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西郷派大東流と武士道
帆柱権現神社。そこには無碍・無為の心がある。

■文武両道に培われた武士道■
(ぶんぶりょうどうにつちかわれたぶしどう)

●永遠なる魂

 サムライは誇り高く生きるものである。

 サムライを思わせる戦いに「アラモの戦い(Battle of the Alamo)」がる。此処ではアラモ砦攻防が繰り広げられ、テキサス独立戦争中の1836年2月23日から 同年3月6日までの13日間の戦いを、こう呼び、メキシコ共和国軍とテクシャン反乱軍の間で行われた激戦である。

 実質的には3月6日、アラモ砦は落ちた。この日は、多くのアメリカ人にとって胸を張る「誇りの日」であり、その後も誇り高く生きる精神的支柱になった。

 さて、 その昔、テキサスがメキシコから独立しようとした時、メキシコはそれを制圧しようと、軍隊を派遣した。メキシコ軍はサンタ・アンナ将軍に率いられ、約3000人の正規軍(【註】一説には6000人とも)が参戦した。そして、メキシコ正規軍は、サン・アントニオ市に進軍してきた。

 この時、市民と義勇兵の混成軍189人(資料によって182人とも187人とも)も、アラモ教会を砦として立て籠(こ)もった。そして189対3000であるから、その決着は戦う前から決まったようなものであった。しかし、戦闘の火蓋(ひぶた)が切られると、予想に反したことが起った。

 予想に反して、僅か189人の混成軍が眼を見張るような戦いを繰り広げたからだ。
 此処で壮絶な戦いが繰り広げられ、メキシコ軍の大軍の前に、勇敢に戦ったのである。その戦いぶりは、「一歩も譲らず」という壮絶なもので、大激戦が繰り広げたのである。そして最初から負けると分かっている、負け戦を敢行したのである。負けると分かっていて、そこから逃げ出さずに踏みとどまり、決死の覚悟で戦うところに「男の美学」がある。

 戦闘は1836年2月23日に始まり、13日間に及んだ。そして激しい攻防の末、3月6日、アラモ砦は遂に陥落する。そして此処を守る、最後の兵が倒れた時間が、午前6時30分だったといわれる。勇者たちの永い眠りについた時間である。

 その後、この町はメキシコ軍の手に落ちる。また189人の市民と義勇兵の混成軍も全滅する。しかし一方で、メキシコ軍側の被害も甚大で、戦死者は1500人以上と言われる。この計算は、一人が、おおよそ約十倍の、十人弱を相手にしたことになる。これだけでも、この戦いが如何に激戦であったかが想像でき、そして此処で戦った戦死者が如何に勇敢であったかが分かる。まさに、死守の覚悟を持ち、誇り高い精神を後世に残した。

 このアラモ砦の攻防における自己犠牲の精神は、「アメリカの魂」とまでいわれ、戦闘で大活躍したデビッド・クロケットは、日本人でも知る者が多い。また、この砦の指揮官だったウィリアム・バレット・トラビスた、副指揮官のジェームズ・ボウイらの武勇伝は、その後、多くの伝説を生むのである。輝かしい歴史は、誇り高い精神によって築かれたのである。

 この戦いには、一つの人間の生き態(ざま)を示す、崇高(すうこう)なものがある。それは「人間としての誇り」「魂の永遠なる存続」である。自分たちが死ぬことで、後に続くものが居るからである。死ぬことによって、「魂の永遠」が約束されたのである。

 さて、これに似た戦いは、大東亜戦争(太平洋戦争)当時、日本軍にもあった。
 太平洋戦争下、日本軍は至る所で負け戦を展開していた。しかしこうした中、連合軍を驚嘆させたのは、中国とビルマ・ルートが交叉(こうさ)する地点で敢闘した、拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の守備隊の活躍がある。
 蒋介石(しょう‐かいせき)麾下(きか)の最精鋭機甲師団がビルマに向かって南下した時、その途中には日本軍守備隊が守る拉孟と騰越と言う陣地があった。

 当時、ここを守備していた拉孟守備隊長・金光直次郎(かねみつ‐なおじろう)少佐の許(もと)にあった兵力は、歩兵・砲兵・工兵を併せて僅か約1400名足らずで、これに対して中国軍の兵力は、一個師団(組織編成は15000名からなる)ないし二個師団であり、2〜3週間ごとに兵を交代させて、一刻も兵力を弛(ゆる)めないと言うものであった。
 更に、二百門以上の重砲をもって砲撃し、数十機の戦闘機や爆撃機で空撃を繰り返した。

