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志高く、より良く生きるために

■ 壮年ならびに高齢者のクラス■
(そうねんならびにこうれいしゃのくらす)

●「よりよき死」に向けてラスト・スパートの晩年生活

 かつて「団塊の世代」は、ルネサンス以降の近代史において、ブルジョア革命の完成により、中世の封建時代に止(とど)めを刺したように、資本主義の双頭であった共産主義革命を目指して、青春のエネルギーを燃やし、日本の赤化を夢見て奔走した時代を過ごした。
 近代資本主義に止めを刺す為に、青春を捧げ、純粋な気持ちをもって、人民革命の階級闘争を夢見た。しかし、それだけでは新しい方向性は見出せなかった。

 そして、「団塊の世代」が等しく直感したことは、共産主義の出現によって、このイデオロギーと社会システムは、一つの試案であり、その試案が実験的に、ロシアの大地に貧農層を中心にして展開された一種の暴力革命であることに気付かされたことだった。
 この社会システムは、何処までも思索の範疇(はんちゅう)を出なかったのである。それは全くの虚構理論だったからである。

 ただ今日でも、世界の何処かで、内紛や民族紛争に、共産主義の革命論理が担ぎ出されるは、このイデオロギーが底辺の不満を和らげる虚構効果があるからである。一握りのエリートが、人民を指導する場合は、この虚構効果が、人民の頭を、幻想をもって撹乱させる働きがあるからだ。その為、今でもこの理論を信奉する唯物論者は多い。

 一方今日に見る、民主主義はどうだろうか。
 この政治システムは、正しく機能しないばかりか、老いて、そのシステムの多くが、腐朽化し始めている。このシステムが、多数決により、真理を探究できないことが明白になり出したからだ。このシステムが悪の多数決に成り下がることは、今日の官製談合に見る政治下の腐敗や、行政官の腐敗を見れば明らかである。
 しかし、民主主義に代わる、ポスト民主主義がない。また資本主義に代わるポスト資本主義がない。つまり、今日のイデオロギーには、それ以降の代替案が全く存在していないということである。

 これは何と恐ろしいことではないか。現代人は、時代の転換期にあたり、何を模索するか、何を人生設計に描き出すか、その具体的な指針が描けずに、迷宮の中をさまよっている。こうした隙(すき)に、新たな社会主義が、新たな共産主義が、今日の社会の矛盾を突いて、代替案として浮上するかも知れない。その兆候が、既にアジアには見え始めている。
 そして、こうした時代の訪れは、歴史を見れば、周期的に襲い、周期的に繰り返すことが分かる。これからも不穏と混沌は拭えないだろう。

 では、人はこれから先、何を模索するのか。人生の晩年期に至って、これからの新しい力と、新しい希望を見出す為には、どう立ち回ればよいのか。この模索に頭を悩ますだろう。
 一方、生き生きとした、輝かしい人生の「有終の美」を飾る為には、晩年者は、具体的に根本なる力を何に求めればよいのか。そんな事を考えるようになるだろう。

 晩年に達し、最早これから先、野心的な立身出世を考える晩年層はいないだろう。また、一夢や二夢を追って、成功致富(せいこうちふ)の、アメリカン・ドリームのような幻想を追いかける御仁(ごじん)も少なかろう。
 また、晩年に達し、「奮闘だ」「努力だ」「根性だ」の大声に反応して、跳梁(ちょうりょう)する御仁も皆無であろう。もう、この歳になって「根性論」もないだろう。
 既に「勇気論」を語るには、その機会を逸し、わが身を「叱咤激励」するには、肉体が思うようについていくまい。青年期は過ぎ去り、人生を熱っぽく語る青雲の志も、今は遠き過去のことになっている筈だ。

 だとすれば、わが身に備わった、いまだ消え去らぬ生命の「火」のエネルギーを、どう有効に使えばよいか、こうした命題が浮上してくる筈だ。晩年の人生のラスト・スパートに賭(か)けて、己(おの)が魂を効率よく燃焼し、「よりよき死を得るには、どうしたらよいか」そんな事が脳裡をよぎる筈だ。もうそろそろ、こんな模索の準備を始める年齢でもあろう。

