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志高く、より良く生きるために

■ 壮年ならびに高齢者のクラス■
(そうねんならびにこうれいしゃのくらす)

●朝は300ccの玄米スープに、昼と夜の一日2食主義

 多くの日本人は、「朝食をしっかり摂る」という、現代栄養学の食指導と迷信に長い間振り回されてきた。
 また、「朝食は一日の活動エネルギーの源」というウソに騙されてきた。そしてこれが、多くの日本人に習慣化され、常識化され、この為に現代病に斃(たお)れていく人も少なくなかった。朝食を摂れば、体調が悪くなる人も、現代栄養学のウソに騙されて、それでも無理に朝食を詰め込もうとした人がいた。

 中には、勤めに出る前に寝坊して、家で朝食が摂れなかったといって、駅の売店などで、牛乳とアンパンなどの菓子パンを買い、それで無理に朝食を詰め込もうとして、糖尿病になった人もいた。毎日、白砂糖が使用されたアンパンを一週間に5個ずつ食べ続けたとして、一ヶ月では20個強になる。年間では240個という膨大な数になる。
 しかし、白砂糖がふんだんに使われたアンパンは、無理に食べなければ食べないで済まされる食品である。全くばべなかった人に比べ、240個とはあまりにも多い数である。

 では、なぜアンパンと牛乳のコンビで、これを朝食とする習慣がついたのか。それはある現代栄養学者がテレビの健康番組で、牛乳とアンパンは、朝の眠った脳の血糖値を上げる効果があり、この二つの食品コンビは脳の働きを活性化すると公表したことからだった。それ以来、何処の駅のホームの売店でも、牛乳とアンパンを食べるサラリーマンの光景が見られた。
 こうした食品を頬張りながら、会社へと向かうサラリーマンは、結局、糖尿病を患い、腎臓病を患い、その挙句に人工透析に頼らねばならぬ人も出た。

 「朝食をしっかり摂る」という現代栄養学理論は、その結果、どういう現実を導き出したか。多くは、健康診断で、異常の状態が現れる始末だった。

 「朝食は一日のエネルギー源」などという考え方の根拠は、人体を機械と看做(みな)した考え方である。短絡的な考え方であり、医学的な根拠は全くない。人間の躰は機械とは異なる。断じて人間の躰(からだ)は、車などの機械ではありえない。車はガソリンスタンドで、ガソリンを給油すれば直ぐに動く。ところが人間はそうは行かない。

 人体は機械と異なり、生体としての本質的な違いがある。人体は、食べ物を摂って、それがエネルギーに還元できるようになるには少なくとも、7〜8時間はかかる。エネルギー化する為には、複雑な代謝機能を経て、食糧は始めてエネルギーとなるのである。したがって、朝食が、その日の前半の活動源になることはありえない。今日一日分のエネルギーは、朝起きた時点で、既に昨日の夕食において、ちゃんとエネルギー化されているのである。

 人体は同化作用異化作用で支えられている。そしてこの二つの作用は、それぞれに相反する方向性を持ち、物質代謝系を司っている。
 同化作用は生体物質を合成し、これをエネルギーとして蓄積する働きがあるのに対し、異化作用は生体物質を分解し、エネルギーとして蓄えた、これらを消費する働きを持つ。この働きは、夜と昼で切り替わる。夕方から明け方の太陽が沈んでしまった時間は、同化作用が優勢になり、明け方の太陽が出始める時刻から日中に関しては、断然、異化作用が優勢になる。この事だけはしっかりと頭の中に叩き込んでおく必要がある。

 現代栄養学者に続き、現代医学者や東洋医学研究者までが、異口同音にして、「朝食は一日のエネルギー源」などと嘯(うそぶ)く。誰か一人が、奇妙な仮説を立てると、それに同調する便乗人間が出てくる。情報過多である現代という時代が、そういう尻馬乗りの人間を作り出すのかも知れない。

 朝食を摂る理由の一つに、アメリカ空軍のパイロットの事故件数をデータに上げ、朝食を摂ったパイロットと、朝食を摂らなかったパイロットとの事故件数や、トラブルのケースを上げ、この数を比較した医学研究者がいた。
 これによると、「事故件数の多いパイロットに、朝食をするように進めたら、事故の起る確率が断然減少した」という。この本を筆者は、以前読んだ事があるが、この日本人研究者は、アメリカ空軍の調査に同席し、その結果報告を実際に自分の目で確かめたのだろうか。

