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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●皇胤を重視する武士団の興り

 千葉氏や上総(かずさ)氏は武士団の棟梁(とうりょう)として、豪族的武士に成長して行った影には、彼等の先祖であった平忠常(たいらのただつね)の犧牲が挙げられる。
 平忠常は平安中期の豪族で、良文の孫で、高望(たかもち)の曾孫(ひまご)にあたる人物である。また、上総介・武蔵の押領使(おうりょうし/平安時代、兵を率いて国内の凶徒を鎮圧する、令外りようげの臨時の官)の役職にあった。そして、1028年(長元元年)謀反し、源頼信の討伐により、降参して京都に送られる途中病没している。

 十一世紀半ば初めに引き起こされた「平忠常の叛乱」は、私営田領主が豪族的領主に転化する過度期にあたり、経営内部にまで昇り詰めた中小の在地勢力は、更に支配力を強める為に、新興勢力の輿望(よぼう/世間の人々からかけられている期待や衆望)を担って、古代的な国家権力に対して、反抗せざるを得ない性格のものへと変貌して行った。

 私営田領主は、こうした時期に経営的な弱点を多く抱えていた為、戦局が長期化して停滞すれば、私営田経営は大きく傾き、この間に田地は荒廃し、ために経営破綻(はたん)と云う状態が訪れた。
 特に、忠常に於ては、戦局が長期化した為、領地の経営に支障を来し、破綻寸前であったことが、また彼を敗北に導いた起因となった。
 忠常はその後、捕らえられ、京都へ護送される途中で病死するが、その子孫達は、特に処罰を受けることはなく、下総国相馬郡一帯の所領も没収されなかった為、本拠地における私営田経営は復活されることになった。そして復活された私有田を伊勢神宮に寄進し、相馬御厨(そうまみくり)を形成した。

 御厨は古代や中世の、皇室の供御(くご)や神社の神饌(しんせん/神に供える飲食物で、稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜(そさい)・塩・水などを指す)の料を献納した、皇室・神社所属の領地で、古代末【註】歴史の時代区分は「古代・中世・近代」の三分法に基づいている。古代とは、世界史的には原始時代の後を受けて、文明と階級とが成立しながら、然も封建社会には進んでいない段階、主として奴隷制を土台とする社会をいう。日本史では一般に「奈良・平安時代」を指し、大和朝廷時代(原始古代)を含めてもいう)には荘園の一種となる神領(神社の領地で、神事・造営や神職の俸禄などの費用にあてる為のもので社領とも)であった。

 忠常死後、所領の支配構造を転換し、豪族的武士団としての千葉氏や上総氏が新しく登場したのである。
 武士団の中から、開発領主的武士、あるいは武士団を統率する豪族的武士が生まれたのであるが、こうした有力な地方武士でも、彼等が手にしようとしても手に入らないものがあった。それは「権威」であり、武士としての権威性の位置付けであった。
 その為に、彼等は朝廷の住む京都を憧(あこが)れ、権威を持っている貴族に臣従し、その歓心(喜んでうれしいと思う心)を得ることに努めた。

 平安時代の「侍」という観念も、実は此処から興(おこ)っている。
 中世(鎌倉期)では侍は、一般庶民を意味する凡下(ぼんげ)と区別される身分呼称で、騎馬・服装・刑罰などの面で、特権的な扱いを受けたのであるが、平安時代は、武士団の位置付けが、まだ固定されたものではなかった。むしろ平安期に於ては、貴族に臣従するといった寄生的な存在が「侍」であったと思われる。
 こうした「寄生の徒」に、儒教的倫理観を包含する「士道」も「武士道」もなく、また「武術」や「武芸」といった高等戦闘技術は微塵(みじん)も存在しなかったのである。

