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西郷派大東流と武士道

■ 拝師の礼 ■
(はいしのれい)

●控えめであり、目立たないことが礼法の基本姿勢である

 武門の礼法の基本的姿勢は、「控えめ」であり「目立たない」ことである。そしてその動きに於ては、滞りのない流れるような自然さと、機転と言うものが必要になる。
 こうした流れの中で、相手や周囲への配慮や、思いやりと言うものが統合されて、一つの動きと流れからなる「礼法」が完成し、美意識としての礼法の形態を形作るのである。

 「控えめに」という事は、人目に立つ振舞をしない事であり、これは礼法特有の美意識と考えられる。更に求められるものは、蔭(かげ)に隠れて「目立たない」という事であり、虚勢を排して、自然な態(さま)を最上とする。起居(たちい)振る舞いや、物を運ぶ時の移動ならびに動作は、能(のう)の舞いの如く、摺(す)り足にて進退を行うのである。その際の重心は、中心軸の吸収されるような自然な動きが求められ、特に肩から手頸(てくび)に至る迄の山形の、なだらかな線は「水走り」といって、御式内では最も重要視される姿勢である。

 起居振る舞いにおいても、滞りがなく、流れるような動きは最上のものとして尊ばれ、動きに途切れる節目を作ったり、ぎこちなさを作るのは、結局礼法のツボを外してしまい、「見苦しい」とされた。
 これは合理性を重んじる武術特有の考え方で、停滞点を作らないという事であり、これはすなわち隙(すき)を作らない心構えにも通じるのである。

 この際、動きの中では、手足はバラバラに動くのではなく、一つのエネルギーを発信源にして動かす事が肝心であり、手と足が別々の発信源を持つ、二つのエネルギーから発してはならないのである。
 エネルギーの発するところは「丹田」であり、ここから同一のエネルギーで手足を動かさなければならない。手と足がバラバラでは、停滞点を作ってしまい、実に見苦しいのである。

 昨今は西洋式スポーツトレーニングを主体としたスポーツ格闘技が持て囃されている為、その原動力は複数の部位から発進する格闘技が増えつつある。
 物体が動作を起こす時、エンジンと云われる動力発信源が必要である。起勢を発進させる最初の起こりは、脳であり、心臓である。これは人間の生存本能が委ねられているからである。また疾(はし)る際のエンジンは、脚のバネであり、腕の振りである。

 格闘技の場合にもこの発信源なるエンジンがある。例えば空手の場合は相手を倒すのに、四つのエンジンの発信源があり、各々から四種類のエネルギーが発進される。その部位は両腕二箇所であり、両足二箇所である。合計四箇所の発信源があり、エネルギーも四種類のエネルギーから構築されている。そしてスピードと力が用いられるので、両手両足が各々異なるエネルギーによって打ち出される。
 例えば、蹴る場合は足の力のエンジンが使用され、正拳突きの時は腕のエンジンが遣われ、そこが各々のエネルギー発信源になる。

 ところが西郷派大東流合気武術の場合は、エネルギー発信源のエンジンが一箇所に集約されている。丹田と云うエネルギーの源をエンジンの発信源にして、「丹力」がこれである。両手両足が総てこれに集約され、丹田を中心にして「呼吸」と言うものを用いる。丹田から発せられた丹力は両腕に伝わると同時に、即、両足にも伝わり躱(かわ)す為の転身動作にもなるが、同時に業を仕掛ける攻撃の動作にも作(な)る。
 総て連動されている為、そのエンジンは一箇所からのエネルギー発信源で賄(まかな)われ、進退・攻防がなされる。したがって、途中で途切れると云う事がない。流れは動きの中にあり、動きは流れの中にある。
 まさに「舞い」の動きであり、「能」の摺り足がものを言う。この中にこそ、「控えめ」で、「目立たない」という、真の奥儀が隠されているのである。

