インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想(十四) >>
 
西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●軽佻浮薄こそ日本人の国民性である

 義理人情が淡白で、忠義の心に薄い日本と、日本人の在り方を、憂い、心の底から嘆いたのは会津藩元家老・西郷頼母であった。維新革命(歴史的に見ればフリーメーソン革命)によって樹立された明治新政府を薩摩と長州の傀儡(かいらい)政府である事は否めず、一部の維新功労者によって国家を横領されたのは明白であった。
 また、この国家横領を容易に許したのは、当時の日本人と、「忠」と「勇」に薄かった不忠不義の幕臣の徳川家臣団であった。

 不忠こそ、日本人と言う人種の根本であり、天皇を除く、総ての権力者には、悉(ことごと)く不忠を働いたと言うのが日本人の実体である。こうした事を論ずれば、筆者は、日本人のくせに、やたらと日本人の悪口を書き連ねていると、とる読者も居ようが、話は最後まで聞くものである。反論するのは、本文を一通り読み終えた、それからでも遅くないだろう。

 さて、「士道」や「武士道」が退廃したのは、江戸期に於てである。元禄時代に至った時、「士道」は、既に忘れ去られ、だからこそ『葉隠』が登場し、山本常朝は「武士道の何たるか」を説かねばならなかった。いわば必然的に、『葉隠』が登場したと言えよう。
 それは客観的に見れば、自立心の少ない武士階級の行動原理に見る事が出来る。
 特に江戸時代、武士の中でも大名に至っては自立性が乏しかった。中世における日本の大名の意識は、ヨーロッパの中世貴族に比べて、自立性の無さは一目瞭然であり、島国日本では、諸侯の領有する領地もヨーロッパに比べて非常に狭かった。その上、家臣団も少なく、また武装する武力は、実に貧弱であった。

 こうした中、徳川幕府は日本で始めての、強力な「中央集権的封建制」を実現し、絶大な権力を握った。
 徳川幕府が成立して間も無い頃の十七世紀、加藤家(賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人で、関ヶ原の戦いでは家康に味方し、肥後国を領有した加藤清正に始まる)、福島家(賤ヶ岳七本槍の一人で、後に尾張清洲城主。関ヶ原の戦いには徳川方に味方し、安芸・備後に50万石を与えられたが、広島城修築の罪を問われ、信濃川中島に移された福島正則に始まる)、最上家(出羽の山形城を拠点に庄内地方に勢力を築き、上杉景勝・伊達政宗らと争う。豊臣秀吉に帰順し、関ヶ原の戦では徳川方に従って、山形57万石を領有した最上義光(もがみよしあき)に始まる)という、五十万石クラスの大大名でも、幕府の「武家諸法度」に触れ、易々と取り潰されている。
 しかし幕府の一方的な取り潰しに際しても、各大名の家臣団は何も抵抗しなかった。ただ、幕府のされるがままに、指を銜え、大名家の家臣団は牢籠(ろうろう)の身に、わが身を窶(やつ)したのである。

 もし、秀吉亡き跡の徳川幕府の許(もと)でも、加藤家、福島家、最上家の何(いず)れが、大坂城(大坂冬の陣や夏の陣)くらいの抵抗をしていたら、徳川幕府もあれほど大きな権力体制は敷けなかったはずである。
 また、こうした大大名をはじめとして、江戸時代には約二百の大名が取り潰しを受けている。日本も、ヨーロッパの諸侯の領地召し上げについて、皇帝や国王に対し、小は小なりに忠義の心を示し、抵抗する手段は幾らでもあったはずである。

 しかし江戸時代、徳川二百五十年間の歴史の中で、幕府に抵抗し、異議申し立てをしたのは、赤穂藩と言う関西の五万石の小藩であった。自分の主君の死に態(ざま)の不憫(ふびん)を思い、その無念に一矢(いっし)報いる為に、僅か四十七名で「忠臣」を実行したのである。
 しかし、こうした事例は、赤穂藩唯一つであった。 

