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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●常に、心に死を充てて

 武士が擡頭(たいとう)し、全盛を誇ったのは中世から近世にかけてである。
 鎌倉幕府の成立をする前後から職能民としての武士が発生し、江戸期に至って武士階級は、封建社会の基盤を形成して完成を見る。しかし幕末になると、日本の封建経済は農民の階層分解により破綻状態に陷る。

 江戸中期頃より、封建経済は、身分制度の最下位に属していた商人によって牛耳られる事になり、大名領主を取り巻く、城下の周辺に棲(す)んでいた陪臣(ばいしん)の武士階級は、発達した流通経済下で消費階級化を余儀無くされる。そしてこの階級消費化は、経済的に窮乏する階層の武士の出現を招いた。
 江戸中期より、江戸幕府の台所は経済力を持つ商人によって牛耳られる事になるのである。

 また、江戸幕府が擡頭した初期、徳川三代将軍家光や四代将軍家綱によって『武家諸法度』が発布され、更には大名の配置替えや、大名家の御家取り潰しと云った、武士階級の削減が行われ、この政策によって、多くの武士が牢人(ろうにん)を余儀無くされ、あるいは農民に帰農すると言う現実に見回れ、武士は武士階級から次々に一等下の階級へと墜(お)とされていった。かつての武士は、農民へと帰農したのである。

 しかし帰農した武士達は、ただ農民に帰農して百姓を営んだだけではなかった。半農半兵の精神で晴耕雨読(せいこううどく)の生活を続け、再び天に駆け上がる臥竜(がりょう)のように、挽回の時機(とき)の来るのをじっと待ったのである。
 彼等の多くは名字帯刀(みょうじたいとう)の許された名主(江戸時代、郡代・代官の支配を受け、または大庄屋の下で一村内の民政を司った役人で、身分は百姓。【註】関東地方で呼称された。ちなみに関西では「庄屋」といい、北陸・東北では肝煎(きもいり)とか里正(さとしょう)といった)となったり、あるいは庄屋(庄屋は荘園の事務を司った荘司や荘官の遺称であったが、江戸時代になると、領主が村民の名望家中から命じて、郡代や代官に属させ、一村または数村の納税その他の事務を統轄させた村落の長(おさ)であり、畿内西国方面では庄屋、東国方面では名主(なぬし)と呼ぶことが多かった)となって行った。

 そして名主や庄屋は、幕末になると町家の商人が豪商となったように、彼等も豪農へと伸(の)し上がり、やがて自作農(農業経営に必要な土地の全部を自ら所有する農民)となり広大な土地を支配し、強大な経済力を持つようになる。
 その結果、農民に寄生していた武士階級の消費階級化が促進され、一般の下級武士ばかりでなく、国持、国持並み、城持、城持並といった大名や上級武士の中からも、経済的に窮乏する武士が出始めた。

 これにより立場が逆転を始め、農村に於ては、自作農と小作人という経済的格差によって、持てる者と持たざる者の明確な分離が起こり、農民の階層分解が起った。
 この階層分解によって、封建社会は崩れ、西洋の資本主義の波に押されて、日本は明治維新を迎え、以降、西洋を模倣した資本主義近代国家へと変貌する、日本の選択肢が行われた。これにより、武家社会は完全に崩壊する。

 日本の歴史区分は、大きく分けて三分法に立ち、大まかに分ければ古代・中世・近代の三つに分けられる。
 そして古代は、世界史的には原始時代の後を受けて、文明と階級とが成立しながら、然(しか)も封建社会には進んでいない段階、あるいは主として奴隷制を土台とする社会を「古代」と定義している。
 また日本史的に解釈すれば、一般には奈良・平安時代全般を指し、四〜五世紀に日本本土の大半を統一し、六世紀の世襲的王制が確立された大和朝廷時代を「原始古代」という。また、飛鳥時代から氏姓より、個人の才能や努力を重んずる官司制度が発達し、七世紀半ばの大化改新後、律令制へ変質した大和政権の時代を原始古代に加える事もある。
 そして、原始古代に続く時代を「古代」といった。

 平安後期の「古代」という時代に、日本では「武士」は確かに存在したが、この当時の武士は、「半農半兵」の農民だった。しかし本来、武士として定義される、「武芸を専業とする職能民」ではなかった。武士が職能民として活躍するのは、鎌倉期に入ってからの事である。