●未熟な人間ほどスピードに頼る

 武門の起居(たちい)振る舞いは「動き」と言うものを重んじる。
 動きを行う上で、力やスピードは無用の長物である。そして何よりも、スピードに頼ろうとするのは、その人が、未(いま)だ未熟であると言う事を物語る証拠でもある。

 達人の域に達した人の動きは、決して速い動きではない。むしろ、酷(ひど)くのろのろとしていて、のそっとしたものである。こうした動きを、未熟な人間ほど侮(あなど)ってしまう。未熟な者ほど、速い動きを珍重がるようで、スピードこそ、総てだと勘違いしている者も少なくない。

 人間の目に見える動きは、肉の目を通している為に、その反映は可視世界の現象だけしか捕らえる事が出来ない。未熟な者が「速い」と捕らえる動きは、実は肉の目で見ている限りの事であり、「広くゆったり」とした動きを、「のろのろしている」とか「のそっとしている」と捕らえるようだ。

 したがって未熟者は「そのくらいの速さでいいのですか?」等と、釈迦に説法でもぶつけるような態度で切り返す。品格と業(わざ)を練り上げた熟練者ほど、こうした問いに対し、怒りもせず、「そうさ、そんなものだ」と、やんわりと躱(かわ)す。しかし、実はここが問題なのである。

 遲い動きを見せるのは、スピードがなくても業(わざ)を遣(つか)いこなせるように会得しているからであり、時間と空間の「間」の遣い方が優れているからである。同時に「出足の良さ」というものがあり、既に、相手が何処を攻撃して来るか、事前に察知できるからである。

 人間は、攻撃を仕掛ける時、予(あらかじ)めどこを狙うか目標を定めるものである。そして目標を狙い定めで、そこに確実に討ち込んで来る。したがって、観察眼が確かな場合、「出足のスタート」が非常に良いものとなり、スムーズに転身を行ない、あるいは躱す事が出来るのである。そして当然それは、「余裕」に繋(つな)がり、余裕のある動きは滑らかで、ゴツゴツとして武骨さを感じさせず、その余裕がスピード感を観(かん)じさせないのである。
 こうした「余裕の動き」を、素人の肉の目は、「酷くのろのろとして」とか「のそっとしたもの」と捕らえてしまうようである。可視世界の肉眼と言うものが、如何に頼りないものであるか、これで解ろうと言うものである。

 これは武術に限らず、「礼法」に於いても同様である。
 起居振る舞いと言うものは、「流れる動き」でなければならない。しかし未熟者ほどバタバタしていて、騒がしく、粗忽(そこつ)な動きをするものである。慌(あわ)ただしく事を行い、結局、軽はずみなことをして要所のツボを外してしまい、最後は不躾(ぶしつけ)な形に終始する。

 こうした未熟さから来る慌ただしさは、非常に目立つ起居振る舞いになってしまい、人目につく動きになってしまう。昨今はこうした動きが持て囃(はや)されているようで、目立つスタンドプレーヤーの如き、自分一人が目立ってしまって、浮き上がっている事に有頂天(うちょうてん)になる者も少なくないようだ。

 しかし武門の礼法では、こうした目立つスタンドプレーヤーを忌(い)み嫌うだけではなく、御式内流に云うと、「前煌(まえひら)めき」と云って、「飾り立てる」という意味の語源を用いて、これを賎(いや)しむ。
 そもそもスタンドプレーヤーというのは、未熟さから起るそれではなく、元々が性根(しょうね)「いやらしさ」から起る持って生まれた衆生(しゅじょう)の性分であろう。

 こういう人間は、性根を叩き直さない限り、改まらないのであろうが、元々がそうした衆生で生まれでている為に、こうした目立ちたがりやは生涯直らず、年齢を重ねるに従って、周囲の者に鼻を摘(つ)ませる事になるであろう。要するに、粗忽者として衆生が生まれ出たことになるのである。

