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綱武館の歴史 ■
(こうぶかんのれきし)

●関東本部・綱武館の歴史とその時代背景

 昭和49年10月、曽川和翁宗家の道場に、一人の中年男性が来訪した。
 この男性は自己紹介に加えて「自分は八光流柔術皆伝師範・岡本邦介です」と名乗った。その言によると、現在、仕事の合間を見て日本全国の道場を尋ね歩き、伝説に聞いた九州に残る「大東流合気柔術」を探しているという事であった。

 自己紹介の中には、大東流合気柔術・宗範を名乗る佐川幸義先生に入門を許されて稽古に通い、また超能力者として一世を風靡した、桐山靖雄・阿含宗管長から密教呪術を修行しているとも付け加えた。
 そして曽川宗家が、昭和46年4月、フジテレビ『万国びっくりショー』に出演したのを偶然見ていて、確か、北九州に幻の大東流「西郷派」が存在するのではという理由から、電話帳で調べ、北九州へ来訪した事が最初だった。
 以後、岡本邦介師範の「道場通い」が始まる。それは遠い道のりであった。
 当時、岡本師範は49歳、曽川宗家は29歳。年齢的には二十年の開きがある。そして岡本師範は曽川宗家の門弟になった。

 さて、一口で「道場通い」と言っても、岡本師範は当時千葉県船橋市に住んでいて、曽川宗家の在住する北九州市八幡西区までは、東京・小倉間を、新幹線を利用するか、飛行機(当時はYS-11の「ムーンライト」という夜間便があった)を利用して、羽田・板付(現在の福岡空港)間を通うという道場通いであり、これは大変な事であった。昭和49年当時のことである。

 しかし岡本師範は熱心に通い続けた。多い時は、毎週通い詰め、少ない時でも一ヵ月に二度は通った。交通費だけでも馬鹿にはならなかった。その上、礼節をわきまえた人で、その都度、当時の金額として、一回教伝を授けるごとに、五万円ずつを払った。
 五万といえば、ちょっとした大金である。これは岡本師範が、自らの身分の確認と、武道家としての人格がそうさせた事であり、決して「一手教える事に五万円」という分けではなかった。

 当時の曽川宗家の職業は、道場生指導の傍(かたわ)ら、日本刀を商う「刀剣商」であった。有限会社・大東美術商会という、日本刀専門の店舗を構えて、その利益によって生じた一部を、道場運営の資金に充(あ)てていた。いつの時代も同じであるが、道場というものは利益追求の商売ではなく、人間育成を掲げているのであるから、道場自体は経済的にいつも火の車であった。

 少し横道にそれるが、道場活動を展開する集団は、一般の道場の場合も、「人の道」を掲げているので、この活動は営利目的ではなく、また商行為でもない事は一目瞭然であろう。
 道場を運営し、それを維持する為には、それなりの経済的基盤が必要である。奉仕の側面があるからだ。それを補う為に、曽川宗家は「刀剣商」を選び、それを職業としていた。
 武術は元々、自立独立・自主独歩の気概を尊ぶ求道者の道である。
 だから財政面の援助を政財界に求めず、自力で活動を展開するというのが、曽川宗家の考え方であった。

 武術家とは何か。それは奉仕者である。
 したがってこうした者が、政財界人に援助を求め、政治家の為の売名行為の手下として走狗した場合、言行不一致のそしりを受ける事になる。事実、世間にはこうした武道団体が多いようである。

 しかし曽川宗家は、自立独立・自主独歩の気概を尊ぶ求道者の武士道集団であるとの認識で、他者の負担になって、他人に借りを作る事はあってはならないと考えていた。
 他人に借りを作らないという心構えも武術家としては、大切な心構えである。
 したがって人の世話をする事はあっても、なるべく他人の世話にならないように心がける事が大切である。