 次に、玄米成分のフィチン酸についても、根拠不明な噂(うわさ)が、事実確認をしたことのない栄養学者の口から洩れている。
 食品の中で、フィチン酸の必要性は、原子力時代を生きる現代人にとっては、必要不可欠な成分となる。
 例えば、玄米という種子の中には、リン酸化合物の大部分を占める、フィチン酸が含まれている。このフィチン酸は、農薬の中に含まれる放射性元素や水銀などの重金属、また、食品添加物に含まれる発ガン物質などの、その他の有害物質を排出する役目あがる。

 かつてPCBで世を騒がせたカネミ油症事件の時、家族の中でただ一人、美容食として玄米を食べていた女性は油症の吹き出物が出なかったという事実があるし、長崎に原爆が投下された時、是真会病院の秋月医師ならびに同病院の看護婦や患者や医職員は普段から玄米を食べていて、これらの人々の全員が被災を受けて被爆したのもかかわらず、その後の放射能傷害が出なかったことがデータとして残されている。これはフィチン酸の解毒作用の効果であったとされている。

 一方、このフィチン酸を取り上げて、これを批判する現代栄養学者がいる。
 それは「フィチン酸がカルシウムを破壊する」という理由によるものらしい。この栄養学者の言によると、「玄米を主食として食べていると、玄米のリン酸化合物の大部分を占めるフィチン酸が、カルシウムと結びついて、骨が弱くなる」というのである。しかしこれは机上の空論に過ぎない。
 また、机上の空論に便乗する学者が出現し、世の人々に、玄米の有害性を吹聴する人がいる。然(しか)も、一切の実験データもなしにである。そして欧米の食物メジャーのなどの農作物や、畜産業者の商売の肩を持って、商売の種にしている評論家がいる。

 また、この一派の栄養学者グループや便乗組は、同じようなことを健康雑誌で公表したり、自らの著書にフィチン酸の危険性を上げ、「体内のカルシウムと結びついて、フィチン酸は消化がよくなく、カルシウムの吸収を妨げたりする有害な物質なので、玄米は食べない方が、健康には良い」としている。しかし、この机上の空論から飛び出した根拠の、実験結果は、いったい何処に存在するのだろうか。

 稲作の水田耕作が大陸から伝わった時、弥生人は玄米を食べていて、身長や骨格も、白米を食べ出した江戸中期以降の人に比べて、立派で、優れていたという。
 また一方、江戸元禄時代の頃から大流行していた白米の害である「江戸やまい」や「江戸わずらい」という脚気(かっけ)の被害は、その古墳人の骨からは認められなかったという。
 また、「フィチン酸がカルシウムと結びついて骨を破壊する」という仮説も、全く根拠のないものである。

 ちなみに、骨を弱め、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)などの障害の病因となっているのは、フィチン酸ではなく、クッキーやケーキの中にふんだんに使われている、白砂糖なのである。白砂糖こそ、カルシウムを減らす元凶なのだ。フィチン酸ではない。くれぐれも、こうした便乗組の、仮説に騙されるべきではない。

 また、玄米についても、訝(おか)しな論理を持ち出して、玄米は「危険な食品」として宣伝する現代栄養学者がいるが、「玄米が危険な食品」とする理由には、全く根拠がないことである。
 玄米を危険な食品に挙げている理由の一つに、玄米の外皮が農薬に汚染されていることを理由に上げている。
 したがって、外皮が農薬に汚染されているので、外皮を取り除く為に、精米した白米の方が、玄米より安全であるという屁理屈にも等しい御託を並べている。