 武門の礼法は粗忽者を嫌う。目立たない事を第一義とする。それは、目立つと敵を作る事になるからである。
 一般に「敵」とは、外の敵を指すようであるが、本来、外には敵が居るものではない。敵は常に裡側(うちがわ)から発生し、それが敵としての形を露(あらわ)にするものである。

 世が資本主義の競争原理に傾く動きをしている以上、そこには弱肉強食の理論が罷(まか)り通り、内部から格闘が起るものなのである。利益追求の為には、高い社会的地位にある者も、簡単に誘惑にまける世界である。金や物や、そして出世や学校・学閥に振り回される世界である。現代人は人生の大半以上を、こうした物にエネルギーを費やしている。欲望の激しい人間ほど、利益や名誉の追求も激しいのである。

 資本主義の競争原理の働く現代社会は、敵と味方に分かれて戦う裟婆(しゃば)の地獄絵は、かつて日本人が経験した十六世紀の乱世の時代に酷似している。裏切りもあれば、寝返りもあり、これこそが乱世の実相であり、その意味で、現代もこれに酷似する。
 今まで味方と思っていた者が、突然裏切り行為をし、隠密裡(おんみつり)に寝首を掻(か)く工作をするものである。
 現代社会こそ形を変えた「乱世」であり、乱世では、敵よりも味方を恐れなければならない。本来、敵と云うものは存在しないが、味方から敵が発生し、それが外に分裂していくのである。
 また、外に存在する敵に、恩恵を施せば、やがては味方になりうるものである。味方が、恨みを含めば、やがては敵になる。恩恵少なく、恨みが多ければ、またこれが敵となっていく。

 こうした戦乱の実相を見抜いて、沢庵禅師(たくあんぜんじ)は次のように述べた。
 「敵を怖れるべからず、身方(みかた)を怖れるべし。初めより敵なし、身方を敵とする。敵に恩恵を施せば味方になり、身方恨みを含めば則(すなわ)ち敵となり、音少なく恨み多きときは、則ち何の所にか身方あらん、天下敵なり」
 この諌言(かくげん)からすれば、敵味方に別れる最初の切っ掛けは、やはり何と言っても「目立つ」ということであり、「控えめでない」という事が、その起因にあるようだ。
 したがって武門の礼法はこうした事を極力慎み、味方から敵を作るなと言っているのである。

●礼を忘れた現代、礼を知らない現代が審判員制度なるものを生み出した

 紳士のスポーツとしてイギリスで発祥したゴルフは、審判員を置かない事が、その作法として知られているが、この根底には、他人に審判をしてもらったり、監視してもらうという行為が、紳士の見識とプライドを醜くするものとしてのことである。
 しかし昨今のスポーツの多くは、こうした紳士の見識とプライドを表面に打ち出し、品格ある作法として「誇り高く行なうスポーツ」はゴルフを除いて他には存在せず、これに準ずるものが競馬くらいなものであろう。

 そもそもの礼法の起こりは、人間を誇り高く、然(しか)も名誉を重んずる行為として生まれたものだった。武門の表芸であった武術の世界にも、元々審判員等は居らず、武術が武道と言葉を変えた辺りから、審判員なるものが登場した。本来武術における果たし合いは、見届け人は居るものの、無審判制度が原則であり、審判をする行為は、個人の聖域を干渉する行為でもある
 これは人間の人格的独立を考えた場合、明らかに干渉であり、これも「礼」を忘れ、礼を知らない現代の現実が招いた元凶であろう。

 そして審判員が発生した最初の元凶は、江戸相撲であり、本来の相撲が興行を打つ為に、土俵なるものを作り、審判員たる行司(ぎょうじ)を置いて勝ち負けが、一般素人にも解るようにした大衆化が、武術に世界にも入り込んで、本来、時間無制限ならびに試合場の場所を選ばないものが、いつしか観客の目を楽しませるものと代わり、これが時代錯誤を惹(ひ)き起したものであった。

