神に相応しい軍神ではなかったか。

 頼母の敗北の屈辱は、鳥羽・伏見の戦い、会津戊辰戦争、函館戦争、西南の役と続いている。そしてその足跡には悉(ことごと)く、逆賊としての汚名が被された。それは遠い古(いにしえ)の時代にまで遡(さかのぼ)る。西郷頼母はこの雪辱(せつじょく)を晴らす機会を、死ぬまで抱き続けたに違いない。

 崇峻(すいしゅん)天皇二年(589)七月、河内(かわち)の国では熾烈(しれつ)な戦いが繰り広げられていた。
 『日本書紀』によれば、その当時の戦いを、次のように描写している。
 「戦塵(せんじん)は今にも天に届き、将兵は雄叫(おたけ)び、軍馬はいななき、凄まじい弓矢の応酬で一大決戦が行われた」とある。

 当時の政局は蘇我氏(蘇我馬子)が穴穂部皇子や物部守屋らを制圧し、朝廷独裁体制が出現しかけた頃であった。圧倒的な優勢を誇る蘇我氏は政治力と物量作戦を駆使して優位に立ち、物部軍を窮地(きゅうち)に追いやり、窮する物部軍は身動きがとれずにいた。この時、萬の主人であった守屋は討ち死し、物部軍はこの戦に大敗を帰した。この敗戦の最中、萬はただ一騎で、旧領地であった和泉の国に落ち伸び、再び募兵を募って蘇我氏と最後の一戦を交えようと試みたが、募兵は思うようにならず、結局一人で戦う事になった。既に萬に従う兵はなく、彼一騎のみで奮戦する事になる。

 蘇我氏は「勝てば官軍」の喩(たと)えから天皇の軍となり、山に篭(こも)って一騎奮戦する萬に、「すみやかに輩を滅ぼすべし」という朝命が下った。
 萬の篭った山には、数百の精鋭部隊がこれを包囲し、今にも総攻撃が始まろうとしていた。しかし、また萬の作戦も決死の覚悟に貫かれた見事なものであった。

 『日本書紀』には、「萬、衣裳弊(きものや)れ垢(あか)つき、形色憔悴(かおかし)けて、弓を持ち剣を帯きて独り自ら出て来れり」とあり、この直後、彼は勇戦する。その戦い方は緻密(ちみつ)な計算と巧妙な策が駆使されており、戦場に粗密を巡らせて敵を散々悩ませた。粗(敵に姿を見せつける)なる処に敵を誘い込み深追いさせて、敵の密なる部分を不意打ちで撹乱させて、近づくと見せかけては離れ、離れると見せかけては近づいた。まさに孫子の兵法の「粗・密」の戦場展開である。

 しかし最後には、膝を弓矢で打抜かれ倒れてしまう。その倒れた萬に、敵は飢えた狼のように群がり、それでも幾人かを薙(なぎ)倒しながら戦い、そして三十数人を打ち倒して、弓を折り、剣を川に投じて、ついに力尽きて自らの首を短剣で刺して絶命した。彼の屍(しかばね)は逆賊として八つ裂きにされ、更に八つの国に持って行かれて串刺しにされた。それが朽ち果てるまで数ヵ月間、風雨に曝(さら)されたという。

 萬は物部守屋の「天皇(すめらみこと)の楯(たて)」という言葉を信じ、それを絶叫しながら最後の一騎になっても戦ったのである。しかしこの絶叫に、誰一人として耳を貸す者はなかった。萬は絶叫しながら、「共に語るべき者来れ。願はくば殺し、虜ふることの際を聞かむ」と悲痛な言葉を語って息絶えたという。まさに萬の信じて貫き通した行動こそ、陽明学の言う「絶対真理」ではなかったか。

 会津藩の悲劇を考えた時、頼母の心には、この萬の心境に近いものがあったのではあるまいか。
 孝明天皇の信任の熱かった松平容保は、坂本龍馬の策した薩長同盟(裏では武器商人トーマス・ブレーク・グラバーが坂本龍馬や伊藤博文を操っていた)によって、会津・薩摩同盟は反故にされ、一転して会津藩は裏切られた形になった。まさに戊辰戦争に敗れた会津藩士達も、「共に語るべき者来れ。願はくば殺し、虜ふることの際を聞かむ」と悲痛な絶叫と混乱に号泣(ごうきゅう)したのではあるまいか。結局彼等は、時代の流れに置き去りにされて行ったのである。

