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敵を吾が術中に引きずり込む当身の業

■ 当による合気拳法
(あてによるあいきけんぽう)

●敵の攻撃の第一打を払い落とす迎撃ミサイルの発想

 大東流合気拳法では、敵の動きに応じて変化し、転身するが、これは一点に静止した独楽の理論ではない。

 合氣道などの、防禦を主体を考えている護身術は、よく独楽の理論によって「回転すること」「転換すること」を挙げているが、一点に静止した独楽ではどうにもならない。確かに、回転している独楽に小石などを投げれば、それを直ちに跳ね返す働きを持っている。しかし小石でなく、岩のような大きなものを投げつければ、勢いよく回転している独楽といえども、直ぐに破壊されてしまう。

 独楽の理論は、相手が独楽より小さな小石であるから有効なのであって、これが二倍も三倍も大きな岩のようなものであれば、どうにもならないのである。
 そこで単に攻撃者の出方を待って、ただ防禦一辺倒の姿勢で、一点に静止し、待ち構える体勢では、殲滅されることは明らかである。したがって、その前に相手の動きを取り込み、その攻撃が自己に及ぶ、一歩手前で迎撃しなければならないのである。

 そこで大東流合気拳法は、正拳攻撃に対して、正拳より射程距離の長い「手刀」を用いるのである。
 この手刀は、全指を伸ばした状態で、小指側を日本刀の刃に見立てて、これを武器化するのである。主として、頭部や頸椎部などの経穴を狙って攻撃する手刀は万能であり、日本刀を斬り結ぶような威力は、その破壊力から言っても最高の迎撃ミサイルの観を為す。
 更に手刀は、正拳突きよりも射程距離が長く、攻め手と同時に受け手ともなり、まさに、刀剣に匹敵する威力を持っているのである。

●中高一本拳の思想

 中高一本拳は、空手やその他の拳法の拳とは、明らかに異なる拳である。中指の折指を突き出すようにして握り、中指の折指突起が点となって突出する握り構造を持つ。

 これは空手やその他の拳法の正拳と明らかに異なり、これらの正拳が、人指し指と中指の付け根の関節拳頭部二点(中手骨と基節骨の突起部の双方二点)を攻撃部位にしているのに対し、中高一本拳は中指の基節骨と、中節骨を折曲げ部の突起の一点のみの構造である。
 この突起部一点は、正拳の二点の拳頭部に比べれば面積が狭く、主として、頭部や顔面部、更には胸の肋骨部の骨と骨の隙間を叩く場合、捻り込むように突き出す中高一本拳の「刺し」は、部位の点穴を叩いて、行動を制止させるのに絶大な威力を発揮する。

 この中高一本拳は、名実ともに大東流合気拳法を象徴したもので、まず敵の出鼻を挫き、次に業を掛けるという手順に従うため、合気の象徴的な思想を裏付けしている

●点穴打法の思想

 この中には大きく分けて四通りの打法があり、第一は指先一本で眼球を刺す。第二は指先二本にして耳穴部や口腔部を刺す。第三は折指手を用いて同時に二箇所以上の経穴を刺す。第四は三日月や五指によって同時に三箇所以上の経穴を刺す、という四通りの「刺し」の打法である。

 点穴打法は経穴(ツボ/経絡の要所に当り、病気の診断と治療の対象点とされる部位で、殺法としてはここを封じ点として遣う)を攻撃し、主として目標部位は、眼球や鼻腔部や咽喉部、また耳穴部や口腔部と言った深層部の急所を攻撃する。あるいは臥せ(うつぶせに抑え込む)に固め捕った後に、指の尖端部で会陰部や肛門部を刺し、敵を制する。つまり、表皮の部分とは異なる人体の深層部を、纔な力で攻撃して、生理障害を起すことを、この打法の思想としている。

 また敵の経穴の数ヵ所を同時に叩くことによって、様々な錯乱状態を起す効果を狙ったものである。
 喩えば、顔面の頬車と、ある他の二点の点穴を叩くと、一時的に急性聴覚器難聴現象などを起こすことである。