 これまで生きてきた証(あかし)は、智慧(ちえ)の結晶であった筈(はず)だ。これまでの人生から、若者とは一味も二味も異なる、智慧を集積した筈だ。経験も十分にある。この力に、更に磨きをかけて、わがラスト・スパートに、「本当の力」を見出さなければならない。それが晩年に差し掛かり、これを通過していく長老の心意気ではなかったか。若者に尊敬されて然(しか)るべきであり、若者から、殴り倒される標的物ではなかった筈だ。

 「団塊の世代」は、力を失っているのではない。力の力を見失っているのである。だた、力の究極の根源を見出せないだけなのである。その力が、自分の奥深くに仕舞われている事も知らないで……。

 「やれば出来る」のではない。「やれば」ではなく、「やらなければ」出来ないのだ。則(すなわ)ち、「やろう!」そうすれば「出来る」のだ。多くの庶民は、権威筋の言に騙されて、「やれば出来る」と思い続けてきた。
 例えば、人生のこれまでに「やれば出来る」と思って、これが成就したことがあったか。一度もなかった筈だ。アクションを起さない者が、行動を試みない者が、「やろう」と考えただけで、成就した現象が、一度でも起こったか。
 「やらなければ成就できない」のは、紛(まぎ)れもない事実であった。

 「やれば」は、何処まで追求しても未来形であり、「やらなければ」出来ないということは、今までの人生を通じて、いやというほど思い知らされてきた筈だ。
 結局、わが身を動かし、「やらなければ出来なかった」のである。そして、「やれば出来る」は、確かに幻想であったことに気付く筈だ。甘い自分の、甘い姿に酔い痴(し)れまい。謙虚に、これまでのわが人生を振り返ろう。そうすれば、自分の甘さが浮上してくる筈だ。自分の固定観念や先入観が、間違いを伴って浮かび上がってくる筈だ。そして、「改心」の時機(とき)が来たことに気付こう。

 では、晩年期になって、いったい何をやればよいのか。
 それは、単に外ばかりに眼を奪われず、裡側(うちがわ)に眼を向けることだ。「自分とは何か」と見詰め直すことだ。自分に振り返ることだ。ここに、壮年期のラスト・スパートに賭(か)けた、「最後の賭け」が待ち構えている。これにこそ、心血を注ぐべきだ。
 ラスト・スパートに賭けて、その準備を完了する前に、そうした努力をする前に、あるいはそれと共に、「ラスト・スパートに賭ける自分」の姿を見詰め直そう。今までの自分とは異なる、自分の「第三者の眼」で、もう一度、自分自身を点検し、見詰め直してみてはいかがだろうか。

 自分の「根源の力」に立ち返り、「今からだ」という信念を燃やすことが肝心ではあるまいか。
 「よりよき死」を得る為に、それが何よりも必要ではないのか。
 無駄な動きをしない為に。無駄な力を使わない為に。力まない為に。疲れることがない為に。あるいは一度や二度挫折してもそれに挫(くじ)けず、勇気をもって進む為に。わが魂を、果てしなく進化させる為に……魂を燃焼させる以外、道はあるいまい。

 西郷派大東流合気武術は、肉体武道でもないし、筋トレを主体として、柔剣道や空手のように肉体を酷使したり、大量の汗をかいて、爽やかな汗などと、スポーツ競技に邁進(まいしん)する武術集団ではない。人間のもっと根深い、「根本」に立ち返り、「よく生きる」ことを模索して、その中から、「よりよく死を得るには、どうしたらよいか」という指針を示す、武術的な思想団体である。それは真摯(しんし)をモットーとする。

 その根源は、外の敵と争わないことである。また、敵を作って争わないことである。競争しないことである。資本主義の競争原理とは逆を行く。
 外側ばかりを見詰めないで、「自分とは何か」という探求の中に、自らの人生哲学を模索し、その哲理に基づいて、自己の裡側(うちがわ)を探求する奥深い武術なのである。