 しかし、農薬の侵入は、何も外皮からだけからとは限らない。むしろ、農薬によって汚染された田圃(たんぼ)の方が問題である。田圃の土壌は汚染され、稲が土に含まれる農薬を吸い上げて、米粒の中身も、デンプン分の裡側(うちがわ)から汚染されていると見るべきであろう。
 現代という時代は、複合汚染の時代なのである。その事だけは念頭に置いておくべきだ。一箇所だけが汚染されているのではない。その意味で、玄米のフィチン酸は、玄米自身の持つ、農薬の有毒物質を、分解し、排泄する役目がある。この事から考えても、玄米が優れているか、白米が優れているか、誰にも容易に分かることであろう。

 日本では、農作物の多くに農薬や化学肥料が多く使われている。勿論、外国産の農作物も例外ではない。日本で使われているよりかなり多く、無制限に多く使われていることは事実であろう。
 特に、中国や東南アジアから持ち込まれる日本向けの農作物は、その危険性が大きい。その意味で中国産は元凶であろう。

 また、この危険の裏には、かつての戦前・戦中の日本人への恨みから、未だに「鬼子(クイツ)」という考え方が、かの国では残留しているようだ。日中戦争当時の日本軍に対するミニタリズムへの批判もあろう。その蔑称が「東洋的鬼子的胡子(ホーツ)(東洋の悪魔的侵略匪賊)ではなかったか。

 当時の侵略された日本軍に対する恨みと、日本軍が働いた匪賊的証拠の数々は、戦争紀念(きねん)館として、各地に残されている。中国の若い世代は、これが事実か否かとは関係なしに、学校教育の中では、日本の匪賊的な振る舞いを教え込まれる。また、これに反応した日本人の一部は、自虐的な攻めで板挟みになって懺悔(ざんげ)のポーズをとる。

 「かつて日本人は、中国大陸で匪賊的行為を働いた。よって日本向けの食品は、健康に有害な農薬汚染食品を日本に輸出しても構うものか」という考えが優先していたら、これは非常に恐ろしいことではないか。
 憎しみを込めた農作物が、一部の輸入機関を通じて、日本へ持ち込まれているとも言う。その根拠は定かではないが、まんざらウソでもなかろう。
 かの国の、昨今の日本と日本人への風当たりの強さと傲慢(ごうまん)さは、一種独特の恨みに似たものがある。しかし、多くの日本人はこうした恨みへの側面が、輸入農作物の中にも紛(まぎ)れていることに殆ど気付いていない。朝鮮半島の人達も、中国に便乗して、日本叩きをやる。

 今日の日本人は、金に物を言わせるだけの「お人よし」な人種に成り下がったようだ。その上、無防備であり、権威筋の仮説を真実と捉え、「長いものには巻かれろ」という旧態依然の考え方を一向に改めようとしない。そこに日本人が、外国の餌食(えじき)になる要素が横たわっている。

 仮説を直ぐに信じ、流行にも即座に飛びつく日本人の性質は、熱しやすく冷めやすい国民気質をも、同時に持ち合わせながら、ガン王国として、滅びの道を辿っている。美食漁りは、必ずしっぺ返しを食らうであろう。
 では、これを阻止する手立てはあるのか。

 ある。そこで登場しなければならない食品成分が、有害物質を排泄する、フィチン酸なのである。つまり、バランスの取れた玄米を正食として、それに準ずる穀物菜食を日々の食生活の中で実践することである。また、掌サイズの骨まで丸ごと食べられる魚介類や海藻類などの食品も、大いに健康には寄与するだろう。

 これらの考え方を念頭に置き、朝は、玄米スープ300ccを食し、昼と夜に玄米雑穀ご飯か、玄米雑穀粥(がゆ)を食することである。
 では、なぜ朝だけ玄米スープなのか。それは同化作用異化作用に大きな原因があるからだ。
 具体的には、「食事」と「睡眠」は同化作用の働きによるもので、「排泄」と「活動」が異化作用の働きである。人間は食事を行うことにより食欲が満たされ、食べたという満足感に心身がリラックスして、やがて眠りにつく。そして睡眠中に同化作用が完了する。

 朝、目覚めると、昨日に摂取した不要物を排泄する作業が待っている。不要物をすっかり排泄したら、躰(かだら)は身軽になる。朝は人間が、人間生活を営む上での大切な排泄タイムなのである。この排泄をスムーズに行う為にも、朝食は避けた方が良い。この事は、有名な西勝造先生が説いた「西式健康法」でも明らかにされている。
 ただ、液状の食品で、朝は胃を刺激し、排泄反射を高める為には玄米スープが最良である。玄米スープは有用性の高い効果食で、便通促進をさせ、体質改善を図ることに非常に優れているのである。