 守備隊長の金光少佐は、陸軍士官学校や予備士官学校出身の将校ではなく、二等兵からの叩き上げの軍人であった。それだけに、兵隊に対しての理解と愛情があり、また現場で実戦経験を積んでいる為に、その戦闘技術も軍上層部高く評価されていた。その温厚かつ篤実な人柄は、部下達だけではなく、従軍看護婦や従軍慰安婦からも愛され、信頼されていた。

 金光守備隊の火力と言えば、10センチ榴弾砲十門、山砲四門に過ぎず、金光少佐はこれを効果的に遣って、中国軍包囲網に大きな打撃を与えた。夜になると少数の野戦斬り込み隊を組織し、敵陣に斬り込んで敵の武器弾薬を奪い、昼間はこれによって、敵の攻撃を撃退し続けた。しかし、敵の攻撃は激しく、ここで死闘3ヵ月を繰り返した。

 多くの将兵は傷付き、本来ならば野戦病院の入院患者として居るはずの片手、片脚、片目の兵士も、第一線の陣地に立て籠(こも)り、従軍看護婦や従軍慰安婦達も、此処に立て籠もった。彼女達も小銃を手に戦ったのである。まさに、アラモ砦の市民と義勇軍の混成部隊を髣髴(ほうふつ)とさせ、また長岡藩の「長岡攻防市街戦」【註】長岡藩では藩主が京都所司代に任じられた為藩兵を率いて京都に出兵し、その留守を守る長岡では、僅かな藩兵に城下の婦女子や老人達が参戦し、「墨子(ぼくし)集団」を髣髴とさせる市街戦を展開した)を髣髴とさせるではないか。

 負傷した兵隊や、女性達の闘魂を支えたのは、金光少佐個人に対する人間的な信頼への傾倒であった。「兵は信じるものの為に死ぬ」という、諌言を地でいったようなものであった。

 やがて弾薬が尽き、兵は殆どが負傷者ばかりとなる。金光少佐は最後の総攻撃を決断する。そしていよいよ決行の時機(とき)が迫った。
 金光少佐は、日本人従軍看護婦や従軍慰安婦を集め、「中国軍は、君らを捕虜として扱うが、決して殺したりはしないだろう」と、最後の言葉を述べ、護衛兵をつけて、彼女らを陣地の外へ脱出させようとする。
 最初は、彼女達は護衛兵に付き添われて脱出路の半分のところまで来るが、しかし日本人女性達は戻って来て、「敵の捕虜となって辱(はずかし)めを受けるくらいなら、隊長と一緒に死にます」と言う。そして、従軍慰安婦も同じことを言う。
 かくして拉孟守備隊は、此処で玉砕(ぎょくさい)する事になる。女性達も、戦士として金光少佐と運命を共にしたのである。

 戦争において、何処の国の軍隊でも同じなのであるが、勝った側は、負けた側の国の婦女子を強姦すると言うのが通り相場的行動となっている。
 戦場での兵士の心理は、極度に緊張する為に、その反動として性欲が高まり、勝てば、負けた側の婦女子の強姦すると言うのは通り相場であり、残念ながら、戦争犯罪と無縁だったと言う軍隊は、歴史上、ただ一つの例外すらないのである。したがって、婦女子は男の暴力に屈しなければならない。これは、今も昔も変わらない。

 さて、騰越守備隊も、陣地に立て籠(こも)って壮絶な死闘を繰り広げる。不完全な陣地ながらも、二十倍以上の敵を相手にして戦い、抗戦60日余りを守備し、最後の指揮官・太田大尉を先頭に突撃を行ない全員玉砕した。
 果たしてこの戦場を戦った兵士や、それの随行した女性達は、その最期が清らかであったか否かは、偏(ひとえ)に勇気と信念に懸かるであろう。任務を遂行したのであれば、魂は穢(けが)れのないまま、その清らかさが保たれた事になる。

 この戦闘の後、蒋介石は、「最近の我が軍へ勇戦は、まことに喜ばしいものであるが、なお、足らざる兵がすくなくない。日本軍の拉孟と騰越の守備隊の守備隊ごときは、まことに敬意を表すべきものであり、斃(たお)れてもやまない勇戦敢闘は、我が軍も大いに模範とすべきである」という、日本軍玉砕に対する最高の追悼(ついとう)を下している。しかし失われた命は、再び蘇(よみがえ)ることがなかった。死んだ将兵や女性達の多くは、今世に魂の安住を求めるのではなく、彼岸に魂の安住を求めたのである。