 歴史にも一定の法則がある。
 この法則が支配しているからこそ、人間社会は様々に時代と共に模様替えし、歴史の展開についての法則が明確になって行く。唯物史観の発展段階説は、その代表例ではなかったか。

 歴史には、歴史によって制約される法則がある。則(すなわ)ち、ある一定の歴史的時代にのみに妥当する法則であり、歴史的世界の構造や、その発展についての一種独特の体系的な見方である。この場合の見方として、一つは「唯物的な見方」と、もう一つは「観念的な見方」である。唯物的な見方をすれば唯物論が展開され、そては「唯物史観」となる。また、観念的に見れば、それは「精神史」となる。

 唯物史観はマルクス主義的な歴史観であり、物質的かつ経済的な生活関係を以て、歴史的発展の究極を一種の原動力と考える思考法である。これによれば、社会的ならびに政治的および精神的生活過程一般は、究極において、物質的かつ経済的な生活の生産様式によって規定され、然もこの物質的基盤そのものは、それ自身の弁証法的発展の必然性に従って展開するものと定義されるのがマルクス主義的な歴史観である。これを「史的唯物論」という。

 一方、歴史を「精神史」で捕らえる見方がある。これを「唯心史観」という。
 唯心史観は歴史的事実の背後に歴史を動かす力として、精神的な力が働いていると考え、この見地から歴史を捉え、芸術・学問・宗教・武芸や武術などの文化形象を「精神の歴史」として考察する思考法である。
 まさに、武士の興りは「精神の歴史」と捕らえる事が出来、「心に死を充てて、己の全人格を代表する生き方」が、「士道」であり、また「武士道」でなかったか。

 この自覚は、平安期以前の古代ではなく、鎌倉期以降の中世からであったと定義できる。古代と近世との間にある。
 日本史では、一般に十二世紀末鎌倉幕府の成立から、十六世紀末室町幕府の滅亡までを「中世」という。また近世は、古代と中世の後に続く時期を指し、日本史では江戸時代【註】安土桃山時代を含む場合もある)を指す。封建社会の見事に開花した華々しき時代である。それ以降を「近代」といい、広義には、「近世」と同義で、一般には封建制社会の後を受けた資本主義社会について言うようだが、日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説である。そして、それ以降を「現代」という。

 「現代」は、歴史の時代区分の一つで、特に「近代」と区別して使う語であり、日本史では太平洋戦争の敗戦以後あるいは保守合同【註】1955年11月、日本民主党と自由党との合同により単一保守政党の自由民主党が成立した時期で、「五五年体制」を指す。この年、左右日本社会党の統一と自由民主党の結成とによって出現した保守革新の二大政党制が出現するが、現実には自民党の単独政権が続き、政権交代はおこらなかった)の昭和三十年(1955)以降を言う。

 日本史を一直線上に並べれば、大和朝廷時代の「原始古代」、奈良から平安時代の「古代」、鎌倉から室町時代までの後期の「中世」、安土・桃山時代を含む江戸期より幕末までの「近世」、明治維新から太平洋戦争集結までの「近代」、五五年体制以降の「現代」という歴史区分がなされ、日本人はこの数直線の上を、先祖より日本列島を受け継いで歩いているのである。
 そして日本史の中に、精神史である「唯心史観」が、紛(まぎ)れもなく存在し、その精神史は「武士」という封建社会の「申し児」を生み出したと云う事実は決して否定できるものではない。その精神史から「士道」が起り、「武士道」が起った。そして、これは江戸時代に至って完成を見る。

 唯物史観から誕生した近代資本主義が登場するまでは、日本人の精神文化を司り、思想・道徳・学術・芸術・宗教、更には武芸や武術などの精神方面に関する精神的文明を、日本人は世界に先駆けて構築した。
 そして、その文化で定義された事は、人間の精神力は、人間を支える決定的要因を作ると云う精神主義的な思考から、特異な道徳訓として、「士道」と「武士道」が登場した事実であった。
 常に、「心に死を充てて」生きる生き態(ざま)を武士の本懐(ほんかい)としたのである。死生観を超越した精神界に到達し、「闘魂」をもって揺るぎない自己を探索し、生活の意義を、主として精神上に置く生活を武士は試みたのではなかったか。