 過食を防ぎ、摂取した食物が、より効果的に吸収され、代謝機能を高める為には、一日二食が理想であり、「朝は玄米スープで、一日二食主義」は疲れない体質を造る為の、重要なポイントの一つなのである。

 今朝の活動エネルギー分の栄養は、昨夜のうちに十分に確保されているのである。朝食を食べなかったからといって心配は要らない。問題は、寝すぎて早朝起床ができず、床の中で出社時間までぐずぐずしていて、そのまま寝ぼけた頭で出社する、こうした事が大いに問題なのである。早起き出来ずに、朝食が食べられず、したがって排便タイムも、そのチャンスを逃してしまう事の方が問題なのだ。

 正しい一日二食主義は、朝の排便時前に、玄米スープをゆっくりと舌で転がし、十分に唾液の混ぜ合わせ、ある程度の時間をかけて食するということである。それは胃を刺激する役目と、液状のなっているスープを食する為に即効性があり、吸収力が良いという二つの利点を持っている。その上、玄米スープの食養を始めてから一週間もすると、酸性体質が改善されて、体質がよくなり、身軽にもなるのである。この申し分のない改質で、人間は今日一日の順当な、一日の生活が営めるのである。

 

●これからの食糧節約に備えて、半自給自足精神と玄米正食の心構え

 日本のエネルギー確保や食糧確保は、脆弱(ぜいじゃく)な輸入体制の中に確立されている。
 その上に、日本は地形的な防備体制の不利もある。
 日本列島は南北に長く、それを海が囲んで、一応、堀の形を呈しているが、欠点は深水が浅く、上陸し易い海岸線が続いている。

 この事は、太平洋戦争当時の米軍の沖縄上陸作戦にも見られたし、北朝鮮の日本人拉致(らち)の工作員の潜入を容易に許したのも、深水の浅さに元凶があった。この意味からすれば、日本という国は、空からばかりでなく、海からも侵入が容易(たやす)く、その上海岸線が長い為に非常に守り難く、攻める側は攻め易いという地形であるといえよう。

 更に、地形的に見て、都心は平野部に集中し、そこに主要都市が集まり、核攻撃に脆弱であるという欠点を持っている。中学生程度の日本地理の学力があれば、日本の地形からその弱さは、地図上からも読み取れる筈である。
 また、少しでも軍事的な知識がある人なら、日本は世界の先進国の中で防備的にも、どれだけ脆弱で、然(しか)も、国民全体が平和ボケに陥っているか、容易に想像がつこう。
 民主国家は市民生活の確保と共に、市民生活を守る軍隊が完備されてから、市民社会が確立されるのである。防備の不備がある民主国家など存在しないのである。その意味では、日本も例外ではなく、日本が果たして民主国家なのか、非常に疑問である。

 多くの日本人は平和ボケして、春の宵(よい)のように謳歌(おうか)し、「敵は容易に襲ってこないだろう」という希望的観測を抱いて、海外を見ている。そしてこうした頭で、諸外国を考える危険性の自覚症状も持っていない。何と、暢気(のんき)な国民ではないか。それはあたかも、ライオンの口に、餌(えさ)を差し出すウサギのように、である。
 果たしてライオンは、目の前に差し出された、餌だけを食うであろうか。
 否、獰猛(どうもう)な肉食獣は、ウサギの差し出す餌といわず、腕といわず、ウサギを丸ごと食う生き物がライオンなのだ。こうした警戒心すら、忘れてしまったのだろうか。

 この正体が見えないから、日本人は「お人よし」にならざるを得ない。また、本当の正体をマスコミが報道しないから、日本人は外国の怖さが分からない。
 日本が、大陸や朝鮮半島から、政治的に揺すぶりをかけられても、何も反論できない。これが今日の日本の脆弱な難点となり、更に、海外からの輸入に頼らねばならぬ、お粗末な食糧事情に頼っているという弱みがあるからだ。そして、こうした食糧事情の背景に、生物ならびに動物問題が絡みついている。