 こうした事を考えれば、この時代に起こったとする大東流武術の流祖とする「清和天皇開祖説」や、清和天皇の第六皇子「貞純親王開祖説」は非常に疑わしいものになり、むしろこうした「伝説」は、明治の世になってから、日光東照宮で禰宜(ねぎ)をしていた西郷頼母が、刀を指して時代遅れの武芸者姿で全国を闊歩(かっぽ)する武田惣角の姿を哀れに思い、惣角に清和源氏の流れをもじって、武田家伝説を架空に作り、「剣の時代は終わった。今からは柔術で生きよ」としたのが、頼母の認(したた)めた、女郎蜘蛛(じょろうぐも)伝説の「お墨付き」の始まりだったと見るべきであろう。

 平安時代に、貴族に臣従するといった形で、華々しく登場して来るのが、源(みなもと)の姓を有する氏族である。
 この氏族は、清和源氏(清和天皇から出て源氏を賜った氏)に系譜を曳(ひ)き、摂津国(せっつのくに/ともいわれ、現在の大阪府の一部や兵庫県の一部を指す)に本拠地を持つ源満仲(みなもとのみつなか)は、右大臣(うだいじん)藤原師尹(ふじわらのもろただ)に臣従し、「安和の変」で大きな役割を果たして以来、源氏の系統は、藤原摂政家と深い関わりを持つようになった。

 「安和の変」は、安和二年(969)右大臣・藤原師尹ら藤原一族が、源満仲の密告を利用して、左大臣・源高明(たかあき)らに「皇太子廃立の陰謀あり」として追放し、藤原政権を確立した事件である。
 満仲の三子頼光、頼親、頼信は藤原道長への奉仕に努め、諸国の受領を歴任して財力を貯えた。彼等源氏一門は、「都の武者」として京都で栄達の道を進んで行ったのである。

 そして此処で重要なことは、源氏一門が、「都の武者」としての代表格に伸(の)し上がったのは、単に武力や財力によるものばかりではなく、もう一つは、彼等自身の貴種性や血統の重さが重要な条件となり得たのである。
 これは「清和源氏の流れ」を見れば一目瞭然となる。

 清和源氏の流れを見れば、天皇の皇子貞固・貞保・貞元・貞純・貞数・貞真の諸親王に賜(たまわ)ったが、第六皇子の貞純親王の子と称する源経基(平安中期の貴族で武人。はじめ経基王と称し、のち六孫王と称されたが、源姓を賜り清和源氏の祖となる。「平将門の乱」にその謀反を奏し、のち小野好古(おののよしふる)に従って藤原純友を滅ぼした。生年不詳 〜961)や、孫の満仲は鎮守府(古代、蝦夷(えぞ)を鎮撫するために陸奥国(むつのくに)に置かれた官庁)将軍に、その子孫の頼朝は征夷大将軍に任ぜられているということが分かる。つまり皇胤(こういん/天皇の血統をいい、皇裔(こうえい)ともいう)の血統がものを言っているのである。

 こうして考えていくと、武士としての重要な条件は、その元を糺(ただ)せば、源姓や平姓を持ち、比較的に近い先祖が皇胤に繋(つな)がると言う事が、また一方で、貴族社会の仲間入りをする事実を作り上げていた。
 ここに武士団の首領が貴種性を主張し、権威を重んじ、天皇と血族関係にあり、こうした事が重視され、周囲がそれを信頼し、「都の武者」として、源姓や平姓の威厳が保たれたと言えよう。したがって「清和源氏」などの名称を用いることは、武士の格を引き上げる必要条件であった。
 そしてこの貴種性は、都に於てだけではなく、地方にあっても、なおこれが尊ばれ、平将門は貴種性と地方豪族としての伝統的勢力との結合によって、私営田領主の支配を行い、また地方豪族の一大勢力として成功した第一人者と言える。

 その後の土着した中央貴族の子孫は、大なかれ少なかれ、父系における貴種性と、母系における在地性とをもって、これを在地支配の上に活用したのである。そして、これが在地小武士団の組織を統合する原理となった。将門より一世紀遅れて登場する豪族的武士は、この貴種性を持つ武士団であった。


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