 更に剣道に於いては、往時(過去)の試合は元々「一本勝負」であったものが、近代に至ってスポーツ化された為、三本勝負を行なうようになった。
 この考え方は、「一本勝負」を三回行なうと言う行為であり、「三本を一組」にしている観がある。つまり、三本のうち、二本とったら「勝ち」という構図が出来上がってしまい、これは明らかにスポーツの思想を根底にしたものである。
 したがって一撃一刺がそのまま、生死の明暗を分ける武術の世界のものではなくなって来ているのである。
 こうした現代の実情も、礼を忘れ、無礼を平気で押し通す、価値観の違いから派生したものである。

●礼法では跫音を立てないのが原則

 人間は歩行によって、日常の動作を全うしている。歩行する中に、人間の動きが隠されている。歩行こそ、用心を重ねる媒体であり、歩き方一つで、その人がどの程度の人物であるか、容易に察する事が出来る。
 古来より「歩き方」は武人の嗜(たしな)みとされた。人が歩く際に、物に接触したり、人にぶっかったり、石に躓(つまず)いたり、跫音(あしおと)を響かせたり、接近している事が容易に察されるような歩き方は、その人が如何に未熟者であるか、あるいは不用意と無神経と粗忽(そこつ)であるかを如実に物語ったものであり、まず第一に、重心軸の動揺がこうした粗忽を招いているのである。

 また歩く際には、目付が肝心であり、未熟者程、左右をキョロキョロ見回したり、後方を振り返ったりするものであり、これは武門の礼法として「卑しい」とされた。
 大声で話ながら歩いたり、銜(くわ)えタバコをする等は、武人の行いに非(あら)ず、これこそが最も油断して歩いている姿と言える。

 御式内礼法には殿中作法だけではなく、「歩行時の禁」も戒めている。
 その中に「虎視牛行」(こしぎゅうこう)という教えがあり、「虎のように辺りを見据え」「牛のように堂々・悠々(ゆうゆう)と歩け」という意味のものを説いているのである。つまり「見すぼらしく歩くな」ということであり、自分の歩く姿を、「第三者の目で、客観的に見よ」ということなのだ。
 自分を常に客観的に見ようとしない人間は、隙(すき)を作り、敵に醜態を曝(さら)す事になる。またこれが狙われて、狙撃のターゲットになる。

 御式内礼法は教える。
 街を歩く時も、人に逢(あ)う時も用心深くせよと。
 不機嫌な顔をして、険悪で、傲慢(ごうまん)な態度をとっている人間程、人から命を狙われ易く、しかし自分では、こうした事に気付いていないのが、その人の間抜けな実情である。

 最近は、日本も非常に治安が悪くなったが、それでも案ずる事はあるまいと、高を括(くく)って歩行する事に、あまり注意を払わない武道家や格闘家がいるが、こうした人程、未成年の素人から刺され易く、これは日常生活の中に、武道や格闘技が応用されていない事を如実に現わしている。
 そして有事の際、武道や格闘技は、技を心得ていても、試合場以外ではあまり役に立たず、ここに試合場と日常生活を分離している現実がある。したがって歩き方も、隙だらけで疎(おろそ)かになるのである。

 御式内の説く「礼法」は、礼法そのものが武術であり、武術は日常生活と表裏一体の関係をなし、命の遣(や)り取りをする媒体であった。したがって歩き方も細心に注意を払い、慎重にならざるを得ない。
 ところが現代は、こうした事が忘れ去られ、今や日本人は働き蟻(あり)の如く、馬車馬の如く、セカセカと歩き、このセカセカぶりが世界でも有名になっている。これは通勤時の東京駅を見れば一目瞭然であり、その他の地方都市でも同じ様な、セカセカした通勤光景が見て取れる。プラットホームから駆け出す人は、一体どういう理由で駆け出すのか。
 あるいは健康の為に、足腰を鍛える為にこうした事をしているのか。
 しかし、到底そのようには見られない。あれこそ「セカセカ歩き」「バタバタ歩き」の最たるものではないか。