  アメリカの自然保護団体は、日本の調査捕鯨に厳しく抗議し、日本人に鯨を取らせまいとする。その一方で、アメリカの牛肉押し付けの輸入問題は、その最たる現れであろう。鯨を捕らせずに、牛肉を大量に輸入させようとする。どちらも同じ哺乳動物であり、一方の命を尊重し、一方の命を殺し、食べまくる。何たる矛盾であろうか。

 その矛盾の上に、国際ユダヤ系金融財閥【註】世界金融支配層のユダヤ財閥と、一般庶民のユダヤ人は異なる)の息の掛かった自然環境保護団体のグリーンピースや、その配下として、近年組織された兇暴かつ過激な海の暴力団シー・シェパードが、アメリカの何者かの指令によって、動き回り、妨害し、海の動物愛護を呼びかける。

 いまや鯨は殖(ふ)え過ぎ、オキアミの数が減少している。これは海洋の生態系を狂わし、オキアミを食糧とする回遊魚が減少している。また、アメリカの食肉用の牛のおかげで、アメリカの大地は痩せ始め、砂漠化し、これが地球環境に悪影響を齎(もたら)している。鯨肉は禁止だが、牛肉を食べることは許されるという勝手な論理で、白人達は傲慢な態度をとる。

 また、グリーンピースは捕鯨に反対していながら、日本大使館に、鯨の死骸を投げ込むという、凄いパフォーマンスをやってのけた。 捕鯨に反対する立場でありながら、鯨の死骸をさらし者にする感覚が信じられない。
 その上、「牛や豚は知能が低いから食べてもよい」という、何とも訝(おか)しな論理は、一体何処から出ているのか。むしろ、牛や豚は、宗教などの聖典にも「神の使いの動物」と書かれ、人間が保護するべき動物ではないか。
 キリスト教国家のアメリカならば、自国自らが、聖典の教えを厳守すべきであろう。
 あるいは、アメリカは似非(えせ)キリスト教国家に成り下がってしまったのか。

 さて、近代世界史から見ると、もともと鯨の数を減らしたのは、産業革命期の欧米諸国が、機械の潤滑油として鯨を乱獲し、脂身(あぶらみ)から油だけを取った後、大量の残骸を廃棄したからではなかったか。
 一方、日本を含めた捕鯨諸国は、生活に必要な量しかとらず、殆ど無駄にすることなく、消費してきた歴史を持っている。
 江戸時代のカラクリ人形のゼンマイ仕掛けにも、鯨の髭(ひげ)が使われた程だった。

 ところがアメリカの傲慢(ごうまん)は違う。自分たちの文化が一番で、正義でと考え、他国の文化を真っ向から否定する。この差別主義者の最たるものが、環境保護を隠れ蓑(みの)にしたグリーンピースなのだ。この海の暴力団の横暴な正義論に騙されないことだ。

 また、米環境保護団体で、グリーンピースの傘下の過激グループとして知られるシー・シェパードは、平成19年2月9日、南氷洋での日本の調査捕鯨船に体当たりで接近して、発炎筒をはじめ、火炎瓶や空き瓶、その他の危険物をなどを投げつけて、日本側の乗組員に傷害を負わせた事件は、一体彼等が何の目的で、こうした運動を展開しているのか、その背景にあるものが、自(おの)ずから、うっすらと浮かび上がってくるではないか。
 アメリカの食肉メジャーが、一枚も二枚も噛んでいる事は疑う余地がない。

 そして、アメリカの思想的文化的傲慢は、今日の中近東に展開している軍事作戦にも窺(うかが)うことが出来る。その最たるものが、イラク戦争ではなかったか。また、その下では、悲しみと憎悪のイラク人をはじめとする、イスラム諸国の、アメリカへの傲慢の爆発が起っている。
 そして朝鮮半島でも、イラク戦争同様の政治力学が使われている。

 人間が、生物に対して抱く思念は「愛着」である。
 人類が有史以来の歴史において、生物は一種の食糧であった。ところがこの意識は、時代が下がるにしたがって、考え方を変えていく。人類はこの意識によって、燕(つばめ)は捕らなくなったし、犬も食べなくなった。近年まで犬を食べ続ける国はあったが、それも今日では下火になっている。中国には、「羊頭狗肉」という諺(ことわざ)があるように、犬肉は、ごくありふれた貴重な動物性蛋白質であった。

