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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●兵法や軍学を集積した大東流

 合気を標榜し、合気を名称にしている武道団体や武術団体は、最近徐々に増えて来た。それ等はいつの間にか、大東流の系統図に名前が組み込まれたり、また自称「大東流○○会」の研究会形式を名乗る人も決して少なくない。

 このグループの多くは、直接大東流の指導者から技法を教わったのでも、教わるのではなく、文献から、あるいは『大東流合気武術』の書籍から柔術レベルの技を模倣し、グループ長を中心に練習を行い、マイナーな武道雑誌等で練習仲間を集め、本質は同好会的な研究会であり、それを自ら大東流と称しているようである。
 また合気と称しながらも、実はそれが単なる筋力養成の基本柔術であったり、名前だけの抽象的な標榜であったりしている事が少なくない。

 更には、合気をキリスト教的な宗教観で捕え、合気の「合」を「愛」と称したり、老荘思想の「宇宙森羅万象論」を持ち出して、万物の融和や調和を強調して、既に「戦闘」する事を忘れたり、人類社会構造の要に「融通無礙」や「調和円満」を早々と持ち出して、これをそ人類の進むべき平和の道と、宗教的な色彩を強め、それを豪語して憚(はばか)らない輩(やから)もいる。
 また昨今、西郷派大東流合気武術が膨大な研究資料をホームページ上に掲載している為、そのよい所だけを失敬し、あたかも自分の団体や研究会に古くからあったような文章の書き方をしている、自称「大東流研究会」などがある。そして「合気」という言葉は、最早死語になり、様々な憶測が流れ、あるいは一方的に傲慢(ごうまん)な人間によって吹聴(ふいちょう)され、流言が流され、「合気」の二字は、益々錯綜(さくそう)するばかりである。

 錯綜する情報の中で「合気」の二字は一人歩きしていると言うのが現実のようだ。
 また、触れられた瞬間に手が痺(しび)れ、力が抜けて動けなくなるという「触合気」や、一瞬にして大勢の敵を潰したり、倒したり、重ねたりする「重合気」を得意とする人も居るが、概ねは武田惣角や植芝盛平の武勇伝に、あわよくば便乗しようとしている人達であり、これ等の人達が、自らの技法を実演して大相撲の力士や柔道無差別級の巨漢選手を「触合気(ふえあいき)」や「重合気(かさねあいき)」で倒したという話は一度も聞いた事がない。総ては武田惣角や植芝盛平の武勇伝に、ちゃっかりと便乗しているのが、大東流や合気道の愛好者の実情である。

 われわれは冷静になって考えた場合、日本は今日まで歴史的に見て、多くの武術の達人を生み出して来たと考えられるが、日本人特有の情緒的な考え方から推察すると、「柔能く剛を制す」的な、小が大を倒す、奇襲戦法の好きな民族性が、そういう感性を育て上げたと謂(い)えるのではあるまいか。

 日本人の最も好む戦績は、今日でも繰り返し芝居や舞台で上演され、その多くが「義経の鵯越(ひよどりご)え」「正成の千早城」「信長の桶狭間(おけはざま)」である。そして忠義の代表格として「忠臣蔵」があり、これ等は総て「大が小を倒す」典型的な構図となっている事に相似性を見い出すのである。

 またこれ等の共通点は、勝利は誰の眼から見ても、劣勢であり、その殆どは勝算がなく、既に戦う前から決着が着いたものと扱われ、それを客観的に見た場合、何(いず)れも無謀な戦いであったと分かる。しかし日本人の心情は、このような戦いを無謀な戦いと謂(い)わず、神風(神の威徳によって起こる風と信じられ、「元寇の役」のときにこの風は吹いたとされる)を期待し、逆転を期待して、むしろ勇将や知将に率いられて小兵力が大兵力に戦いを挑んで、大敵を破る事に日本人は異常な情熱を燃やし、これを支持するのである。
 今日大東流が武道界から注目を受け、「大東流合気」をかくも絶賛するのは、武田惣角や植芝盛平の、小柄な体躯から、「小が大を倒す」という痛快な格闘場面(喩えば惣角の白川郷での対決や、丸茂組相手の痛快武勇伝)のみに集中しているようである。この事は作家・津本陽の武田惣角を題材にした『鬼の冠』、植芝盛平を題材にした『黄金の天馬』等からも窺(うかが)える。