 徳川幕府と一戦を交える為には、「武装が貧弱である」とか「兵力が弱少である」というが、忠義を全うする方法は幾らでもあった。一戦を交えなくても、「抗議をする」と言う方法もあったであろう。
 ところが赤穂藩を除く、約二百強の大名が、易々と取り潰されたと言う事は、如何なる理由からか。
 忠義や忠誠と言うのは、武装や兵力の有無や、強弱によって左右されるものではない。つまり武士という自覚と信念の問題であった。この時代、こうした意識を自覚し、信念を貫いて、「士道」を全うし、「忠臣」を貫いたのは赤穂藩ただ一藩であり、赤穂藩に三百人いた家臣団の中でも、僅かに四十七人だけが、幕府に異議申し立てをして、吉良邸に討ち入ったのである。
 この時代の武士の占める割合は、 全人口(元禄時代は約3000万人と推定される)の約7%の210万人が武士であり、このうちの「四十七人」という人数はあまりにも少ない数である。この数の少なさは、また当時の武士が「士道」から外れた生活をしていたという事を窺(うかが)わせるものである。

 更に江戸時代の末期となると、「士道」は地に墜(お)ち、忠義の手本とされねばならない徳川家臣団では、前代未聞の大怪奇現象が起こっている。
 当時の決定的な事実として、幕府の兵力と武装は、圧倒的に他を抜きん出ていた。しかし徳川幕臣の代表者が、自ら進んで、徳川家を滅ぼす側に廻っている事である。何と言う不義不忠であろうか。
 「士道」や「武士道」の次元から評すれば、徳川幕臣最大の裏切り者は勝海舟である。

 一方、徳川家に忠節を誓い、「士道」を全うしたのは、会津藩や桑名藩ではなかったか。
 総兵力十万以上を誇る徳川家臣団は、フランス式の近代武装を行い、兵力も断然西南雄藩を上回っていた。しかしこの時、徳川家臣団の武士の中で、どれ程の者が徳川将軍家に、命懸けで忠義を全うしただろうか。
 佐幕の為に尽力した会津藩や桑名藩は、今日の企業で言うなら、遠縁の子会社である。また戊辰戦争に付き合った新撰組や京都見廻組は、臨事雇の私設ガードマンであり、幕府公認の武士集団ではなかった。

 当時の徳川幕府は、こんな頼りの無い弱小兵力と、臨事雇のガードマンに守られるだけの弱体的な体質になり、旗本や御家人の正社員とも言うべき徳川家臣団は、荒れ狂う維新の嵐の前に、自身の保身と資産の保存に奔走していたのである。積極的に滅ぼす側に廻り、積極的な降参を企んで、巧妙な処世術を展開していたのである。
 徳川家臣団の大半は、下級武士でも幕臣旗本でも御家人でも、命を賭けて忠節を尽くし、徳川家の為に尽力した武士は少ない。忠義の武士など何処にも居ず、歴代の恩顧に応えたのは、勘定奉行の小栗上野介唯一人であった。ここに義理人情が淡白で、忠義の心に薄い日本と日本人の偽らざる実体像が浮き上がってくる。

 日本人は古来より、不安に耐える事を嫌う人種である。眼の前に「不安の影」がちらつくと、居ても立っても居られなくなり、得体の知れないものに焦りを覚えるようだ。また、不安と背中合わせに感じるのが、思い掛けなことで飛び込んでくる「喜び」であり、これが突然やって来た時には、好事であっても仰天する。こうした感情に振り回され、毀誉褒貶(きよほうへん)に流されて、兇変(きょうへん)するのは、日本人が感じる「不吉な変事」の知覚かも知れない。
 日本人的な感覚からして、不安があっても寒気を感じるものであるが、喜び事もまた同じ兇変の一種であり、「好事魔多し」の喩(たと)えから、よいこと、うまくいきそうなことには、とかく邪魔が入り易いと知覚するようで、喜び事にも警戒する人種のようだ。