 また車を運転する時も、「セカセカ歩き」と同じような運転の仕方をしている。
 セカセカ歩きは、本来、目的意識がないところから派生している。よく考えると、何故そんなに急がなければならないかという理由は殆ど無いにもかかわらず、必然的な理由が不明の儘(まま)、何かに追い立てられるように、セカセカ、イライラしているのである。そしてこうした人は、事故に遭遇し易い。

 御式内礼法の中には、その教えとして、次の事を述べている。
一、武士(もののふ)は、道行に際して連れ人がある時機(とき)は、いつも右側を見るべし。
一、武士は、道行に際して曲り角を大きく迂回(うかい)し、角に近寄るべからず。
一、武士は、常に足心にて道の善し悪しを踏み分けよ。
一、武士は、目配りと気配りを以て、それを八方・上下を感知すべし。(【註】八方とは前後左右と、それの斜めの八方位。上下は自分の泥丸(でいがん/百会)と会陰(えいん)の上下で、隙あらば上から物が飛来し、下から槍が突き上がるの意味)
一、武士は、歩行に際し、「舞い」の歩きで進退を行い、音を致すな。

 「音を致すな」とは、音を立てるなと言う意味であり、粗雑な跫音(あしおと)の無い態(さま)をいう。
 歩行に際して跫音を立てないと言う事は、武士の家では幼少の折りより、厳しく躾けられった家庭教育の側面であった。足遣いの粗雑な人間に、武術練達を極めた者は居ない。これは能や踊りの世界でも同じであろう。
 その人が、どの程度の舞い手か、足遣いと跫音を聞けば、大体想像がつくのである。

●礼儀を知る知らぬで、その者の人間的な度量が出る

 『礼記』には、「賢者は狎(な)れてもこれを敬(うやま)い、畏(おそ)れて然(しか)もこれを愛す」とある。
 人間には礼によって形作られた「格」というものはあるという事を説いている。軽率で、表面しか見えない者は、将来の指導者として目されないと言う事を『礼記』は挙げているのである。

 人間には確かに「格」と言うものがあり、格は礼儀を知る者と、知らぬ者とに分けられる。礼儀を知る者は、自分の立場と言うものをちゃんと把握していて、常に第三者の目で自分を観察しようとする。しかし身分や自分の立ち場を忘れてしまう者は、自分を第三者の目で観察する事が出来ないから、ついその気になって自惚れ、ついには資質違いの事をしてしまう。
 つまり、師匠の本当の意図が理解できず、表面の出来事を「総て」と受け取ってしまうのである。

 例えば嚴しい指導法や、過酷な非日常の現実を申し与えた場合、志しの目的意識がしっかりしている人間は、こうした行為を素直に「今しっかりと、人間を鍛えてもらっている」と受け取るが、志しが無く、目的意識が不明瞭な者は、師匠の本意とは裏腹に、「過酷な言い付けで、苛(いじ)められている」と思ってしまう。
 両者の思考は天地の開きがあるが、これが人間の「格」というものである。

 また格の低い人間は、自分の殻(から)から抜け出す事が出来ず、非常に固定観念が強く、先入観で物事を固めてしまってみている為、非常に臆病であり、師匠からこうした事を指摘されても、これを改めない頑迷さがある。

 「学ぶ事」は「志し」によって確立されるものであり、志しが無ければ、学ぶ事は無意味な時間の無駄遣いとなる。そしてそれを為(な)すものは「資質」であり、その人間が何処まで無垢(むく)になれるか、素直になれるかにかかっており、一々「お言葉ですが」という反論を唱える人間は、「小人」(しょうにん)の厄介な一面だけを露出するのであって、進歩は殆ど見られないのである。
 『論語』には、「ただ女子と小人とは養い難しと為(な)す、これを近付ければ則(すなわ)ち不遜(ふそん)なり、これを遠ざければ則ち怨(うら)む」と嘆いているではないか。