 大東流愛好者や、これを絶賛する評論家の多くは、この二人の偉人を持ち上げ、引用し、神格化する事を忘れない。そして、それに付け加えるロマンめいた言葉が「指一本で巨漢を投げる。あるいは指一本で潰す」という、清和源氏伝説に基づいての合気伝説で、それを「神秘」と豪語して憚らない。

 これ等を、大東流の宣伝した著書から引用すると、「合気揚げ―つかまれた両手首または片手を、上に揚げながら外す練習―は合気の基本を会得するものであるが、この練習一つから上下左右に無限の変化が生ずる。この練習によって合気の力の養成をされた者は、いくら剛力の者に強く手首を掴まれても、簡単に外して逆手を極めたり、あるいはそのまま前後左右に自在に投げ飛ばすことができる。さらに上達すれば、相手が掴んでいる手を離しで逃げようとしても、相手の逃げようとする方向について行って、そのまま千変万化の技法を用いて極めてしまう。(中略)かつて武田惣角が松永正敏陸軍中将の要請によって、仙台第二師団の講習におもむいた時、松永中将より、『合気は自分の体を支えるもの(地面や床など)がなくともできるのか?』と質問された惣角は、五、六人の兵士に自分の身体をかつがせて『胴上げ』にさせ、手も足も宙に浮かせた状態から、一瞬にして兵士達をつぶして(倒し)てしまった。しかも、ただつぶしただけでなく、そのままつぶされた兵士達は合気で極められてしまい、だれ一人として動くことが出来ず、中でも真下にある者はつぶされる時に、尻で水月を当てられて悶絶してしまった」(松田隆智著『秘伝日本柔術』より)と説明を加え、惣角の武勇伝が如何に凄かったかを克明に伝えている。

 近代的軍隊として武器の操作を心得、形なりにも明治当初の軍隊とは異なり、江戸時代の兵法より遥かに進歩した近代的軍隊が、意図も簡単に江戸時代の感覚を残した旅の武芸者・惣角からひねり潰されたとする事実は驚愕に値する。しかし前時代の武芸者が奇(く)しくも組織化した近代的軍隊に対し、ひねり潰したのであるからそこから学ぶ点も多かった筈で、以降も続々と高級軍人(海軍中将・浅野正恭、海軍大将・竹下勇、海軍大将・岡田啓介、海軍大将・財部彪、海軍大将・小栗孝太郎、海軍大将・鈴木貫太郎らの陸海軍の将官をはじめ、海軍大佐・横尾敬義、陸軍大佐小牧斧助、海軍少佐・外山豊二らの佐官クラスの軍人達の他に下級将校がいた。この中の数人は武田惣角より教授代理を授かっている)の入門希望者が続々と入門したとあるが、大東流の宣伝著書からも窺えるように、当時驚嘆に尽きる「神技」と称される大東流を学びながらも、何故日本は先の戦争に敗れたのであろうか。

 「柔能く剛を制す」「小能く大を呑む」の痛快な勝利は、日本人の情緒的感覚の中で、最も好む心情の一つであろう。しかしこの事ばかりに溺(おぼ)れて、真当(ほんとう)の意味での教訓を見失うと、先の大戦同様に、日本人は再び敗北を重ねるてしまう道を辿らなければならない。
 神話、伝説、武勇伝等は、そもそも誇張があるのが常である。語る者が豪語した場合、筆記者がその儘(まま)受け止めて、真実として如何にも現実に在(あ)ったかのように記録する事がある。