 日清戦争当時、清朝政府の実力者・李鴻章(りこうしょう)は、イギリス人から純血種のペット犬を贈られ、その返礼として、「頂いた珍獣、まことに美味なり」と信じがたいような礼状を書き添えている。
 第二次大戦が終了すると、中国でも犬は殆ど食べなくなった。これは犬資源の絶滅を懼(おそ)れたからではない。文明国に仲間入りする事と、犬に対する愛着の理論が広く流布されたからだ。

 一方、アメリカ大陸では牛肉を食肉にする考え方は、一向に下火にならない。その一方で、鯨に関してはグリーンピースらの海の暴力団が、鯨を保護することに強い執念を燃やす。
 生物問題や動物問題には、鯨などの、種の保全に関して、激しい感情が絡んでくる。感情論が吹き上げ、時には愛着の論理までが絡みつく。そして、各国は、それだけに生物に関しての考え方が異なる。お国柄も変われば、その矛盾も甚だしい。論理上の正当性は、一切見受けられない。

 宗教上、食べることは禁止された動物であっても、他の国では、それが貴重な食糧となる。文化財産であっても、平気で食べる。ある国の人々には、その動物が狩猟の対象でしかないのに、他の国々の人では、ペットであり、癒(いや)しの対象となっている。それは国民の習慣や気候風土に左右され、美意識に基づく思考で決定されている。この相違は、科学的な論拠で決定されるものではない。あくまで愛着の理論であり、感情論が主体である。

 したがって、日本人が鯨を食べる、あるいは欧米人が牛を屠殺(とさつ)して食べるなどの、食に対する考え方の違いには、文化の高低もなく、文明の早遅もない。一種の動物に対する美意識の違いである。美意識の違いが、感情論と複雑に絡みつき、自分の思考に合わなければ、激しい攻撃をする。そして、言えることは、野生動物に対して、愛着と、「可愛い」という感情論を露(あらわ)にする人が増えてきていることだ。

 十七世紀後半の近代文明は、中世以前の感傷や情緒を排して、合理性を重視して、合理的な生き方を展開することのみに重点が置かれてきた。合理性の背後にあるものは、自然を克服し、自然を改造することこそ「正義」であった。
 ところが、近代文明の合理性追求は、ここに来て否定がなされ始めている。その意味からすれば、ペット犬を飼いながら、一方で食肉を喰らうという生活も、甚だ矛盾しているといわねばならない。
 果たして、人間が肉を食べなければならない理由が、いったい何処にあるのだろうか。

50代、60代、70代の晩年期に至っても、何故、肉を食べねばならない理由があるのか。
 また、五十路(いそじ)を過ぎて、二杯・三杯とご飯をお変わりするのは、自らの死を早めているだけである。晩年こそ、粗食少食を徹底し、肉体を離れて、精神へと移行するべき時機(とき)なのである。
 そうしなければ「肉(じし)喰った報い」は避けられないだろう。五十路を過ぎた年齢こそ、心に安定を求め、美食から解放されなければならない。

 美味しい肉料理に舌鼓を打つのはいいけれど、この裏側には、肉料理の食材の犠牲になる動物がいることを忘れてはならない。
 美食家に肉料理を提供する為には、動物を殺す仕事に手を染める人がいなければ、食肉は提供されない。どんなに美味しい肉料理に舌鼓を打って、至福のひと時を感じても、その裏には、わが肉を提供させられる不幸な、人間と同じ「性(さが)」を持つ哺乳動物がいる。どんな幸福も、それと引き換えに、他方では大きな苦しみが派生していることを忘れるべきではないだろう。
 それでも、肉が食べたければ、自分で牛や豚を飼い、自分で屠殺(とさつ)し、自分で解体すればいいだろう。それが怖くて出来ないのなら、肉など食べないことだ。動物を殺し、食べるということは、このように恐ろしいことなのだ。