 そうした武術家の特異な思想を以て、活動を展開するのであるから、その運営の維持の源泉は、門人が毎月支払う月謝に委ねられ、不足する部分を、仕事の利益から生じた一部を捻出するという考えに立っていた。
 したがって月謝の納入については、幾ら納入すればすむのか、あるいは月謝を払うとどういう特典が与えられるのかという対価的な事を考えないで、自分は道場に対して、どういう協力・援助・負担をすべきかという事を考えるようでありたい、とするのが曽川宗家の「道場観」であった。
 それが人格というべき、独立した一人前の「おとな」という態度であり、商行為としてこれを捉えれば、人格・霊格ともに低い、幼児社会の有相無相と一緒になってしまうのである。

 団体によっては、会費や月謝の類を要求しなかったり、年間会費がたったの3.000円というスポーツ武道団体もあるが、そういう安い年間会費で、あれだけの大組織を動かし、維持運営しているのであるから、何処かで、誰かが不足の分を負担しているのであり、こうしたものに寄りかかった態度である事は、決して好ましい姿ではない。

 こうした裏を察すれば、某巨大スポーツ武道団体のように、知育のそれに対峙して、体育と自称して学校教育の中に持ち込み、これを生徒に強要するという現実は、この団体が政治圧力団体の日教組と五十歩百歩の団体である事が容易に察しがつこう。

 月謝という理念の上で重要なのは、月謝は一種の謝礼であるので、これは列記とした「謝儀」であり、「月謝を払う」という行為は、「身分確認の為」の行為である。
 かつて、古人は「のし袋」に瑞引(みずひき)を掛け、衣服を改めて、師匠の前に出(い)でて、両手で差し出すのが作法であった。 
 武術修行は、こうした事にも人格が現われるので、修行者自らが、自分を正すべきである。

 しかし、道場内には一部の不心得者がいて、月謝を払わない事を自慢する古参がいる。あるいは特別に、経済的に安定するまで、一時期、月謝を安くしてもらっている人がいる。しかしやがて正業につき、収入が安定しているのにも関わらず、安いままの月謝で、その儘の人がいる。
 こうした人が道場内で増え始めると、道場主は、門人に技法を教えるどころか、金策の為に趨り回らなければならなくなり、二重の迷惑を掛ける事になるので注意したい。

 こうした迷惑を平然として掛け、非礼な人に限って「道」だの、「心」だのを言っているのであるから、全く呆れるばかりである。
 少なくとも、こういう類にならないように、自分自身を戒め、思い上がらず、また武術の世界での謝礼というものは、商業取引における「対価」でないので、この部分を混乱しないようにしておかなければならない。

 さて、岡本師範はこうした事を心から熟知した人であった。金にはあまり執着しない、潔い人であった。
 したがって一回の教伝料が五万円という大金も、考えれば岡本師範の人格と身分を表わすもので、「おとな」の態度であった事は言うまでもない。
 当時、岡本師範は曽川宗家の凄い業を見たといい、曽川宗家は岡本師範の素晴しい人格を見たと言った。

 こうして北九州まで通い続けた岡本師範は、精進に精進を重ね、奥伝を伝授され、昭和51年、曽川宗家から「免許皆伝」を許された。
 そしてこの授与にあたる為、曽川宗家は、門人の進龍一弐段を随行者として引き連れ、千葉県船橋市に向かったのであった。
 習志野綱武館の歴史は、実にこの時に、始まったと言っても過言ではなかろう。

 そして進龍一弐段は、岡本師範から熱望され、千葉で道場を開くので、その師範になってくれないだろうかという事を頼まれ、それを承諾した。それに合わせて、急遽、進龍一弐段を参段に昇格させ、指導員の資格を与えて、千葉県に送り出した。

 昭和52年8月、ついに千葉県習志野市に「習志野綱武館」が誕生した。
 そして今日に至っている。

昭和53年綱武館夏合宿にて

▲昭和53年綱武館夏合宿にて

 この間、出版の話、ビデオ出演の話、北海道大東流宗家の武田時宗先生との出逢などがあった。
 また武田時宗先生はそれ以前に、曽川宗家の道場にも三回訪れ、わが西郷派の門人にも交換稽古という形で、「大東流柔術初伝」と「手解き」を教授した事がある。