 つまり日本人に中に同居する二重性は、不安に弱い精神構造と、競争心旺盛な野心家を嫌う性格である。
 だから多くの日本人が抱く未来の夢は、想像的には、歴代の大人物の如き野望を抱くが、現実は「平凡」な一生であり、可もなく不可もなくと云った、一般大衆として落ち度のない、「世間並み」と言う人間像を追い求めることである。その如実な現れが、既に時代遅れとなっている終身雇用にぶら下がる「自他共に」という、共通の利益である。
 また、こうした「人並み」あるいは「世間並み」が、一億総中流の錯覚を作り上げ、それが幻想であるのにも気付かないのである。

 そしてこうした幻想は、浮薄な日本人像を作り上げ、外国から経済動物と化した日本人が、一様に、エコノミックアニマルと蔑まれるのである。経済大国を成した現実の裏側を見れば、日本と言う国が、エコノミックアニマルの集合体であり、この集合体は時代の状況の応じて浮薄性を有したまま、様々に変化(へんげ)するという事である。

 日本人の浮薄性を追求すると、先の大戦で負けた理由も浮かび上がって来る。
 戦前と戦中、軍人と官僚は夜郎自大化した。威張るだけ威張り、国家戦略の方針すら打ち出す事が出来なかった。これに加えて、外交音痴もそれ以上だった。
 戦前・戦中・戦後を通じて、日本の歴史学者や経済学者は、物量のアメリカ、工業生産力の強大なのアメリカ、世界経済を動かすアメリカ、アメリカン・ドリームのアメリカ、とにかく「アメリカ」「アメリカ」と言う神話を作り上げ、幼児体験によって得た、一つ覚えのコンプレックスのように、こうしたアメリカの幻想を、呪縛化して、日本人を集団催眠の中に引きずっていった。そして未だに、この眠りから目覚めさせないのである。

 太平洋戦争開戦当時、アメリカの経済には、対日軍備の余裕は全くなかった。
 アメリカ資本主義の健全な証(あかし)は、例えば企業でいうならば、減価償却資金を自社内積み立てで賄(まかな)うと言う事だった。
 日本ならば、企業は発展をしようとすれば、設備投資を行わなければその発展は有り得ない。産業機械などの設備投資の資金は、銀行から借りるのである。したがって企業が発展する背景には、「借金が増える」と言うジレンマが待っていた。この状態を「自転車操業」と言い、自己資金率の低さは、日本繁栄のいかがわしさの兆候(ちょうこう)だと、こき下ろすエコノミストさえ居たのである。
 借金の利息を払う為にはフル操業で走り続け、休む事は許されず、操業が停止すれば一巻の終わりと言うのが、日本経済の特徴であった。しかし、アメリカの企業にはこれがない。「自社内積み立て制」が、アメリカ資本主義の基盤になっているからだ。

 アメリカ式の企業運営は、資本主義を健全に作動させる為に、産業機械などの設備投資の為に資金は、企業が減価償却資金として、常々資金を積み立てておき、設備投資を必要とする時は、古い旧設備をスクラップにして、積み立て資金の中から設備投資を行うのである。これならば、自転車操業に陥る危険は殆ど無い。

 だがしかし、これにも盲点があった。インフレに非常に脆(もろ)い事だ。
 日頃から、せっせと設備資金を積み立てておいても、インフレが起り、通貨の量が、財貨の流通量に比して膨張し、物価水準が騰貴して行く過程に突入すると、これまでせっかく積み立てておいた資金が、100%の効力を発揮してくれないことだった。設備投資の為の資金は、設備を新しくする為に、何分の一かに減少してしまう事だったのである。

 太平洋戦争開戦前、アメリカ経済はインフレに悩まされ、対日軍備の余裕はなかったのである。
 当時世界一を誇ったアメリカの製鉄業の工業設備も、実はインフレの為に充分な設備投資が出来ずに喘(あえ)いで居たのである。資本主義経済は、インフレの真っ只中にある時、基幹産業の設備は縮小し、旧式化する以外ないのである。したがって生産力はガタ落ちになる。開戦前のアメリカも、実は資本主義の盲点に陥っていたのである。
 事実、当時は、日本の軍備はアメリカ以上に上回って居たのである。アメリカと逆転状態に陥るのは、昭和十七年後半の頃からであった。