 単刀直入に、生物という生き物を考えた場合、地上の多種多様な生物は「神の芸術品」といえるであろう。この芸術品は、単に人間側の都合で保全するだけではなく、生物を生かしていく為に、環境を整えると共に、「動物は食べない」思想作りを徹底させねばならないのではないか。

 また、食べれば「肉(じし)喰った報い」は、必ず、わが身に降り懸(か)かることを次世代にも、学校教育の中で教えるべきであろう。その「報い」の最たるものが、ガン発症ではないか。
 肉を食べれば、硝酸塩が唾液により、亜硝酸に還元されて、食肉に含有される第二級アミンと反応を起こし、大量のジメチルニトロソアミンを生成してガンになるのだ。この事だけは肝に銘ずるべきであろう。
 そして現代栄養学の、動蛋白に含まれるアミノ酸信仰から解放されるべきである。

 人間に最良な食べ物は、ヒトの「歯型」が物語っている。
 この歯型から教えられることは、「人間の性(さが)から、一番遠い食べ物を食べる」ということである。つまり、人間は穀物菜食をするように生まれついている。長寿の秘訣も、この中にある。
 これが分かれば、人間に一番最良な食べ物は、穀物菜食を徹底させることが、健康には一番良いということになる。全く、牛も豚も、鯨も鶏も、食べる必要がないのである。また牛乳や卵、チーズやバターなどの乳製品も、必要ではないのである。

 

●極楽浄土と言う名の地獄

 人は、「死ぬ時の想念」を、そのまま引き継ぐ意識体が、つまり人の「霊魂本体」であり、ここに想念の実体がある。その儘(まま)の想念を持ち、その儘の意識を持って、それぞれは極楽に棲(す)み、あるいは地獄に棲む。

 これは人間の構造上の仕様による。
 人体を構成する要素は、生活現象を行う為の生物仕様を持ち、主としての成分は、炭素と水分から成り、したがって、「水冷式哺乳動物」の形体を構成している。
 水は酸素元素と水素元素の化合物であり、炭素も非金属元素の一つで、それぞれに原子核を構成している。そして、物質界の存在する最小物質で人体を述べれば、それは究極的には、素粒子が人体を構成していることになる。

 つまり現象人間界では、三次元構成としての物質を形成し、その物質の姿は、究極的には素粒子と言うことになる。
 現代物理学や、大脳神経心理学などは、現代の様々な学問分野において、欧米的な数々の問題を、全く違った文化の民族が作り上げてきた文化圏の人々の、かつての古典に回帰する動きを見せ始めている。その最たる傾向が、古代インドで発明された「ゼロの概念」であろう。

 そして、これまで欧米の科学では解決できないと考えられていた難問が、北半球の、より文化的な概念を作り上げた、中東や極東の思想に注目する自然科学が出現するようになった。
 その最たるものが、現代物理学の、ある時点から東洋の神秘主義に注目する傾向をとり始めたことだ。
 それは質量も位置もなく、エネルギーだけのある素粒子や、マイナスの質量といった、かつての十七世紀のニュートン物理学には見られなかった、不可解な概念を導入し始めたことだ。この意味で量子力学は、「ゼロの概念」を巧みに取り入れた理論といえよう。
 その結果、見えてきたのは、奇(く)しくも東洋が掲げた、中国の古典物理学の「気」の宇宙概念だった。

 素粒子の世界を観測する量子力学では、素粒子以下の正体を突き止め、それがあまりにも細かい為に、「無い物を発見した」という、無に対する概念だった。これが素粒子以下の、更に細かで、光以上に高速運動をする、「無い物」の存在を窺(うかが)わせるような暗示を与えている。

 それは動植物の自然界に見ることが出来る。
 例えば、植物が芽を吹き、成長して花を咲かせ、実を付ける。魚類や爬虫類や鳥類の動物が卵を生み、それが孵(かえ)り、子が成長する。哺乳動物の牛や豚が子を産み、それが成獣となる。植物は植物なりに、動物は動物なりに、その姿を形成し、形質の秘めた遺伝子の働きによって、同じ種が、同じ子孫を残して行く。そして同質の形質以外は、そこから派生することはない。それは遺伝子が働いているからだ。