 だからこそ、江戸の町家の豪商が、白米を喰らい過ぎて江戸患(えどわずらい/今日の脚気(かっけ)で、ビタミンB1の欠乏症。別名「江戸やまい」とか「乱脚の気」と呼ばれた)に罹(かか)る現実を横眼に見ながら、武士達は玄米雑穀の質素倹約の物質的枯渇(こかつ)生活を実践して、白米を「泥腐る」と一蹴(いっしゅう)し、美食には目もくれず、また自己錬磨の課題として、多くの武士達は、江戸から鎌倉まで一日で歩き通したとする記録さえ残っている。それも偏(ひとえ)に、常に「心に死を充てて」生きる生活を実践していたからではなかったか。

 だから、「いざ」と言うとき、死生観を超越して、「死の超剋」が出来たのではなかったか。いつでも、時と場合に応じて、日常を非日常に切り替える事が出来たのではなかったか。
 だから武士の身の回りは何時も、こざっぱりとして簡素に片付き、無駄がなく機能美に優れ、一種独特の「すずやかさ」があった。

 しかし武士階級の崩壊によって、精神史は同時に終焉(しゅうえん)を告げ、それに代って唯物史観で説かれる物質文化が世界を覆(おお)う事になる。物質文化、物質文明は確かに人類に多大な貢献をし、いまもなお、その恩恵を与え続けている。
 しかしこの文明の急速な進歩は、紛(まぎ)れもなく「拡散・膨張」の方向に向かって突き進んでいる。人々の心は物質的な豊かさを追い求め、豊かで、快適で、便利な生活のみを追い求めた。今も、拡散・膨張の延長上にあり、人類はその上を驀進(ばくしん)している。
 拡散・膨張のメカニズムは、中心から益々離れて行き、それはまるで遠心分離器に掛けられたような状態である。

 しかし、遠心分離器に掛けられれば、当然の如く、そこからはみ出して、疎外される欠陥人間が出て来る事も、また然りである。

 歴史は、現代に近付くほど精神性が薄くなる。
 人間の精神性が薄くなり、物質文明の激流の渦に掻(か)き回されれば、これまで沈澱していた不良品も浮上して表面化しはじめよう。だから現代社会の実際の中で、凶悪犯罪は増え続ける一方だ。
 今日の犯罪の低年齢化は、拡散・膨張を続ける物質文明にその禍根(かこん)がある。禍根は、物質文明が旺盛である状態では、精神的成長がない。次々に発生して来る。こうした犯罪は増え続ける事はあっても、絶対に減る事はない。

 更に最悪な事は、こうした犯罪が激増する中、人権擁護(ようご)の立場ばかりを強調して、被害者そっちのけで、加害者の人権ばかりを擁護し、主張するひと握りの学識経験者や進歩的文化人が存在する事だ。
 また、日本では精神科医師連合会の力が絶大で、「開かれた精神病院」をスローガンに、精神異常者を擁護し、彼等を自由に外出・外泊させ、あるいは退院させ、その上、運転免許取得者には車の運転までも自由に許可し、犯罪に加担する進歩的な精神科医までいる始末である。

 かつて東大全共闘は、東大医学部学生の中から始まった。
 全共闘は「全学共闘会議」の略称である。1968年から69年にかけて、日本では大学紛争の嵐が吹き荒れた。諸大学に結成された新左翼系ないし、無党派の学生組織は、やがて東大医学部まで飛び火する。医学部のこの騒動は、最初は学生が教授陣に対して処遇の改善を要求して、民主的?改革を突き付けた事件だった。
 ところがこの要求に、日大全共闘などの左翼学生が介入し、社会主義思想ならびに革命思想を培養し、深刻な社会問題へと拡大させて行った。