 日本の歴史学者や経済学者は、アメリカの物量に、先の大戦で大敗したと位置付けているが、これは大きな誤りである。アメリカの物量神話を、今でも多くの学者が信仰している。
 また、こうしたアメリカの物量神話を全面に打ち出し、当時の日本の経済力と比較しての歴史論が未だに根強いようだ。そして、多くの学者は進歩的文化人を気取り、左翼的な太平洋戦争観(岩波書店の展開する亜流の『昭和史』が、正論と思えるような歪んだ平和論)を展開する、家永三郎(いえながさぶろう)氏同様の、猖獗(しょうけつ)を極めようとしている事である。

 また太平洋戦争について、日本の軍国主義者や領土拡張主義者が戦争を欲したせいで、日本には「共同某議があった」という事も、戦勝国ばかりでなく、日本にも、この種の意見を掲げる学者は多い。しかしこれは歴史的に見て正しいか。アメリカと戦った事が、物量比較において無謀だったか。

 日本は、世界の中の日本であって、日本が世界を配しているのではない。地球は連動し、その経済は24時間何処かと連動しているのだ。
 世界の歴史を紐解けば、戦っても滅び、戦わずとも滅びる。いずれにしても滅びる時、世界史を見れば、戦って敗北しても、その国は必ず再起している。しかし、戦わずして滅びた場合、その国は再起できないのである。近代でも、ローデシアという国が、地球上から消えているではないか。

 アメリカの圧倒的な国力の差において、果たして、手向かう事は無謀だったか。
 戦う事が無意味であったらば、朝鮮人民も、ベトナム人民も、強大国アメリカの前には戦わずして尻尾を巻き、軍門に降るべきではなかったか。しかし、なにゆえ朝鮮戦争が起こり、ベトナム戦争が起こったのか。

 こうして考えると、太平洋戦争のみが何故「無謀な戦い」の譏(そしり)を受けねばならないのか、甚だ疑問である。
 ただ太平洋戦争が無謀であったとすれば、日本には、戦争目的がなかったと言う事だ。合目的な戦争計画がなかったという事である。個人の感情論と、感情論に引き摺られた、死に物狂いの戦闘では、とうてい組織化した軍隊には勝てるはずがないのである。

 死に物狂いから導き出されたのは、「死の美学」あるいは「滅びの美学」に代表される「桜花(おうか)思想」で、これが神風(じんぷう)特別攻撃隊を生み出した。そして、この特攻隊員に志願したのは、専門の軍人職(陸軍士官学校や海軍兵学校以上を指す)ではなく、「学徒動員」というズブの素人の、臨時に召集した学生に、飛行機を操縦させ、モーターボートを操縦させ、あるいは小型潜水艦を操縦させて、敵艦に体当たりする幼稚な発想であった。

 また戦争目的の無自覚は、日本人の浮薄性にも関連している。
 したがって戦えば、行き当たりばったりとなる。こうした作戦の展開は、太平洋の島々のあらゆる戦場で見る事ができる。そして行き当たりばったりに陥ったのは、戦争準備への決断であった。
 それは本当に戦争をするのか、あるいは兵力を用いて、これを抑止兵力に用いるのか、更にはこれを用いた場合、戦わずして敵を屈服させるのか、こうした事を明確にする必要があったのである。しかし、これを明確にした戦争指導者は、日本にはいなかった。
 この時の愚は、まさに徳川幕府崩壊の時機(とき)に、幕臣が招いた矛盾と混乱に酷似していると言えよう。

 つまり日本史を刻んでいる日本人は、島国特有の「熱し易く冷め易い」、軽佻浮薄な国民であると結論付ける事が出来る。今日の、流行に流され易い日本人気質も、実は「尚武の民」とは似ても似つかない、浮薄性から出発しているということである。
 そして「寄らば大樹の陰」で、長い物に巻かれ易く、「御上」と「権威」に弱く、明治以来の白人コンプレックスを持ち、横文字を崇拝し、不安を嫌い、一度定着すればいつまでも居座ってしまい、これに長居すると言うのが、日本人の大方が持つ、日本人としての意識である。

