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志高く、より良く生きるために

■ 総本部・尚道館の入門について ■
(そうほんぶ・しょうどうかんのにゅうもんについて)

●尚道館で定める初心者の定義

1.入門して「三ヵ月未満」並びに、第六級以上の取得資格を持たない無級者を「初心者」と呼びます。
 つまり何年道場に在籍しても、第六級以上の取得資格を持たなければ、古参であっても初心者として扱われます

2.初心者は基本技術養成の為に、基本動作並びに基本手解きを繰り返し反復し、その範囲内だけの儀法を履修します。

3..初心者は儀法未熟状態として判断されるので、六級以上がマスターする「基本柔術の課程」に進級する事が出来ません。初級の基本技を徹底的に学ぶ必要があります。

4.また初心者は「坐法」を中心とした基本手解きの範囲の「大東流一箇条」の履修範囲を出てはなりません。

5.以上を経験して三ヵ月を経ると、第六級審査を受検する事が出来ますが、不合格の場合は再び一ヵ月後、再検定を受けなければなりません。

●尚道館で定める有級者の定義

1.入門後三ヵ月を経て、最下位の階級である第六級から第壱級の段階にある者を「有級者」と呼びます。

2.第六級に合格し、正式門人をして認められると、次級の第五級儀法、第四級儀法、第参級儀法、第弐級儀法、第壱級儀法へと進級する事が出来ます。

3.各合格者は第壱級儀法をマスターするまでに、基本柔術を習得し、以後初段補または初段への昇段の道が開けます。

 世の中には武道を愛好する人の中で、「自分は白帯でも構わない。白帯でも強ければそれでよい」と考える人がいますが、これは大きな誤りです。
 なぜならば、自分の修行段階を自らで否定し、「自分」という人格と人間性を否定しているからです。「向上する」という事は、当然周囲から尊敬される対象であり、それは誰が見ても尊敬される形が明白になっていなければなりません。その意味で、有級者という黒帯に至るまでの段階がある訳です。

●特別昇級制度

1.入門して白帯のまま一ヶ年を経過し、然も無級者については、総本部道場の厳格な昇級指導を受け、色帯最下位の第四級に進級する事が出来きます。中には昇級しようと思いながらも、何かの都合で昇級のチャンスを失う人がいます。このような人達の為に、再度チャンスを与える制度です。

2.あるいは夏季合宿セミナー(八月十一日〜十五日)、特別講習会(春季五月、秋季十一月)、大寒稽古(二月五日〜十四日)の特別稽古に参加し、上位階級に進級する事が出来ます。特別に設けられたセミナーというのは、通常稽古とは異なった儀法を指導しています。この特異な儀法を習得した事に対しては、当然ながら、それ相当の評価がなされます。また飛級制度というものもあります。

3.その際の「飛級」に関する級位取得合計金額は、現在の進級級位に加算して支払うものとします。

●昇級をして階級が上がると言う意味

 昇級について、指導者から「昇級してはどうですか」と声を掛けられ、遠慮のつもりか、あるいは自分など、まだまだと辞退したり、指導者の声を無視してしまう人がいます。指導者は昇級しても良いと判断するのであるからこそ、声を掛けるのであって、その実力に満たない者に無闇に声を掛けるものではないのです。
 もし、自分の習得段階が、自分で判断できるのであったら、指導者の指導は必要ではなく、また、指導者そのものも必要ではなく、自分で稽古をすれば勝手に上達して行くものです。ところがやはり、指導者は必要不可欠な存在です。

 さて、指導者から「昇級してはどうですか」と声を掛けられた場合、どういうふうに判断したらよいのでしょうか。
 声を掛けられて、辞退したり、あるいは無視するのは、卑下傲慢と言われる慢心の一種である事を弁えねばなりません。つまり慢心であり、自惚れた心の持ち主である事を自らが証明した事になり、人間的な未熟がそのような傲慢を、知らず知らずのうちに、無意識のうちに作っている事になります。いわゆる「へりくだったつもり」が、実は武術の礼法上から言うと、非礼であり、「道」に反した行為を無意識のうちに行っているという事になります。

 また、入門して一年以上も経ったにもかかわらず、白帯の儘で、以降もその儘で稽古に参加する人がいますが、こうした人も、「武の道」の何たるかを全く解しない人です。自らの進歩を否定し、「自分」という一個の人間性を否定して、自分自身を粗末にしている人です。昨今はこういう手合いの人が増え「白帯の儘でいい、級位などいらぬ」と横柄に振る舞うという傾向があります。

 そして更に自己否定の最たるものは、「昇級すれば、幾らかの昇級料金が掛る」という、商行為の経済感覚から、昇級する事は金銭的な無駄遣いと考える人がいます。
 しかしこうした人は、無形の文化財的な価値観を持ち合わせない人であり、一方においては、自分の家族の為、自分自身の趣味の為に、大ローンを組んで車を買ったり、高級家電製品を買って、有形なものに浪費しているというのが実情です。

 さて、ここでよく考えて見ましょう。
 私達が物質的な豊かさを求め、「有形」と信じる価値観は、裏を返せば、他人から奪われる、実は実態のない物なのです。幾ら豪華な高級車を買っても、車輌窃盗団に襲われれば奪い取られますし、高性能の家電製品も空き巣狙いに狙われ取られれば、無慙に奪い取られてしまいます。
 ところが「無形」の、自分の裡側に備わった「技術」は、他人が奪おうとしても、奪う事ができません。いわゆる「有形」と「無形」の差が、ここにあります。

 昇級をして、自らの級位が「上がる」という事は、日頃お世話になった先生や先輩達への謝恩の証です。自分の伎倆(ぎりょう)が、日頃の稽古と精進によって、少しずつ、微々ではありますが、進歩しているという事は、これまでの自分自身が精進した「心の証」となります。これを逆手にとって、「道場」という場を、一種の金儲けの商行為の、そこら辺にある商売に貪欲な商店と同一視する事は、大きな間違いと言えます。

 道場という場は、金銭の遣り取りをする商行為の場ではなく、あくまで「儀法を教わり、それに対して謝礼の意味」で、謝恩の意味を込めて、それに「謙虚に応え、礼儀を尽くす」というのが本来の道場の姿であり、また、昇級試験においても、昇級する事によって、某かの金銭を払うという商行為の「儲けのシステム」を指すのではありません。この辺の礼儀に対する考え方が、長い間誤解され、「道場」イコール「商行為」という汚名を被せられてきました。しかしこうした誤解も濡れ衣であり、真剣に武術を志し、「道」を求める人ならば、ご理解頂けるものと信じます。

 また、青少年の場合、その保護養育の任にある人(父母)は、お子さんが昇級試験に合格した場合、家庭内で簡単でも結構ですから祝膳を用意して、家族揃って合格祝をやる位の心遣いが欲しいものです。


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