●固めた拳より開いた拳

 正拳は普通、「固められた拳」である。四肢五体の中で、素手素足の場合、先ずその闘争本能は、握った拳に現れる。ケンカの経験の少ない素人も、試合慣れした玄人も同じである。そしてこの意志表示で拳を振り上げ、武器化することによって、「こぶし」は「拳」といわれるものに変化する。
 それは人体を見た場合、拳こそ、武器化するには最も相応しい部位であるからだ。
 他にも武器化するところはいろいろとあるが、顔面や尻部よりは、やはり手を握った方が武器化するには手っ取り早く、技の効果を最大限に発揮させるにも、その第一は拳であり、次に足(脚)の順となる。

 さて、大東流合気拳法では、空手で言う正拳とは異なった握り方をする。空手の拳が最初から固めた拳であるのに対し、大東流合気拳法の拳は、最初から一撃必殺を狙っているのではないから、固めた拳ではないことである。
 手は最初、開指状態になっており、媒体目標を突く瞬間に、「吸う息」と共に、発気を行う。したがって吸う息であるから、気合発声は出ることがなく、力んで打ち出さないために、媒体を確実に捕える事が出来る。

●半身45度の構え

 大東流合気拳法は、敵と対峙して、正面衝突を避けるために、半身45度の体勢で構える。この体勢は固定された型構えがなく、構えのない無構えである。大東流は古来より、気合が無い、形が無い、構えが無いと言われて来た。
 しかしこの無構えも、正確に言えば、構えが無いように見える「穏陰之構」であり、こうした陰の構えを、「構えが無い」として来たのである。

▲中高一本拳・打ち据え上段(クリックで拡大)

 武術の攻防において、敵と対峙した時機、自分と敵との位置関係において、単に間合をとるだけではなく、客観的に見て、自分の構えた体勢は、どういう形になっているかということを直感することが大事である。

 敵との対峙関係は、一人の場合は二次元的であり、然も一種の直線状態である。また二人の場合も、直線は二本に増えるが、結果的には吾を三角形の頂点に置いての、平面二次元直線上に対峙することになる。その場合、敵の狙う箇所は、吾の躰の中心線(肉体の中央部の頭上から肛門付近の会陰部までの、任脈と督脈の経穴を結ぶ経絡)であり、その幅は、左右から凡そ一尺二寸(一尺は1mの33分の10と定義され、一寸は約3.03cm。したがって一尺二寸は約36cm強)の処に、急所を集めた中心線上に、最も弱いところが垂直して並び、ここを打たれないようにしなければならない。

 そこで敵に対して、吾が躰がどう映るかということを想像しなければならない。真正面から正対して100%の場合、その幅は一尺二寸の胴体上半身で対峙することになり、これを半身にして45度で構えれば、その向き幅は半分の六寸となり、正中線から左右に三寸を配して、敵と構え合うことになる。
 こうした半身構えは、武術の心得のある者は、やはり同じように半身に構えるから、その幅は左右から計って三寸の攻防戦となる。つまり、三寸を躱すために心血が注がれ、この三寸の躱しのために、攻防のエネルギーが投入されることになる。

 多くの格闘技の場合、拳から繰り出した正拳や、蹴技から繰り出した足蹴りや、殴り合いを経験しているため、経験を重ねた者の多くは馘だけを躱したり、しゃがんで、これを避けたりしているが、攻撃手段が日本刀となった場合、こうした馘だけ躱すとか、横に避けるという方法では、無手格闘の戦闘のような安易な方法はとれなくなる。

 剣で斬り込んで来る場合、馘だけ躱しても、肩から下がそのままでは胴を斬られてしまい、横に避けたとしても、薙ぎ払われれば、やはり胴体を真一文字にされてしまう。したがって徒手空拳の場合は、馘や上体をうまく避けても、日本刀の場合は上肢を躱しても、躱したことにならない。
 これと同様のことは、手刀攻撃での打ち据えや、薙ぎ払いにも言える。そしてこの時、半身三寸を、どう躱すかという課題が生まれてくる。

 さて、人間の胴体を支えているのは足(脚)である。この足を変応自在に動かすことによって、敵の電光石火の攻撃を躱すことが出来、術者は穏陰之構の足をもって、左右孰れかに転身することになる。この転身によって、足が孰れかに開かれれば、胴体も開かれることになり、敵の第一打の洗礼を受けなくて済む。