 しかし歴史はまた、こうした大衆の軽佻浮薄な集団の中から一条の光を放つ、白人コンプレックスをものともしない人物も登場している。
 これを痛快に物語ったのが「思案橋事件」であった。
 この事件は西郷四郎を「思案橋の快挙」として報じている。この事件の発端(ほったん)は、七人の荒くれ外人の船乗りが、一人の人力車の俥夫(しゃふ)を殴(なぐ)る蹴(け)るの袋叩きにしている事から始まった。この袋叩きには群集の人集りが出来ていて、そこへ、ほろ酔い気分の小柄な西郷四郎が通りかかった事から始まるのである。小柄な四郎は背伸びして、その人集りの中を覗くと、無抵抗な俥夫は一方的な暴力を受けていた。

 こうした事には見捨てて置けない四郎である。「知行合一」によれば、人の道として当然行うべき事と知りながら、これを実行しないのは、勇気がないというものである。俥夫を助け出す為にも、ここは「知行合一」を実行しなければならないのである。
 義憤(ぎふん)に燃えた四郎は、群集をかき分けて俥夫を助け出し、橋の袂(たもと)の矢柄町俥立場(やがらなちくるまたてば)まで素早く運び去った。そうこうしているうちに、巨漢の船員達は咆哮(ほうこう)を放ち、四郎に向かって黒山のように襲い掛かって来たのである。
 これに応戦し、すかさず四郎は身体を躱(かわ)して、あッと云う間に一人の巨漢の胸倉を掴み、欄干(らんかん)越しに、川の中に投げ飛ばした。そしてその後は、次から次と言う有様だった。

 遠巻きの群集は、余りに見事な早業に、ただ呆然とするばかりだった。群集は川の中の荒くれ共を覗き見る為に、欄干に鈴生(すずな)りになった。この事は翌日の東洋日の出新聞に、「あの早業(はやわざ)が柔道の『山嵐』の奥儀だった」と報じられた。
 この事は、毅然(きぜん)とした態度をとれば、自ら学んだ学問が「知行合一」の《良知》であるならば、その「知」は、「行」と同時一源と捉える事が出来るのである。何故ならば、「行」は「知」の発現であるからだ。

 また、こうした毅然とした態度は、処刑間近な吉田松陰の姿にも求める事が出来る。
 死後の松陰が、勤皇の志士達の理想像となったのは、刑死の臨む瞬間に毅然とした態度を崩さず、収斂(しゅうれん)された松陰自身の行動原理だった。
 多くの死刑囚は、死期が迫り、刑の執行日が近付くと、いかなる凶悪殺人者でも宗教に縋(すが)り、それを心の拠(よ)り所とする。あるいは一端(いっぱし)の善人を気取り、宗教に帰依し、教誨師(きょうかいし)の言葉に耳を傾ける。死刑囚は獄中にあっても、刻々と近付く死と対決しなければならない。こうした時機(とき)が迫る時、多くは「生」に囚われ、「生」そのものに執着しようと、その救いを宗教に求める。

 しかし松陰は神仏に求めず、ひたすら知性と意志力でこれを克服しようとした。
 つまり、人類脳に既存する前頭葉の成熟で、自ら死を克服しようとしたのである。この克己心が死生観に達し、ついには「死を超剋(ちょうこく)する」のである。この死の超剋を以て、刻々と迫る執行日までの期間は、畏敬の視線を多くの志士達に与え、その後、松陰は後進者に与えた強烈な行為は、「死に狂う」ことであった。「武士道」で言う「狂の世界」である。
 そして、暴威を振るう幕府に抵抗する志士達が共通に抱いたのも、「狂の世界」でいうところの、「死に狂い」であった。