 古人の痛快な武勇伝と現実を混同する危険性は、われわれ日本人を迷走の坩堝(るつぼ)に閉じ込めて、同じ過ちを犯させ、再び冷たい雪の泥濘(ぬかるみ)を歩かねばならなくなる現実に遭遇するものではなかろうか。
 またわれわれ日本人は、明治以降西欧の近代的文明の恩恵に預かり、科学万能主義が運命づけられて、最も素朴な質問を忘れ、多くの先入観を抱かされている場合が少なくない。知るべき対象に迫る場合、それは既に生半可な答が用意されていて、正当な知識の流通を疎外し続けている。古人の智慧は泥沼の底に深く沈められ、敗北で得た貴重な教訓は、小手先だけの痛快な武勇伝に打ち消され、現代を生きる日本人には、そこから学ぶ点は最早無いとしている。だがこの考え方自体が、既に誤った概念を押し付けているのではなかろうか。

 能力の優れた者、才能に富んだ者、頭の良い人間だけに、物が見えて、仕事が出来て、従って出世するという、単純すぎる社会構造の図式は、もういい加減に呪縛(じゅばく)から解かれ、滑稽(こっけい)な選民的英雄主義から解放される必要に迫られているのではあるまいか。

 昭和十七年六月五日、日本は海軍を中心にミッドウェー作戦を実行に移した。この作戦はひと握りの作戦参謀達によって立案され、与えられた様々なデータからあらゆる戦略を試みた。彼等は海軍大学校を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートであった。

 ミッドウェー作戦の当時、当然ながら彼等の頭脳は結集され、日本の機動部隊空母群は、ミッドウェー島を攻撃しなければならないという予想に基づいて、陸上攻撃用の爆弾を搭載し、発進寸前の状態で待機していた。ところが敵の機動部隊が接近中との無電が入り、爆弾を搭載した飛行機は一斉に魚雷に変更せよという命令が下った。甲板員は気忙しく作業して魚雷に変更したところで、日本の索敵機は敵の機動部隊を見失い、その旨が作戦室に飛び込んできた。参謀達はひとひねり考えた挙句、再び陸上攻撃用の爆弾に変更するよう南雲忠一(海軍中将)司令長官に具申する。そして再び変更命令が出され、その作業が終わるか終わらないうちに敵の急降下戦闘機が襲ってきた。もう、この時日本はアメリカに遅れを取っていたのである。

 日本機動部隊は、空母「赤城」をはじめとして空母の甲板上に積まれていた爆弾や魚雷は大爆発を起こし、更に弾薬庫に誘発して辺りは火の海と化した。この作戦に携(たず)わった参謀や指揮官達は、何れも海軍大学校を優秀な成績で卒業した戦争の専門家であった。頭脳もずばぬけていた。だからこそ臨機応変に対処した筈だった。しかし人知を超えたところに、運命の不思議がある。

 ミッドウェー海戦の敗北は、日本始まって以来の大敗で、信じられない程の悲惨な負け戦であった。アメリカ側の情報を軽視し、準備不十分の儘、連合艦隊司令長官・山本五十六の強引な性格を浮き彫りにした無謀な作戦であった。
 敵を過小評価し、楽観視して自身過剰に陥っていた海軍部は、日本の歴史始まって以来の、白村江(はくそうこう)の戦いに匹敵する負け戦を経験し、真珠湾攻撃を上回る手痛いしっぺ返しを受けた。この海戦を最初から侮り、楽観視して見ていたのは、この作戦の指揮に当った連合艦隊も、海軍軍令部作戦課同様であった。戦う以前から、海軍軍令部では祝杯の用意が整えられていたという。全く馬鹿げた話である。

 この間に軍令部には南雲機動部隊の悲報が届いた。
 赤城、加賀、蒼龍が被弾を受け、大火災を起したという急報であった。この時点では、飛竜は健在であり、突撃をして「我攻撃成功セリ」の知らせを打電するが、やがて敵の猛爆を受け、「飛竜被爆大火災」を報じて沈没する。
 これら沈んだ四隻の空母は、無敵攻撃空母の異名を取る日本海軍の秘蔵っ子であり、時速30ノットを誇る最新鋭艦であった。真珠湾を皮切りに、太平洋やインド洋を巡航し、日本海軍の積極的な作戦を実行する秘蔵っ子的な存在であったが、これ以降は逆転して、陸海軍ともに消極的な作戦しか立てられなくなって行く。この点を考えると、海軍は陸軍に較べて無謀な作戦を展開したというべきであろう。海軍の無謀さが、陸軍までも引きずり込み、陸軍の犯した作戦に較べると、その桁(けた)は遥かに小さい。