 要するに、敵の第一打に対し、中心から三寸の移動によって転身すればよいのであって、その開きが横に開くか、あるいは斜め前なのかということになる。
 しかし横に開いて躱した場合、相手との間合が遠くなってしまい、武術としては消極的であり、これを積極的な行動に移すためには、やはり左右の孰れかの斜め前が適当であり、躱しと共に、敵に付け入ることを忘れてはならない。

●躱しと脆弱部攻撃

 敵の攻撃を躱す場合は、躰を開いて「転身之術」で、これを躱す。これは敵の攻撃に対し、半身で躱すと同時に、その瞬間敵の一番脆弱な部分を攻撃するのである。

 徒手空拳を主体とした無手武術格闘技には、「制空圏」なるものが存在する。この制空圏は身長幅の約二倍程度と考えられており、凡そ3m以上4m以内とされ、この空間において、無手格闘が行われるようである。したがって3m以上4m以内の中間をとって、3m50cmを制空圏と設定した場合、その半径は1m75cmとなり、この半径において攻防が繰り返される。
 しかし、左右の手足の長さはこれより短いので、更に近づかなければ相手の躰に触れることができないので、更に1m75cmの半分となり、これが無手の場合の間合となる。

 しかし制空圏なるものを主張し、その圏内に相手を寄せ付けない巨漢も、自分の手足の長さ以内に相手が侵入しない限り、攻撃を加えようがなく、侵入という次元において、制空圏を主張する者も、それを無視した者も、同等であるということが分かる。
 制空圏なるものを主張していても、喩えば、人体の一部を限定したルールで闘っている格闘技と、人体全体の至る処を攻撃目標と考え、無差別に、場所を選ばない武術とでは、おのずからその次元は異なっている。

 そして、どんなに頑強に鍛え上げた巨漢でも、眼があり、鼻があり、耳があり、口があり、その他の数百に及ぶ経穴部を持っている。
 眼やその他の腔、及び経穴は何人といえども同じように急所であり、ここを攻撃されれば、深層部に届き、攻撃意欲を喪失するのである。
 喩えば、弱々しい細い針や、ガラスの一ト欠片でも、眼を刺されれば立ち所に視界を失い、戦意を喪失するものである。まさに点穴術は、細い針であり、ガラスの一ト欠片であり、その用い方も変化に富んでいて、無差別で、攻撃箇所を選ばない術ほど、怖いものはないのである。

●過信された妄想の破壊力

 近代空手の唱える運動方程式には、L=M/2・V2の破壊力を現わす力学的思考がある。この場合、破壊力を現わす運動量はLで現わされ、Mは質量で、拳の大きさと、その重さ並びに固さ、Vは加速度を伴う速さである。

 この力学的運動方程式は、打ち当てる物体が大きくて重く、然も固くて、打ち当てるスピードが速いほど、その破壊力は大きいということを現わしているという。この事は、ハンマーで物を壊す場合のことを想像すれば、容易に理解できるであろう。
 また、この時の破壊力は、物理的運動する運動力Lが、破壊される標的に対し、垂直方向に、直角に侵入した時に最大値を得る事が出来、破壊効果が大きいことを現わしている。近代空手家達はこの運動方程式に当て填めて、空手の威力の素晴しさを力説する。

 ところが人体へのダメージは、こうした運動方程式で、一概に破壊力を表現することが出来ない
 それは人体が、静止物体のように固体ではなく、流動体であるからだ。
 人は絶えず動き廻り、動物の要素を持ちつつ、然も精神的にも、様々な動きを持っている。

 巻藁突きなどで拳骨を鍛え、この部分の表皮を丈夫にしても、人間の躰が静止物体の固体でない限り、長年の風雪に鍛えた握り拳は無用の長物となる。
 巻藁突きで鍛えた正拳突きが、敵の骨を砕き、一撃必殺に出来ると信じていた信仰は、グレーシー柔術のような、新たな格闘技の前に脆くも崩れ去った。空手に対して、厳しい言い方をすれば、筋肉や骨格の破壊を狙い、一撃必殺の空手の一突きが、非現実的な妄想であったことを証明したことに他ならない。

 こうした善後策として、今日のフルコン空手の諸派が、これまで伝統的な空手のスタイルを改め、ボクシングに近いパンチの繰り出し方を見ても、伝統空手の一撃必殺が幻想であったということを証明したことになり、こうした武技種目の今後の課題は、人体という流動体に、どうやって効果的な変動を起すか、ということに気付いたためである。