 安政の大獄は血塗られた歴史の中で、陰惨性を増幅するが、これは血塗られた旧時代の分厚い壁を撃ち破るには、壮烈な「死に態」が必要であった。この死に態こそ、まさに「狂」の射出であった。
 松陰は殉教者として「死に狂い」をしてみせる事により、後に続く者に感動を与えたと言うべきであり、幕府は血で綴(つづ)った安政の大獄で、墓穴を掘った事になる。そして松陰の死を分岐点として、急速に倒幕運動は拍車が掛かるのである。

 刑場に向かう多くの死刑囚は、刑の執行を告げられと、足腰が立たなくなると言う。気は動転して顔は赤面し、左右に倚添いの者の手を借りなければまともに歩けず、その足取りは、まさに地に足が着かずと言われている。
 しかし松陰の態度は毅然として、首切り役人の山田浅右衛門までもを感動させたとある。また同席する幕吏も深く感嘆したとある。更に追言すれば、松陰は殉教の士として、受難者像を確立する事で、生前の論理に、強い説得力を付加したと言えるのではあるまいか。

 保身と利殖に精を出す幕臣旗本の未練引き摺(ず)る人生と、先駆者としての自己完結をみる松陰の行動律を比較すれば、「世を惑わし、人民を偽り、仁義を塞いでしまう権力者の理不尽に対し、これを国難と捉え、違勅(いちょく)の国賊は討滅・誅戮(ちゅうりく)しなければならない」という松陰の言に、強い説得力を持たせたということだった。

 幕府の愚行政策である安政の大獄は、梅田雲浜(うめだうんぴん/幕末の志士で、尊王攘夷を唱え、ロシア艦襲撃を企て、また、幕閣改造などを図るも、安政の大獄に坐し、江戸の獄舎で病死。1815〜1859)、橋本左内(はしもとさない/将軍継嗣問題で慶喜擁立に尽力するも、安政の大獄に座し斬罪。1834〜1859)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう/嘉永年間、梅田雲浜と謀り、大いに尊王攘夷を議し、安政の大獄に坐し、江戸で刑死。1825〜1859)を序曲に、ついに吉田松陰にまで及んだ。

 だが、人より一歩、時代の先を歩く、先駆的な松陰を殉教者として葬った事は、専制政治の結末を見る思いであり、松陰の刑死は、維新に向かって拍車を掛けた歴史的な事件として捉える事が出来る。
 そして西郷四郎の場合も、吉田松陰の場合も、武士道の示す「毅然さ」に共通点を持っている。

 死をも怯(ひる)まずに、立ち向かう毅然さこそ、 同じ人間でありながら、その「格」を選別する特殊性と特異性を「態度の立派さ」に求める事ができる。また、毅然さこそ、人間にランクをつけるバロメーターといえるであろう。したがって、「毅然」という特殊性や特異性は誰にも備わっているということではない。道を探求する者だけに与えられる、一種の無形の勲章のようなものである。

 では、毅然の発露は何か。
 一つは「恥辱(ちじょく)に対する意識」と「理不尽な暴力に屈しない」という態度であろう。更に付け加えるならば、圧力に屈して「変化(へんげ)しない」ということであろう。
 以上の事の意識が発露されたとき、人間は毅然として困難や苦難に立ち向かうことができる。

 歴史の英雄は、常に「毅然さ」を備えた人物ではなかったか。毅然さを備えたからこそ、見るものにその態度が感動的に映り、感銘を与えるのではあるまいか。
 決して安全圏に逃げ込み、 保身と利殖を図るような者に、人は後ろ指をさしたり、陰口を叩くが、態度が立派であれば、方法論は間違っていても、それを蔑む人間は多くはないのである。

 日本人は「尚武の民」ではないと力説してきたが、実は「忠臣蔵」のような、大勢の中の、限られた少数派に、「尚武と民」の心意気を表す、日本人がいるということである。
 だがそれは、平穏な日常を好み、平凡を好み、波風の立たぬことを好み、少しでも死から遠ざかろうとする、その他大勢の日本人ではない。「大衆」と名指しする集団の中に、「芯(しん)が弾ける」というような日本人は、非常に少ないということである。

 

以下、つづく。


戻る << 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想(十四) >> 次へ
 
TopPage
   
    
トップ リンク お問い合わせ