 一部のマイナーな武道雑誌で、武田時宗先生が来訪した事を、「文句を言いに行った」としているが、これは事実無根であり、文句を言いに行った人間が、何故、他人の家に上がり込んで、文句だけならまだしも、ビールで乾杯したり、その後も、何故、曽川宗家の道場に度々来館しなければならないのだろうか。
 また、時宗先生は本来、酒も煙草もやらない人であったが、酒をやらない人が何故、他人の家でビールで乾杯するのであろうか。
 今でも、「大同団結」の呼びかけであったと信じている。しかしここでは、こうした一部の心無い雑誌に対して反論する事は避ける。

大同団結の乾杯

▲大同団結の乾杯

 
武田時宗先生/交換稽古の様子

▲武田時宗先生/交換稽古の様子

 人間の見解と思想は、時とともに変わり、変化するものである。時とともに、これまでの間違いにも気付き、こうしたものは訂正していくものである。これは科学や歴史の学術世界を見れば一目瞭然であり、新たに上回る理論が発表されれば、以前のものは訂正を行い、新理論としてそれに従うというのが社会の常識である。

 こういう学術的根拠から言うと、清和天皇や新羅三郎義光の源氏由縁の事実無根の歴史を持ち出し、あるいは「大東の館」や「甲斐・武田伝説」をでっち上げ、こうした歴史的根拠にかける認識を掲げて今日の大東流とする事こそ、歴史的偽証であり、偽物であり、欺瞞と言わなければならない。平安末期から十六世紀の戦乱の世に、今日のような、洗練された「素肌武術」の原形を持つ大東流が、日常茶飯事、武家の世界では甲冑をつけなければ生活できないと言う世の中に、何故、素肌武術が出来上がったのであろうか。

 これはむしろ、明治以降の近年になって、他武道や他流の長所ばかりを寄せ集めたのが大東流であり、西郷頼母が欧米を牽制しつつ「大いなる東」から「大東を流名にした」のであり、「大東の館」は架空のでっち上に過ぎない。
 そして歴史は、そのつど、新たな発見・発掘によって変わるものなのである。
 それを二十年前、三十年前の資料(多くは演武会のパンフレットや機関誌)を持ち出し、それが間違っていた証拠と豪語して、鬼の首でも獲ったかのような古い資料の欠点を論い、偽物であると決め付けるのは、あまりにも短見であろう。むしろ、「大東の館」や「甲斐・武田伝説」を掲げて、歴史的根拠を無視した行為こそ、偽物であり、欺瞞ではないだろうか。
 こうした調査もなく、また、直接、正面から正々堂々と言うのではなく、合気武道とは全く関係ない、剣道雑誌に、こうしたもとを証拠として突き出し、あるいは陰で他の武道雑誌で、なじる行為は武道家として恥ずかしい限りである。

 また、大東流の第一人者のような貌をして、武道雑誌で傲慢な論説を掲げ、曽川宗家の悪口を書き立てている九州総支部長を名乗る某N氏がいるが、某N氏はかつて曽川宗家の弟子であり、造反して某大学の合気柔術部を連れ、武田時宗門下になったのであり、以後について、かつての師の悪口三昧を言って、ある事ない事を暴いたり、また、こうした武道雑誌の編集長Sが「中立・公正」を自称しながらも、両方の意見を聞かずに、片方だけを取り上げているのは、「片手落ち」と言わねばならない。かくして某出版社の「中立・公正」は崩れ、ウソを言っている事になる。

 また、某N氏が我が流派の古い資料を東京総支部長を名乗る某K氏に、渡した事は容易に想像がつき、某K氏が編集長Sに、S自身が調査したかのような記事を書かせている。卑怯窮まりないことである。その証拠に、某武道雑誌の編集長Sは、曽川宗家の許に訪れ、調査し、言い分を聞くという事を一度もしなかった。「中立・公正」を自称しながらも一方的な記事であった。これは列記とした「名誉毀損行為」であり、こうした他人の名誉を犯す輩がいっぱしの武道家を気取っているから、何ともお粗末な限りである。


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