 そして格の低い人間程、自分のしている「過ち」には気付かないものである。
 どこで勘違いするのか、「非礼」を礼儀正しさと信じたり、遠慮か謙遜のつもりが、実は大変な迷惑を掛けていると言う現実があるのだ。
 そしてこうした「過ち」は、礼法では「卑下傲慢」(ひげごうまん)と言われる、最も嫌われ、慢心の「驕(おご)りの卑しさ」として、軽蔑されているものである。
 驕る人間程、その「格」は低い人間である。また卑下や謙遜も、こうした驕りの一種であり、自らの格の低さを現わすものである。

●真正の権威主義こそ、御式内思想の源流

 武術や芸道には、その起源に必ず創始者がおり、流祖、道統、宗家、家元といった「道」を説いた人が居る。
 そこにはその流れを切り開いた人が体得し、打ち立てた思想と言うものが流れている。この思想が価値観をもって、この価値観に集まった人達が集団を為し、伝統を形成した「流派」というものを派生させたのである。

 起居振る舞いや、行動原理にもこの思想が取り入れられ、思想を母体として「真正の権威」が確立されたのである。何十年か、何百年かの伝統を生んだと言う事は、そこに見い出した価値観が、多数・少数にかかわらず、これが認められたという事である。
 この価値観はまた、参加者全員が協議会にはかって等と言った、多数決によってその価値観を認めたと言う次元のものでなかったはずである。したがって、ここに流れている価値観こそ、絶対権威と言うものではなかったか。

 武術の流脈を維持するにあたって、多数決や民主的な思考は一切問題にされない。権威が存在するから、そこには人が集まるのであり、これを学ぼうとするのである。そしてこの権威は、民主主義等と言う、本質では決して計り知る事が出来ないものであり、憶測不可能なものなのである。
 ここに存在するものは、唯一つであり、「絶対権威」のみがあるだけである。この絶対権威を見落とすと、本質は曇らされ、創始者や流祖の智慧(ちえ)は見えてこないものになる。また無用の混乱を起こし、造反の糸口を作ってしまう。

 昨今に見られる宗教団体の組織内の醜い争いや、武道団体の跡目(あとめ/家督を継ぐ事)相続問題でもめるのは、こうした絶対権威の信念が失われているからである。正しい意味の、権威主義に立脚していない為である。
 この権威主義に立脚した創始者の智慧と知徳に支えられるこの思想は、何人も認めざるを得ない道統性があり、これは広く尊厳されるものであって、企業等の組織や国家体制の社会システムの在(あ)り方とは根本的に違っているのである。しかしこうしたものに頼ろうとする宗教団体や武道団体は少なくない。

 現代はその社会システム形態が、何ごとによらず、民主主義を標榜(ひょうぼう)し、これに準ずる事が、最高の社会ルールの如き印象を与え、道統を重んじたり、古式礼法を持ち出して、それに準ずる生き方を模索すると、これを閉鎖的あるいは封建的と言う名の悪罵(あくば)を投げ付け、これに対して攻撃する風潮があるが、礼節を尊ぶ事は偏執的な時代錯誤を現わすものではない。
 要するに、知性が失われ、礼節が失われて、人間が最高教義を無視して、思想的に民主的な教義に傾いた時、「道の理想」は失われ、思考が現代化されて、アメリカナイズされたものを好む傾向が生まれるのである。

 戦後、中途半端に教育された日本人達は、欧州生まれの戦後民主主義に対して大きな誤解をしたまま、その誤解の認識で、これを後世の世代に請け売りしている。更に欧米における民主主義は、日本人が考えるような甘い思想では決してないのである。
 民主主義の総本山である欧米的アメリカ社会では、自分が所属する組織の階級が異なれば、同じ部屋に入室する事すら許されない制度なのである。また、(れっ)きとした階級制度が存在し、民主主義の説くところは、人間不信に基づく便宜的な政治手段であって、一種の社会システムの在り方以上に、何の真理も有しない機能しか持ち合わせていないのである。