 しかし嵐の吹き去った今、日本の大学には全共闘の面影はない。
 一方当時、医学部生だった彼等は、今では医学部教授となり、あるいは精神科の権威として精神医学界の頂点に君臨し、違う形の革命を夢想している。
 「開かれた精神病院」は、彼等の目指す新しい革命の手段である。世の中に、暗示と精神誘導された多くの精神異常者を解き放つ事で、世の中を不安に陥れ、一時的に暗黒化し、世相を混沌とさせて、この隙(すき)に、新たな革命を企てようとするのが、医学的発言権に、絶大な力を持つ、今日の精神医科連である。
 医科連は各々に内科・小児科・外科・眼科・皮膚科・耳鼻咽喉科・産婦人科などの組織的連合会を持っている。精神医科連もその一つだ。

 その権威筋の圧力団体が、新たなテロを仕掛けようとしている。精神異常者をテロリストに仕立てて……。
 そしてテロリストは手段を選ばず、無差別に誰彼構わず攻撃を仕掛けて来る。
 物質文明が急速に進歩し、この進歩が急速であればあるほど、拡散・膨張の方向に向かう遠心分離器は、間違いなく一塊(ひとかたまり)の疎外者を弾き出す。この弾き出された精神異常者が幼児殺しや婦女子殺人の犯罪者となる事は、これまでの警察庁の事件白書が如実に物語っている。無差別な犯罪が増える中、一方的に座して殺されるのを持つのは、余りにもお人好しであると言わざるを得ない。

 そこで異常者が使う武器などにも、注意を払って研究し、最悪の場合は、これから脱する心構えだけはしておかなければならない。
 それはまさに、かつての武士達が、常に「心に死を充てて」というように、である。

 今日は一見平和のように見える。日本には、まだまだ法と秩序が存在しているように映る。しかし、急速な文明の進歩は、こうした平和を破壊し、秩序を崩壊させようとしている。その平和と秩序の崩壊に加担するものが、新たな革命戦士に指名されたテロリスト達だ。

 彼等は一様に性格粗暴者であるか、精神異常者だ。それにストーカーなどからも窺(うかが)えるようにバーチャル恋愛に現(うつつ)を抜かす変質者も少なくない。こうした取り巻は、何処にでも居て、勿論あなたの周辺も例外ではないだろう。
 こうした彼等も、事件を起こさない限り、日本国憲法下の基本的人権で守られ、その他の法律で守られている。したがって事件を起こす予備軍に指名はされていても、通常の状態では警察力や法律の及ぶところでない。

 しかし彼等がひとたび凶行(きょうこう)に及ぶと、あなた自身は自己防衛の為に、これと防戦し、暴力から身を守らなければならない。この時、生半可(なまはんか)であっては無慙(むざん)に命を落とす事になるであろう。
 また日頃の考え方が甘くては、意外な落とし穴のあるのに気付かず、そこに落ち込み、命を失うであろう。

 日常は、突如として「非日常」に変化すると云う事を知らなければならない。かつての武士達は、「士道」や「武士道」を知る限り、その心構えが出来ていた。日々「心に死を充てて」生きていた。死に直面しても冷静な判断が下せた。「心に死を充てて」生きるとは、そうした力を培ってくれるのである。

 宇宙は拡散・膨張していると言う。
 しかし一方的に拡散・膨張するばかりではないとも言う。膨張すれば、めい一杯膨張するだけ膨張して、その後は収縮に向かうと言う。収縮の向かう先は「物事の始まりの中心」である。
 宇宙の摂理を考えると、中心に向かって、帰一をしなければならない時期が、もう既に来ているのではあるまいか。精神界から離れ過ぎた人心は、今度は物資界から離れ、「物事の始まりの中心」に戻らねばならぬのではあるまいか。
 そうすれば拡散・膨張する遠心分離器も停止するのではあるまいか。同時にこれは、疎外者も異常者も減少するという事になるのではあるまいか。

 疎外者も異常者も、基(もと)を糺(ただ)せば同じ人間だ。同じ肉体を持ち、同じ命を持ち、同じ宇宙の一滴(ひとしずく)の魂を分かち合って生きている。
 物事を性善説に考えるか、性悪説に考えるかは別として、基に帰一するのであれば、それは丁度、ガンに変質した劣悪な異常細胞が、「逆分化」によって正常細胞に戻るように、異常と思えた性格粗暴も、やがては帰着するべき穏やかな処(ところ)に落ち着くのではあるまいか。
 そして、常に「心に死を充てて」生きねばならない時代が到来していると、つくづく思う次第である。


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