 晩年に至って、若者と同じ筋力、若者と同じ体力、若者と同じ根性は必要ない。根性主義では、肉体を損傷するばかりでなく、次なる段階の人生観を発見することは出来まい。
 「強いぞ、強いぞ」とか、「地上最強」など、外側に向けての強弱論を連発する時期は終わり、「本当の強さとは何か」という模索を開始するのが、壮年期ならびに晩年期の課題なのだ。誇り高く生き、自らの名誉を重んじ、肉体の力比べを排して、「本当の強さ」に向かって、どれだけ努力したかに懸(か)かる。

 傲慢で、肉体美を誇ったボディービルダーも、百年もしないうちに、こじんまりとした骨壷に納まってしまう。そこかつての筋肉隆々の跡形すら見つけ出すことが出来まい。剛勇を誇り、怒声を発して、強持(こわも)てだった武勇伝の持ち主も、百年以上は生きられまい。百戦百勝の兵(つわも)のと豪語する勝者も、やがては土へと戻る。
 この世の変化の法則は、実に「儚(はかな)い」ことだ。無常観が漂っていることを忘れてはなるまい。
 鮫のように貪欲で、雀のように煩(うるさ)い強弱論者も、一度(ひとたび)死を迎えれば、今までの傲慢が幻想であったと気付く筈だ。
 何故ならば、傲慢は馬鹿げた片意地であって、本当の強さではないからだ。

 では、「本当の強さ」とは何であろうか。
 武の本義からすれば、「戈(ほこ)を止める」のであるから、自ら仕掛けて争わないことではないだろうか。
 つまり、百年兵を練っても、これを用いないことが、本当の意味の強さではあるまいか。好戦的に挑戦したり、自分の実力に過信して、それに頼らないことである。謙虚さを忘れれば、必ず、その足許(あしもと)をすくわれる。人間は、自分では完璧(かんぺき)であるように思っていても、他人から見れば隙(すき)だらけである。その隙をつかれて、大敗をすることもある。

 「強さ」とは、勝負をして、それを証明して見せることではない。競技武道や格闘術の論理に随えば、試合で勝負し、これに勝った方が強いとされている。スポーツマンシップに則り、決められたルールを厳守し、決められたリングの寸法の中に入り、ゴングと共に格闘を開始し、制限時間内に相手をノックアウトするか、少しでも有利に試合を展開して相手にダメージを与え、多くポイントを獲得した方が「勝ち」とされる。
 こうして「勝ち」とされる側面には、科学するスポーツの、数値によるデータが格闘選手の側面を支えている。そして、勝ちを齎(もたら)す媒体は、選手個人の才能と素質と、体力的持久力の有無である。

 だか、こうした天成の才能と素質の支えられた有名を馳せた格闘選手も、自動小銃を構えた相手には手が出まい。格闘経験のない無名戦士であっても、銃を構える相手には手も足も出せまい。
 また、試合慣れした格闘選手も、刃物を持った相手や拳銃を持った相手と闘う場合は、いつもとは勝手が違うだろう。

 わが流の教えには、人間の体力や腕力にはあまり期待をかけていない。こうしたものは、はじめから問題にしない。どこで、誰に学ぼうと、どのような過去に素晴らしい経歴を持っていようと、こうしたものは一切問題にしない。
 勿論、武術を実践する以上、僅かながらの基礎体力は必要である。しかし、腕力に物を言わせ、体力に物を言わせ、これにこだわり、奔走する醜態は、スポーツの世界のものであり、わが武術のものでない。「道を求める武」には、こうしたものは必要ない。したがって強弱論は存在せず、一切の弱肉強食の論理は否定している。
 問題にするのは、「古人の智慧」であり、古人が心血を注いで築き上げた「術」なのである。その術を、正しく消化するか否かに懸かっている。