 遺伝子は、生物の個々の遺伝形質を発現させるモトである。このモトはデオキシリボ核酸deoxyribonucleic acid/DNA)、そして、一部のウイルスでは、リボ核酸ribonucleic acid/RNA)の分子の領域を持つ。
 更に、一つの遺伝子の塩基配列が、一つの蛋白質やリボ核酸の一次構造を指令する。また、遺伝子産物や遺伝子間の相互作用が形質発現を調節する。遺伝子は生殖細胞を通じて、親から子へ伝えられる。

DNAの模型図とその組成(画像クリックで拡大)
 
DNAの塩基の組み合わせ一覧表
(画像クリックで拡大)

 更に核酸は、アデニン・グアニン・シトシン・チミン(またはウラシル)の4種の含窒素塩基・糖・燐酸(りんさん)が、規則的に結合した高分子の有機化合物である。
 更に、糖がデオキシリボースか、リボースかによって、それぞれ、デオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)に二大別される。細胞やウイルスの遺伝物質として、生命現象に重要な役割をする。
 この為、人間には人間の子供しか生まれない。猿には猿の子供しか生まれない。生命伝達情報の鍵は、総て遺伝子が握っている。そして、遺伝子も一つの物質であるから、究極的には原子であり、電子であり、その最小物質は、やはり「素粒子」と言うことになる。

 素粒子(elementary particle)は、物質の構造を分子・原子・原子核と、分けて階層的に観たとき、原子核の次にくる粒子である。そして、素粒子間の相互作用を媒介する粒子が「ゲージ粒子」である。
 ゲージ粒子は、光子・ウィーク‐ボソン・グルオンなどで、それぞれ電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用を媒介する粒子である。つまり、物資界宇宙は、総(すべ)てエネルギーにより構成されている。

 水にしても、酸素元素と水素元素の化合物である。これ等にはそれぞれ、中心には原子核を持ち、その周りに電子が飛び交っている。則(すなわ)ち、エネルギーから構成され、エネルギーは「力」の要素である。水の一滴にもエネルギーが存在し、それはまた同時に、力でもあり、これと同様、その他の物質にも、また、人間の血液や髪の毛の一本に至るまで、総(すべ)てがエネルギーの塊(かたまり)である。

 したがって、人間の躰(からだ)も、エネルギーより構成されている。人間の遺伝子さえも物質であり、その物質はそれぞれのを有している。そしてエネルギーが働く、最小物質が物質界では素粒子と言うことになる。
 だが、科学や現代医学で確認される最小物質は、素粒子までである。物理学では素粒子を更に探究し、究極的には「何もないものを発見した」と言う仮説が出来上がっているが、「何もない」というのは、単に「無」を指すのではない。

 その先に、更に物質界では測定不可能な、計れない、「奥の奥の世界」があると言うことを「発見した」と言っているのである。恐らく物質界で、現在のところ突き詰められるのは、最小物質が素粒子であろう。

 しかし、霊的世界を覗(のぞ)くと、その奥の奥の世界がある。この世界こそ、精神の世界、心の世界、霊界の世界、神の世界と言うことになる。つまり、素粒子以上に小さな小さな物質で構成されたものが、霊的世界には存在するのである。この世界こそ、「霊魂の世界」なのである。また、死後の世界も、此処に複雑な階層となって、入り組んで存在している。

 人間は、生命力の「火」が消えると同時に、肉体と言う物質を消滅させ、次には意識体としての「霊体生活」が始まる。霊体として、霊界の住人になるのである。生前、「食の化身」である人体が、食肉や乳製品の常食により、動蛋白ばかりを摂取して、波調の粗い食べ物ばかりを食べた人は、霊体を構成する霊的波調が粗(あら)い為、粗い階層の、霊界最階位の幽界または霊幽界の住民となる。

 一方、食に化身である人体が、主に植物性の霊的波調が肌理(きめ)の細かい食品を摂取した人は、その波調が細やかである為、肌理(きめ)の細かい霊界上位階層の住民となる。
 霊体の構成要素が、どんどん小さく、肌理が細やかになって行けば、霊体はそれだけ波調的には浄化されて、霊界の最上位へと昇り始める。これが霊的な進化である。


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