 本来、ボクシングのパンチの繰り出し方は、「突き放ち」である。また中国拳法を見ても、その殆どは突き放ちである。こうしたことから伝統空手も、本来は突き放ちであった。
 ところが「寸止空手」の登場で、競技化、スポーツ化していく中で、素早く「脇を引き戻す」という動作をしないとポイントにならない、非現実的なルールが生まれ、その貫通力に、破壊的な効果がないことを暴露してしまったのである。

 近代空手の正拳突き打法は、未だにL=M/2・V2の〔質量〕×〔速さ〕の運動エネルギーが信奉され、この威力を試すために「瓦割り」や「柾目杉の板割り」が、競技として行われている。またこうしたものを観戦して、自己にすり替えている観戦者も少なくない。これは人体を、静止物体の瓦や、試割板のような、固体と看做した人体観から導き出された発想法であり、「空手=瓦を割る」の打撃理論が、一般大衆にイメージとして植え付けられたからである。

 しかし残念ながら、人間は流動体であり固体物ではないのである。人体は血液や空気などを含むソフト部分と、筋肉や骨などからなるハード部分の混合物体から出来ている。したがってL=M/2・V2の運動方程式は、人体に限り、どこまでも大きな矛盾を露呈していることになる。

●鍛えることの出来ない四つの急所

 どんな強者でも鍛えることの出来ない「四つの急所」がある。別名、「四タマ」と言われる所で、俗に言う、「アタマ」「メダマ」「クビッタマ」「キンタマ」の四箇所である。
 アタマは、ずばり頭であり、頭部そのものを指し、メダマは眼球であり、クビッタマは頸椎もしくは、喉仏(喉の中間にある甲状軟骨の突起した所で、喉骨ともいわれ、喉頭隆起)を指す。またキンタマは金的であり、睾丸である。

 この四箇所はどんな強者でも鍛えることが出来ない。クビッタマに当たる頸椎でも、ブリッジ訓練で多少は鍛えることが出来るものの、鍛えれば鍛えるほど、頸動脈が圧迫され、脳へ流れる血液障害と、七個の頸椎にズレが起り、晩年はこの部分から障害が発生し、頭痛や顔面神経痛などの頸椎障害の病因を招く。

 さて、鍛えることの出来ない四箇所の急所が存在するということは、等しく、体格の大小に限らず、脆弱な箇所が誰にでもあるということであり、ここを攻める具体的な術を知っていれば、まさにこれは名実ともに、イザというときの「切り札」になるのである。

 徒手攻防において敵に対し、最も効果的に当身を入れることの出来るチャンスは、次の四つである。
 その第一は、敵がリラックスして筋肉に緊張がない時機(刹那であり、指ではじかれるような極めて短い瞬間)。第二は敵の動作や喋りが終了した時機。第三は吐気を吐き終わり、これから吸気が始まろうとする瞬間の時機。第四は精神的に緊張がなく奢り高ぶるか、あるいは隙だらけにして油断をしている時機の、四つの機会に対し、人間の臓器や、骨に最も有効的なダメージを与えることが出来る。

 しかしこうした刹那を防御することも可能である。人間の内臓や骨は、先ず「筋肉」という鎧袖によって保護されている。したがってここを筋力トレーニングによって鍛えることが出来る。鍛えれば鍛えるほど、頑強になり毎日驚異的なトレーニング・プログラムをこなす相撲力士やプロレスラーには、幾ら剛拳の空手家の必殺拳も、またボクサーのハンマー・パンチも殆ど通用しない。
 それでもしかし、「四タマ」だけは、彼等とて鍛えようがないのである。したがって、此処を攻めるために有効な術を知っていれば、小が大を倒すことは可能なのである。

●手解きを基本とする「抜手」の業

 大東流では、敵から手頸を掴まれ、これを抜くこと「抜手」と呼び、敵の封じた手を解くことを「手解き」という。敵の急所に、正確に中高一本拳などの当身を打ち込むためには、この抜手を熟知しておかなければならない