 力任せに根性一辺倒主義で、猪突猛進するのは、智慧の無い者がすることだ。筋トレなども、若者以外は無駄であろう。晩年に差し掛かった高齢者っがやれば、即、心筋梗塞を起して、突然死するであろう。
 したがって、わが流のモットーは、練習という肉体トレーニングをせず、汗を流さず、それでいて「術に長けている」という状態を、精神と共に練ることだ。 つまり、「本当に強い」とは、肉体の次元を超えた「術に長けている」ということ言うのである。その意味で、高齢者と雖(いえど)も、術に長けるチャンスは、まだ失われていないといえる。要は、「やればできる」ではなく、「やらなければできない」のだ。

 こうした武術思想で、「修行の何たるか」を展開しているのは、日本広し、否、世界広しといえども、わが流だけであり、礼法と共に、そこには人の為(な)すべき道があるものと信じる次第である。
 晩年に差し掛かった人間が、命を賭して励むことは、金儲けを企んだり、色に現(うつつ)を抜かしり、色情に猛り狂って異性を追い回すことではあるまい。また、「愛だ」の、「恋だ」のと、渇愛(かつあい)に猛り狂うことでもあるまい。況(ま)して、意中の人を金でモノにして、妾(めかけ)に囲い、妾相手に腹上死することでもあるまい。

 人間は死ぬ為に生きている。
 死ぬ為に生きているのならば、その死は、「よりよき死」でなければならない。野心を燃やして無理に頑張り、無理に力んでも、結果は知れている。況(ま)して、こうした欲望を自分だけの為に燃やしているのであれば、その結果は高が知れたものになる。
 人間には「運命の陰陽」の支配が働いている。自分自身の欲望の燃焼は、どうしても結末時に、この支配に取り込まれ、ここから抜け出すことが出来ないのだ。

 得をしたつもりでも、その得はやがて回収され、相手をやりこめたつもりでも、結果的には、その反撃としてやり返される。人生の帳尻は最後で、きっちりと合うようになっているのである。臨終間際の総決算は、誰にも平等に、これこそ同等に、見事なまでに帳尻を合わせてしまうのである。
 こうした支配からの仕返しを避ける為には、自分の心の中に思い上がりを作らないことである。死後に意識が有るか無いかを考えるよりは、謙虚に、生きている限りは、「命の燃焼」を模索するべきである。

 

●「必ずやってくる死」をどう解決するか

 人間死後どうなるのか。 それは人類共通の最大の関心事であろう。
 中には、「死ねばそれでお終いよ」という威勢のいい唯物論者もいよう。また、「霊界などあるものか」と、否定的な考え方をする無神論者もいよう。あるいは極楽浄土を固く信じ、そこに生まれ変わることを、ひらすら念じる念仏信徒もいよう。情報過多の時代、人様々である。

 しかし、中途半端な無神論者は、そうはとらないようだ。
 霊界の存在や神仏の存在は、一応「科学的でない」(とはいっても、十七世紀のニュートン物理学を科学的と信じているようだが)と一蹴(いっしゅう)しながらも、死ねば葬式を挙げ、多額の金を払って戒名をつけてもらい、墓か納骨堂に入り、経典も読めないくせに読経を求め、法要もそれぞれの回忌ごとにして欲しいと願っている。そこがまた、矛盾の甚だしいところであろう。
 ある意味で、だからこそ「中途半端な無神論者」の名に相応しいとも言える。

 更に、死後の次なる関心事は、死んだ後、死者の霊は生まれ変わるのか、それとも、生まれ変わりなどありえず、地獄のような苦界に沈むのか。死後、意識は有るのか無いのか。
 医学者や科学者は意識など絶対にありえないというし、一方、神秘主義者や霊能者は、死後も意識は残り、これが数時間後、知覚するという。一体どちらの言が本当なのか、こうした錯綜(さくそう)に振り回されている。

 人間誰しも、一度はこのようなことを考える。医学者や科学者であっても同じだろう。一応はそのことを考えてみる。
 生まれるものは、必ず死ぬ。いつかは必ず、死がやってくる。そして、死というものを考えるとき、それで終わりなのか、その先の「死後の生活」が待っているのか、こうした事を知りたがる人は決して少なくないだろう。