 負けると最初から分かっている戦いに対し、そこから逃げず、踏みとどまり、堂々と負け戦を演じる。これこそ、まさにサムライの意気込みである。

 繰り返すまでもなく、戦争がどんなに愚かであるか論ずるまでもない。しかし戦争を避ける事が出来ないのも、また事実である。
 戦争そのものを正義であるか否かは別にして、戦争によって失われる命の犧牲は膨大なものであり、戦場における人の命など、虫螻(むしけら)同然となる。そして一人の兵卒や一民間人の活躍など、歴史の記録に残らぬ程、哀れで、無慙(むざん)に消滅していく。

 しかし一方で、戦争に駆り出され、無慙に消えていく、人間の命とは、一体何だろうと考えさせられる。これを考えると、実に遣(や)る瀬(せ)ない思いが湧き起って来る。そうした事実を背景に、戦争と云う現実から、人間は逃げ果(おお)せる事が出来ない。理不尽に死んでいかなければならない。これを考えると、人間の一生は、実に無慙とも言える。
 では、こうした現実に直面した場合、一体人はどうしたらよいのであろうか。

 人間を論ずるその価値観は、非常の事態に遭遇した時、それを「どのように対処するか」に懸かるようだ。
 平時の日常生活を営む上で、優位に物事をすすめる事の出来る人であっても、一度、戦時の非日常に事態が変化した時、これに対応できず、無態(ぶざま)を曝(さら)す人は少なくないだろう。特に、知識と権威と学閥で人生を渡って来た人は、この傾向があるようだ。
 知識の施行は勇気と信念の実践ではないから、これが欠如していると、今までの理屈が通らなくなって混乱に陥るのである。

 

●魂の自由を得る

 現代人の習性を分析・観察すると、その多くは「無力で善良な市民」であり、その中には無関心、金・物・色への執拗なまでの執着、ウソ、小心、怠慢、放置、美食への貪欲、無駄遣い、不倫、無節操、性器教育歓迎、恋愛遊戯、満たされぬ不満、人よりもいい暮らしをしたいと願う出し抜き、見通しの利かない不安、心配事、他への批難や罵倒などを漂わせながら、その一方に、添えられた程度の些(いささ)かの優しさと、変化し易い正直さを持っている人が殆どである。

 こうした人間の殆どは、自分は他人より優れていると、皆そう思いこんでいる。先入観も激しい。また先入観ゆえに「アンチ○○」も起る。他を揶揄(やゆ)し、異常なまでに非難し、自分の優れた論理を一番と考えている。こうした元凶に趨(はし)るのは、多くはニセ情報を流す報道によってである。ニセ情報にまんまと撹乱され、眼を晦(くら)まされる。

 そして、こうした物が移入されるのは、多くはマスコミを通じてである。現代人のマスコミから操られる元凶は、凡夫の根本的習性である「踊らされる」というところにあるようだ。
 弱くて、愚直なほど正直で、暴力や強い者には弱く、自分よりレベルの下の者、貧しい者に対しては、自分の方があれよりマシだと高を括(くく)っているのが、実は愛すべき庶民的微生物であり、これが「踊らされる側の実態」である。

 しかし、自分が「自分の評価を普通」と評価したとき、その人は、もう墜落しているといえる。
 「普通」とは、実に曖昧(あいまい)な言葉である。可もなく不可もなくというところであるが、裏を返せば善いことも悪いこともしない無力で善良な市民の代名詞であり、「普通」という自己評価が、実は自分を間接的に陥れていることを知らないのである。

 人は、自身を「普通」と評したとき、自己の魂は完全に眠るのである。そして搾取(さくしゅ)される恐怖や騙(だま)される恐怖に苛(さいな)まされながら、心の中に最も強いコンプレックスを抱き、積極的に何かを見出したり、それに向かって探求する、理由付けまでもを見失ってしまうのである。つまり、これは魂を眠らせた状態であり、「闘魂」として必要不可欠な魂の存在までもが、不明瞭(ふめいりょう)になってしまうのである。
 昨今の現代人に、「魂の不明瞭さ」や「魂の不在」を感じるのは、何も筆者だけではあるまい。

 魂は自分の裡側(うちがわ)にある。しかし、自覚の足らないものは、魂の存在すら感じない。魂の存在に気付かない者は、自由を失った人である。
 武人の態度は、心に恐れを抱かず、頭を毅然(きぜん)と高く立てているところに自らの自由を象徴しているのであって、現代の世の、一般世間が言う、自由・平等・博愛の「自由」とは違うのである。権利を主張する自由と、自らの魂が自由であるということは、根本的に異なっているのである。


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