 激しく動き廻る敵の急所に対して、一撃必殺の正拳突きで倒そうとする発想は、先ず不可能に近い考えであるといわねばならない。つまりピョンピョンと撥ね廻り、腰から上の上肢を上下運動させて、丹田力を散らす殴り合いは、本来、日本武術にはなかった。日本の武術の足運びは、能楽(日本芸能の一つで、能と狂言との総称)と同じく摺り足である。

 確かにボクシングは、フットワークを遣い、パンチによって、運動力学的に脳震盪を起させて卒倒させる格闘技であるが、これはグローブをはめての競技であり、脳や内臓に衝撃を与えるが、これは急所を捕えて殴り倒したものではない。あくまでも揺さぶりによる、脳震盪の結果からノック‐アウト(Knock Out/KO:相手を倒して、10秒以内に立ち上がれなくすること)を奪うのである。

 以上を考慮すると、動き廻る敵の急所を捕えて、打破することは不可能かということになる。ところが、敵の攻撃に対処する術を会得すれば、敵の打ち込みや拳突きや蹴りなどに対し、手頸や足頸を制する方法が最善であることが分かってくる。
 特に手頸の場合、手頸で払い、手頸で受けるというのが、過去の柔術諸流派では実証済みなのだ。その基本が手解きであり、「抜手」の業だ。

 中国拳法では「推手」という動作で、聴頸化頸を要請するし、剛柔流空手道にも「カキエー」という類似の動作があり、また弥和羅といわれる古典の柔術には、平安時代後期頃からこの技術が秘かに伝わり、今日に残っている。
 喩えば、斬り込みを仕掛ける敵の手の経穴の「合谷」(拇指と人指し指の間にあるツボ)を、斬り込みと同時に転身して、素早く捕えるのは至難の技であるが、敵の腕を一旦擦り落とし、それと同時に合谷を掴み、腕を押し上げて、章門や期門に中高一本拳を打ち込むのである。あるいは斬り込んで来る、敵の右腕の肘の曲池部分を天に押し上げ、同時に、急所に中高一本拳を打ち込むという方法をとる。

 こうした抜手の稽古を重ねていけば、暗闇で攻撃されても、その気配だけで敵の息遣いを感知し、気配だけで腕や手の合谷、あるいは人体の急所の各部位に、ピタリと打ち据えることが出来るのである。

●二丁張り

 左右両方の拳あるいは二刀剣の要領で手刀を打ち出す事を「二丁張り」という。要するに一人の敵の急所を同時に、段差をつけて叩くことを言うのである。この段差をつけることで、各々の急所は異なった効果を現わすからである。
 「丁」とは偶数を表わす意味で、左右を同時に突き出し、各々は異なる当身の効果を狙ったものである。

 喩えば、拳張りの一種で、下突き揚げからの二丁張りで拳闘のアッパー・カット(upper-cut/相手の顎を下から突き上げて打つ攻撃法)のような突き揚げ方で、顎の下昆(地閣)と金的を同時に突き揚げる、段差を設けた張りである。この二丁張りは、上下の張りと、横の左右(双刀討で、その呼吸は中国拳法の双峯貫耳によく似ている)の張りがある。

●手刀の橈骨・尺骨部の大事

 大東流では肘から上の部分を「手刀」という。この「てがたな」は単に空手で言う手刀とは異なる。小指側の刃の部分を、板や瓦を割るだけには用いず、この手刀は幾重にも変化する。日本刀に匹敵する武器になることを忘れてはならない。

▲中高一本拳・打ち据え上段(クリックで拡大)

 また手刀の橈骨部と尺骨部は、日本刀で言えば棟(刀背側で峰とも)と刃(焼刃部)の関係になり、橈骨は茎状部でその拇指側を指し、敵の攻撃を外横の方向に打ち払い、防御に用いられる。この部位は「外小手」ともいわれ、特に受け技として用いる技が、そのまま攻め技にも転用できる。

 また尺骨は茎状部の小指側を指し、「内小手」といい、主として敵の攻撃を内横の方向に打ち払い、防御に用いるが、攻め技にも転用できる。尺骨部は返し技で、受けと同時に手刀打ちへと変化させて、敵の頭部や顔面に向けて攻撃することも可能である。また第一打で目的を達成できない場合、第二打として指股などを用いて眼を突く攻撃に転じる事も出来る。


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