 この事につき、宗教家ばかりではなく、医学者や科学者の間で長らく議論されてきた。しかし、今日に至っても、その決着には至っていない。
 現代は急速に高齢化が進む社会である。数年もすれば、日本だけではなく、多くの先進国が老人だらけになる。地球は老人だらけとなり、至る所に老人が溢れる。人類歴史史上、前代未聞の時代が到来する。
 この老人化時代が到来する中、「生」と「死」に関して、生死(しょうじ)というものが、高齢化社会での最大の関心事となりつつある。特に、これから生まれてくる次世代の未来よりも、今生きている老人の「現在」が、最も重要な意味を占めることになろう。

 それに併せて、「現在」を考える場合、「死んだらどうなるか」というテーマは、未(いま)だに未解決のまま糸口を見出していない。死後の問題が、長く尾を引いている。
 人の死には、いろいろある。自殺あり他殺あり、事故死ありと、多種多様な死に方があり、最も人類が恐れる死に方が、おそらくこうした死に方に属する、「横死」と言われるものであろう。

 そして、誰もに求められる死に方は、出来るだけ自然死に近く、苦しみが少なく、眠るように死んでいく「安楽死」であろう。その安楽死も、出来れば病院などの固いベットの上でなく、自宅の座敷で、家族や友人に看(み)取られながらの安楽死を願っている筈である。騒音の無い静かなところで、誰もが死にたいと願っている筈である。

誰もが願う静かな安楽死。

 高齢化社会では、「安楽死」が切っても切れない条件になってくるであろう。
 高齢化が進んでいる世の中では、ある意味をもって、目の前にちらついている「死」に対し、「苦しまずに、安楽に死ねたら」と考える、考え方が支持されるようになる。

 しかし、安楽に死ねたらという中には、現世の「苦」から解放されて、自殺するというものの考え方が生まれてくる。自殺することによって、安楽に死ねるという妄想が湧(わ)き起こって来る。
 しかし、自殺によって安楽な死に方が選択できるというこの考え方は、実に生命の尊厳を無視した、自分勝手な考え方といわねばならない。

 また、この安楽死的なものの考え方は、生命そのものを軽視する考え方を植えつけた。
 昨今の様々な、多発する殺人事件を見ても、「凶悪」の一言に尽きる。目の前に死がちらつく老人以外にも、低年齢者までが、安楽死よろしく、人間の生命の尊厳を軽く見下すようになった。近年起ったホームレス殺人は、これを雄弁に物語っていよう。簡単に、直ぐに「殺し」に結びつけ、殺人を犯してしまう。小学生でも簡単に人を殺してしまう。これは人間の命が安っぽくなったことを意味する。
 あるいは簡単に人を殺したり、惨殺行為を働く手口は、死体遺棄などの方法を見ても、実に猟奇的であり、残酷であり、精神異常に近いものがある。これも現代という社会の特徴か。

 宗教問題も含めて、自分達の主張を貫く為に、「人殺し」を正義と位置づけ、中東紛争に介入するアメリカの傲慢。
 またこれを受けて、自爆テロなどで抵抗を試みるイスラム圏の現状を見ると、その行為は、人類が地球上で一番野蛮な「種」であることが分かる。この種は、いったい何処に向かおうとしているのか。

 自分の死を恐れる一方、自分だけが何処までも生き残り、他は皆殺しの論理で殲滅(せんめつ)するという大量殺戮者の指令は、かつての「山の老人」の如くである。古代から中世の中近東の歴史は、暗殺による歴史の側面がある。また、十字軍の皆殺しの論理が働いた時代でもあった。
 しかし、人殺しまでを敢行して、主義主張を貫く宗教行動の原理は、生命の尊厳から考えると、最も野蛮な行為であるといわねばならない。

 その一方で、死を恐れる意識が働く。
 現代人は死を恐れる。死は絶対に避けられない問題であるのだが、悉(ことごと)く死を恐れる。それは何故か。
 人間は決まって、一度は死ぬ。この事実に対し、人類は長い間、人間に課せられた「死」と言う運命から逃れる術(すべ)を考え続けてきた。あらゆる英知を絞ってきた。その結果、寿命を延ばすことは出来たが、しかし死から逃れる術はなかった。