 ミッドウェーの敗北や、ガダルカナルやニューギニアの数々の悲劇も、全ては連合艦隊司令長官・山本五十六の責任であり、当時の日本の国力から考えて、勝てた筈の大作戦に敗北したというべきである。
 日本の運命を大きく変えていった大東亜戦争【註】アメリカ側から見たこの戦争は「太平洋戦争」と謂れ、日本側から見た大東亜共栄圏の五族共栄から見た戦争は「大東亜戦争」と呼ばれた)の、一つ一つの戦いは敵味方ともに、大きく運に左右された。戦争というものはほんの纔(わずか)なことで、どちらかが有利になる。
 喩えば、その時刻に雲が出た、風が出た、あるいは命令が一箇所だけ届かなかった等で、それが「上手の手から水が漏れる」式で勝敗に決定的な差が生じてくるのである。人知を超えたところで運が左右するのだ。
 運は確率から言っても、最初は敵味方双方にも五分五分に働く法則がある。しかしこれで勝利を得る方は、決して体力があり、経済力がある方ばかりとは限らない。

 三年八ヵ月の及ぶ大東亜戦争を論ずる場合、これを無謀な戦争と位置付ける考え方が一般的であるが、元々日本人は小兵力を以て大敵を敗る事に異常な情熱を傾ける国民である。太平洋を挟んだ大東亜戦争が、日本とアメリカの国力の差を論(あげつら)い、圧倒的大差の敵と戦ったから無謀であったと一概に否定すれば、鵯越え、千早城、桶狭間等の戦いから、日清、日露の戦争まで否定されねばならぬ。また朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定されねばならぬ。

 アメリカの強大な国力を思う時、大国に刃向う事は無意味であるから、朝鮮人民も、ベトナム人民も、戦わずして尻尾を巻き、アメリカの軍門に降るべきであったのか?
 そして何故、大東亜戦争だけを無謀と決め付け、その譏を受けて、日本人はこれ程までに自虐的な立場に追い込まれ、一億総懺悔しなければならないのか?

 われわれ日本人は、この点に於て、真当(ほんとう)に論ずるべき事を論じていないのではあるまいか。そして大東亜洗戦争期の悲惨な状況に、生理的な反発だけを強めていても、何一つ教訓を得る事に努力していないのではあるまいか。
 また日本のマスコミの現状として、真当に何かを論じようとする時、スポーツや芸能の報道に素早くすり替えてしまう場合が多い。どうでもいい事に焦点を当てる。勝負の世界で誰が勝ったか、負けたかという事は、結局プロ野球はどこが勝ったか、大相撲では誰がかったか、サッカーはどのチームが勝ったかという事であり、単に優勝したスポーツタレントを英雄とする、どうでもいいような低俗な考えが重大ニュースして先行する。恐らくこのような大衆の目を反らす考え方から、武勇伝は生まれるのであろう。また、ひとたび男子に生まれたなら、武勇伝の一つも遺し、これに肖(あやか)りたいと願うのが、また人情であろう。

 だが、多くの武勇伝は、歴史がそうであるように、その中には殺伐とした、血で血を洗う残忍な、個人戦の域を未だ出得ない宿業(しゅくごう)がある。武芸者が武芸を以て武技を競うのは、暴力や弾圧を避ける為の、それではない。最初から野望と野心を剥(むき)き出しにした売名行為があったからである。
 多くの剣聖と謳(うた)われた剣の達人も、その最初の動機は売名行為である。この最たる武芸者が、宮本武蔵ではなかったか。しかし武蔵も晩年は、必ずしも思い通りの功名は挙げる事が出来なかった。
 それは武蔵が個人戦に於ては強かったと言う事だけで、真に軍学や兵法を「いくさ」という形で研究しなかったからである。名前は売ったが、殺人者としての寝覚めは決して良いものではなかった。死ぬ間際、殺された亡霊が次から次へと出て来て、悪夢にうなされ、武蔵は自分の臨終にも失敗している。兵法の何たるかを知らず、軍学の何たるかを知らなかった為である。


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