 特に、会津戊辰戦争の敗北は、「尊王愛国」を掲げながらも、逆賊として扱われ、その汚名を着て、錦の御旗の官軍に殺された会津藩士たちは、もしかすると萬の末裔(まつえい)ではなかったのだろうか。
 また征韓論に破れ、「西南の役」で逆賊の汚名を着た、西郷軍(西郷隆盛)も萬の末裔(まつえい)であったような気がしてならない。それはあたかもフランス革命当時のマリー・アントワネットのような心境ではなかったか。

 元フランス国王妃マリー・アントワネットは死など、ものともせず、悟り切った尼僧(にそう)の面影を漂わせながら、断頭台に上ったという。彼女は、オルレアン公の庇護(ひご)の下(もと)にパレ・ロワイヤルに集まった革命主義者や、ルソー主義者や、反体制主義者等の不平分子と結託した一握りの銀行家や金貸しに踊らされた革命家の毒牙にかかったのである。

 勿論、これらの不平分子や革命家達に資金を提供し、裏側から彼らを操ったのは、革命主義や共和政治の名の許に、金融独占を企てた一握りのユダヤ人銀行家や高利貸し達であった。これ以降、世界の経済は銀行家や高利貸し達から、大衆は裏で操作される時代を向かえる。これが金融経済の始まりである。

 また彼女は、口先だけで、自由・平等・博愛(当時のフリーメーソンのスローガンは、この部分が友愛)を唱え、血を血で洗う欺瞞(ぎまん)に満ちた革命家たちの利殖(りしょく)と打算を心から軽蔑し、恐怖政治の狂気の沙汰(さた)を尻目に見ながら、一切の嘆願もせず、抗弁や弁明もせず、一度も取り乱したり、あるいは自信や気品すら失わなかった。

 三頭政治(さんとうせいじ/triumviratus/三人の有力者が鼎立(ていりつ)して行う政治で、寡頭政治の一形態)を形成した沐猴冠(もっこうかん)のロベスピエール、ジャコバン党(ジャコバン修道院を拠点とし過激派としても有名)の公安委員のサン・ジュスト、躄(いざり)のクートン達の、骨を刺す毒舌家の恐嚇(きょうかつ) にも恐れず、なぶり殺しに等しい責苦の中にあっても、終始ハプスグルグ流の気高き誇りを片時も忘れず、その品位を保ったという。また、身の熟(こな)しも、王家の気品を保ち、背筋を伸ばし優雅であったともいう。流石(さすが)マリア・テレサ(マリア・テレジア)の姫君に恥じぬ堂々たるものであった。

 フランス革命の恐怖政治の許(もと)で断頭台の露(つゆ)と消えたのは、一説によれば約七万二千人以上と謂(い)われているが、王侯から庶民に至るまで、死に際して非常に立派な人が多かったという。マリー・アントワネットもその一人であった。
 此処に人間としての、気品の高さと潔さの誇りがある。会津藩士達も、気品の高さと潔さが誇りであったに違いない。
 そして時代は移り変わり、明治も半ばに差し掛かった頃、再び浮かび上がってきたのが「大(おお)いなる東(ひむがし)」を掲げた大東亜思想であった。

 此処に頼母は、新たな新天地・中国大陸に向かって、「五族共栄」の理想が泛(う)かんだのではなかったのだろうか。それに示唆を与えたのが樽井藤吉(たるいとうきち/社会運動家で奈良大和出身。自由民権運動に参加し、社会問題・大陸問題に関心を寄せ、1882年(明治十五年)東洋社会党を結成する。大井憲太郎らと大阪事件に連座。著書の『大東合邦論』は有名。1850〜1922)の『大東合邦論』であったに違いない。また、「大東流」の流名由来は、新羅三郎源義光の「大東の館」や、甲斐武田家の遺臣・大東久之介の「大東」の苗字から起ったもので無い事は、この事からも明白である。

 樽井藤吉の『大東合邦論』の著書のメーンテーマである「大東」の二文字が、頼母に《大東流蜘蛛之巣伝》の構想を描かせ、極東の優れたものが大東流であったのである。
 一般に大東流や合気道の信奉者に信じられている「女郎蜘蛛(じょろうぐも)伝説」は、時代遅れの様相をして、全国武者修行を行う武田惣角を哀れに思い、惣角の為に御墨付きを認めたもので、これを鵜呑(うの)みにするまでの歴史的信憑性は全く無いのである。


戻る << 西郷頼母と西郷四郎(十三)>> 次へ
 
TopPage
   
    
トップ リンク お問い合わせ