 その上、寿命を延ばしたといっても、高々5年程度であある。80歳で死ぬ老人が、薬漬けにされ、生命維持装置の世話になって多額な医療費を浪費させ、植物人間となって生き延びたとしても、85歳で死ぬという程度のものであった。そして、生き延びた5年間は、ただの寝たっきりだった。
 寝たっきり老人が、やがて回復して、社会に復帰したという話は一度も聞いたことがない。
 それは単に、起きて歩行したり、喋ったりという生活行動は皆無であった。寝て過ごした5年間であった。これに何の意味があったのだろうか。むしろ人間の尊厳を無視した、大自然の法則に反した医療ではなかったのか。

 人は何とか長生きをしたいと考える。しかし、生命維持装置の厄介になって、歩くことも、喋ることも、自分の意思表示も出来ないような、植物状態での長生きは、決して考えていない筈だ。健康であるという意識下の長生きであろう。
 そして、死ぬ時は安楽死をしたいものだと願い続けている。

 更に死後は、地獄よりは天国へ、灼熱地獄よりは極楽浄土に生きた意を願っている。更に、美しい死でありたいと願っている。交通事故や航空機事故などで、ぐちゃぐちゃになって、顔もはっきり分からないような死に方だけは絶対にしたくないと思っている。あるいは殺人事件や、ビル火災などに巻き込まれて、無慙(むざん)な横死はしたくないと思っている。

 しかし、皮肉なことに、この世の現象人間界には、「恐れるものは皆来る」という運命の支配法則が働いているのも、また事実である。逃げれば追いかけてくるのだ。

 筆者の知人に、ある大学病院の教授で、世界的にも著名なガン治療の権威がいた。この教授は、患者にガンを裁判官のように告知し、自らが執刀して、一時的に患者の命を延命させてきた医学史に輝かしい経歴を持つ人であった。その功績は、医学者として評価に値するものであろう。

 然しながらこの教授は、一方で、自らがガンになることを懼(おそ)れていた。大気汚染やタバコの煙で肺ガンを防止する為に、外出時には常にマスクを着用し、食事の時に食べる食パンの耳は総て切り落とし、焦げた物や、熱い物は食道ガンになるとのことから、一切口にせず、常々からガン予防に大変な気の遣いようだった。ところが皮肉にも、数年前ガンで亡くなってしまった。

 ガンの発症は、単独的な病因が起因しているのではない。いろいろな因子の複合的要素が組み合わされて、ガンを発症させるのである。然(しか)も、ヒトの体内には、先天的に免疫力が存在していて、一生の間、誰でもガンを発病し、その間、免疫力が働いて自然治癒しているのである。
 しかし、今日の現代医学では、ガンに限り、「自然治癒力は働かない」というのが定説となっている。この定説が、マスコミをぐるにして「ガン恐怖症」を作り出した。したがって、ガンを告知されると、多くの人は驚きと悲しみと怒りを爆発させる。その後、一旦は死を覚悟する。ガンと告知されなくても、「もしかしたら、自分はガンではないか」と、主治医の言葉に疑いを抱く。

 ガンを克服するには、早期発見による治療が必要であり、今日の最先端の治療により、ガンは克服できるとしている。
 ところが早期発見における定義は初期段階ではない。「初期」という定義の中には、これまでの「初期」「中期」「末期」として分けられていたガン区分に、「ゼロ期」という段階が定義付けられた。「ゼロ期」でなければ早期発見ではないという考え方が、医学者の間に定着しつつある。「ゼロ期」とは、CTスキャンにも、レントゲンにも映らない状態を言う。

 この考え方は、ガンが治癒する確率が非常に少ないことが根拠になっている。それがまた、ガンに対するガン発症の恐ろしさを煽る結末を招いた。そして、ここから生まれた想念は、「恐れるものは皆来る」だった。
 これにより、「ガン・ノイローゼ」という鬱病(もうい)が猛威を振るい始めた。ガン・ノイローゼ患者もガンになるのである。