 民主主義は、これを適切に運営する為には、この政治システムに参加する全員が知性ならびに豊かな感性を持っていなければならず、これが欠け落ちていれば、政治は愚昧(ぐまい)政治になり、その国家のシステムは正しく機能しなくなる。昨今多発している政治家や高級官僚の不祥事は、こうしたシステムの機能が多数決の原理のよって汚染され、既に老朽化している事を現わしている。

 しかし一方で、これに対峙(たいじ)するものが「礼法」であり、礼の意識が欠如すれば、人間はかくも愚かに腐敗に奔(はし)ると言う現実がある。これは相当に地位の高い者でも、欲望には誘惑され易いと言う、内面的な弱さがあるからである。この元凶こそが、礼の欠如から起こるものである。

 さて、礼法における「作法」というのは「礼」の意識を形に現わしたものであるが、作法と言うものは定型化し固定化して、教条主義に陥り、規律や規則となって本来の人間の自由を束縛するものになっていく。こうした教条化していく傾向に対して、抑制を掛けるものが「見識」というものであり、これにこそ、不文律を有効に機能させる為の、無形の規則と言う「礼法」がある。

 かつて武士階級の間で行なわれていた「上意討ち」に対し、不詳事を引き起こし不都合を生じさせた相手ですら、脇指を帯びて刃向かう事を許していたと言う事実は、相手の魂に対し、聖域に対する敬意の現れであった。如何なる相手であろうとも、「敬意」を表する事こそ、「礼法」の行動原理であったのである。
 かつての武士達が、高い品位と風格を保ち得たのは、武術を通じて撃刺(げきし)の技を磨いて来たからではない。常に教養と学問を重ね、名誉と恥辱(ちじょく)に対する身の処し方と、その態度を磨いて来たからである。

●礼法を知らない者は、自分を大事にする事を知らない

 昨今は物質文明の恩恵に預かり、金や物や色と云った物質に近い存在を珍重する風潮が流行している為か、自分を大事にしている者が、極めて少なくなった。

 自分の心でも磨けば良さそうなものだが、土・日ともなると、マンションの駐車場や洗車場では、大ローンで買ったマイカーを一生懸命に磨き、御丁寧にワックスを掛けて、より磨きをかける事をしているドライバーやその家族の光景を見かける事がある。

 また夜の盛り場では、異性を求めて執心したり、追い求めると言う光景を目にするが、こうした外にあるものを需(もと)めるよりも、なぜ自分自身の裡側(うちがわ)にあるものを需め、「自分とは何か」という事を探究をしないのだろうか。

 金に於いても、物財に於いてもそうだ。
 精神医学では、アルコールを無限に欲しがる人間を「アルコール中毒」あるいは「アルコール依存症」と云う病名を授(さず)け、麻薬を無限に欲しがる人間を「麻薬中毒患者」と云う。しかし金銭を無限に欲しがる人間を「金銭中毒患者」とは云わない。
 むしろ尊敬の対象にすらなる。同時に羨望(せんぼう)の対象でもある。

 なぜ人は、こうして肉の目で外側ばかりを追い掛けるのだろうか。
 それは自分を粗末にしているからである。そして自分を大事にする事を知らないからである。
 一般的に自分を大事にすると云う事は、「自分に甘く」かつ「他人に厳しい」ことを言うようであるが、これは違う。自分を大事にすると言う事は、自分自身に厳しく律し、他人にこそ、自分の分身として、慈しむ心がなければならない。慈しむ心の無い者は、自他離別意識を作り、自分と他人の間に垣根を作り、同時に敵を作る人間になるからである。

 敵が発生すると言う事は、そもそも「礼法」の何たるかを知らず、こうした無知が、敵を作る想念となって、最後は自らも敵に敗れてしまうのである。
 そして「敵とは」、外にあるのではなく、自らの心の裡側にあるのである。


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