 一方食べ物は、昨今では悪くなる一方で、それでも動蛋白食品が未だに根強く信仰されている。食肉を「最高のスタミナ源」と現代栄養学は位置づけしている。その最たるものが、食肉の持つアミノ酸信仰であり、また脇役として牛乳信仰である。
 口からガン発症因子の進入を許し、耳からガン・ノイローゼの悪魔の囁(ささや)きが襲ってくる。二箇所からの揺さぶりをかれられ、現代人は苦悶(くもん)している。そして、これが内外からのストレスになり、血液を汚染し、細胞を変質させて、ガン免疫力を消失させてしまう元凶となっている。

 ガン・ノイローゼに罹(かかる)ると、確かにガン発祥の確率は高くなるという報告がなされている。これは「自然退縮が働かない現象」が起こるからだと考えられている。心配性で、几帳面な仕事人間ほど、ガンに罹りやすいといわれる。
 これこそ、「恐れるものは皆来る」を地で行くような、的中率を裏付けした言葉ではないか。

 恐れを抱いて逃げるより、立ち向かうことではなかろうか。迎撃する姿勢がいる。そうでなければ、消極的な思考は二重三重のダメージを受ける。
 守るばかりではダメである。予防医学と称して、安全圏にばかり執着していてはダメである。問題は、体力をつけることではなく、病気になっても「直ぐに治る体質」を養うことである。体力と体質の違いを把握するべきである。
 体力養成の為に、ボディービルダーとなって、重いバーベルを持ち上げても、重いダンベルを振り回しても、ガンになる人はガンになる。体力があっても、体質が悪ければ、ガンに罹る。

 体質の良さは「免疫力」を指す。「自然治癒力の働き」を指す。自然退縮は、ガン細胞においても働くのである。
 ガン細胞は、もともとは正常細胞が変質したものであった。したがって、ガン細胞への抗ガン剤の投与は、結局、自分の細胞を攻撃していることになる。その他、摘出手術や遺伝子療法やコバルト療法などがある。しかし、完璧ではない。その為に、ガン発症が認められて、5年以内に多くのガン患者は、その殆どが死に絶えるといわれている。
 また、その間に費やされた個人医療費は、平均で約800万円から1000万円であったという。この金額は、何と「騙しの葬儀屋」の葬式代に匹敵する金額ではないか。ガン治療でこれだけ絞りとられ、葬式代でこれだけの費用が嵩(かさ)めば、まさに「泣き面にハチ」である。ガンの罹り損である。

 そして忘れてはならないのは、ガン患者相手の「ガン産業」は、年間10兆円とも20兆円ともいわれる巨大産業に大成長した側面を持っていることだ。いまやガン産業は、ガン患者「さまさま」の産業なのである。これに医師、看護師、レントゲン技師、や医療技術者、薬品メーカプロパーが皆ぶら下がって飯を食っているのである。
 誰かが儲かっているということは、誰かが損をしていることになる。もっとよく考えれば、資本主義下では、一個人の幸福は、その他の大多数の不幸の上に、一個人の幸せが築かれている。医療産業が儲かる背景には、病気に罹る、その他、大勢の微生物がいるからである。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」この世の構造は、愛すべき微生物が餌食(えじき)になる社会構造でもあるのだ。
 こうした毒牙にかからない為には、日頃から食生活には心を遣い、玄米正食を実践し、動蛋白食品は出来るだけ控える食生活が必要であろう。暴飲暴食を避け、喫煙の習慣を一掃し、不摂生をあたらめる必要があろう。

 死生観は自らの責任で決定すべき事柄である。
 占い師や霊能者や職業祈祷し、はたまた病気治しの新興宗教に頼るものでもない。自己責任が厳しく問われる時代、長寿もまた自己責任より成就されるものであり、その「よりよき死に方」も自己責任により全うされるのもである。生き方も、死に方も、自己責任が問われかねない世の中に変貌しつつある。
 「よりよき死に方」を得るにはどうしたらよいか、深く思料する必要がある。


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