インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> はじめに >> 御式内礼法・武門の心得(八) >>
 
西郷派大東流と武士道

御式内礼法・武門の心得
(おしきうちれいほう・ぶもんのこころえ)

●常に厳しさを求める

 自分に厳しい人間は、他の凡夫と比べて非常に雑念が少ない。雑念が少ないと言う事は、隙も少ないと言う事だ。気配りが行き届き、周囲の気配の感知に優れ、臨機応変に立ち回る事ができる。
 ところが自分に甘い人間は、自分が不摂生して居る事にも気付かず、甘さの中や享楽の中に転がり込んでいる。
 そして自分を粗末にし、自分に甘い人間程、常に死に直面しておらず、ひたすら死を恐れる。

 人間が死ぬと云う事は、単に肉体の死ではない。「死ぬる」とは、懸命に生き抜いた人間でなければ果たす事が出来ない。生半可な生き方に甘受し、それに甘んじては、「死」すら真物(ほんもの)になりえず、真当(ほんとう)の死は訪れない。
 「死」とは、人生をよく生き抜き、生き尽くした者だけに与えられる名誉ある勲章だ。
 したがって、自分に甘く、自分を粗末にし、怠けて来た者には、死すら与えられないのである。

 自分に厳しくない者は、雑念が多く、無念無想の境地に、永遠に至る事が出来ない。
 自分に甘く、他人に厳しい要求を出す人間程、現象人間界の元凶であり、よりよき死を得る事は出来ない。よく生きる事をせずに、よき死は与えられないのである。
 厳しさを求める事は、自分を大事にする足掛かりであり、これを足掛かりにして易より難へと修練する事が必要である。苦難の中に身を置く事こそ、人間進化の原動力であり、苦難の中で懸命に生きた人間は、同時に、嚴しい逆境にも忍耐強く、その意気込みで人生を貫く為、そこには満足度の大きい「遣り抜いた」という安堵感が生まれる。この安堵感こそが、「安らぎ」と云われるもので、よりよい死に就くことができるのである。

 雑念を取り払い、無念無想になる事は、神聖なもの、特に霊的神性に対して、特に敏感であり、こうした細やかな神の囁(ささや)きにも謙虚に耳を傾ける事が出来る人間である。
 己を厳しく律する事は、自分を大事にして生きる事であり、人が需(もと)めながらも得る事の出来ない理想境に辿り着く事が出来るのである。

 武人としての運命、もしくは戦いに際しての運気を、「武運」と言う。戦いでの勝敗の運は苦難を恐れなかった者の方に傾く。そして武運は「祈り」に通じるもので、「武運長久」等とも言われる。

 一方、「武運つたなく敗れる」という言葉がある。
 戦時に於いて、あるいは平時に於いて、武人としての運命は「祈り」に対して、「敗れる」と言う運命があるのだ。
 己を律した人間は「祈り」に到達し、一方、己を律する事をせず、怠慢に過ごした人間は「敗れる」という運命を免れないのである。
 「己を厳しく律し」とは、即ち、戦いでの「武運」の在り方を教えようとしているのである。

●歩くと言う大事

 人間が歩くと云う事は、非常に大事な意味を持っている。歩くと云う事は単に、直立歩行を指すのではない。「歩く」と言う事は、武人にとって大事な行動律であり、また欠く事のできない心得でもある。

 一般に暗い夜道を歩く場合は、懐中電灯等を携帯し、夜道を照らしつつ歩く事が、一般には良い心掛けと思われている。しかし一方で、これは自分の居処を知らせる事になり、襲われ易いと云う欠点もある。

 武門では、礼法として夜道を歩く場合は、提灯等を点けて歩くのは武の心得がないと蔑まれただけでなく、同時に、いつも通っている道なら尚更の事であり、灯りがなければ歩けないと言うのは、如何にも頼り無い限りである。
 本当の護身の意味から考えると、いつも「通いなれた道」は灯りを点(つ)けないで歩くのが、夜目(よめ/闇の暗い中でも事象を見据える事)を鍛える訓練にもなり、こうした暗闇に慣れると言う修行も、武門では重要とされたのである。

 武門の教えは、「歩く」と云う行動律の中にも、「虎視牛行」(こしぎゅうこう)を基本とし、まず、目付は虎のように視(み)、牛のように悠々(ゆうゆう)とした態(さま)を指し、背中を丸めて見窄(みすぼ)らしく歩くなと教えているのである。

●見苦しい所作

 本来人間は、正中線より心臓がやや左寄りに偏っている為、心臓より遠い腕である右側を「利き腕」にしている。その為に、多くは右利きであり、刀の帯刀(たいとう)は左腰に指し、左から右へ抜刀すると云う動作をとっている。こうした事も、右利きなるが故の事である。

 一方、左右両方の手を同じように動かす事が出来るのを「よし」とする考え方がある。しかしこうした訓練を人前で見せつけるのは、余りにも常識知らずで、見苦しい限りである。

 こうした考え方に便乗して、本来は左利きではないのに、左手を遣い、これを見せつける者がいる。そして自分の目上の者の席上でも、こうした訓練を平気で行い、例えば食事の時でも、左手を遣って、これをぎこちない箸遣いでこれを披露する者がいる。しかしこうした訓練を、食事やその他の席上で行う事は非常に無礼な事であり、無礼を無礼と思わぬ者が居るも、また事実である。
 「左右両方の手を同じように動かす」という事は、これは完成した時に、はじめて人前で披露できるものであり、未完成者が、その訓練途中を人に見せ付け、これに同意を得る等の諸業は、非礼極まることである。

 左右同じように動かす事は決して悪い事ではないが、こうした訓練は「人知れず、陰に隠れて行う」ことが大事であって、他人を交えた席上で、これを行う事は無礼であり、第一に「見苦しい」と云わねばならない。
 かつてはこうした事を平気で行う人間に対し、武門の礼法は「見苦しい」と卑下し、またこうした不躾な行為を「ことごとし」と言った。

 礼法の基本は「流れる美しさ」にある。
 したがってこの流れの中には、最も「自然」が尊ばれる。自然な流れに立ち返えれば、その態度としての行動線は、肩から手首に掛けてなだらかな線を作り出していなければならない。このなだらかな線を「水走り」という。

 「水走り」は一つの自然な形を作り出し、これを起居(たちい)振る舞いとして形成するものである。「水走り」が形成される以上、流れには停滞なきものが必要となり、停滞なき流れは尊ばれ、こうした動きは大きな評価を受ける。諸動作に「区切れ」を作らない事は、見た目の美しさがあり、武門では自然な動きを「よし」としたのである。自然な動きは合理性に富み、武術的な価値観が働いているからである。
 そして停滞点を作らない動きは、武術的に見ても、「隙のない動作」に通じるのである。

 「隙のない動作」を考えた場合、果たして右利きが左利きの猿真似をして、あるいは上士列席の席で、左利きの真似をしてこれを披露する事が、礼儀に適(かな)っているか否かを考えた場合、これは無礼の典型となる。既に、ぎこちない箸遣いそのものが、自然の流れを阻害した動きであり、見苦しさに加えて、無礼の最たるものとなる。

 往古の武人が考えた武門の礼法は、時と場合、状況と場所に対し、臨機応変に変化させ、それを即応できることこそ、礼法の基本と考え、その本質は人間の持つ生命に置いていた。生命(いのち)を考えずして、礼法は成り立たない。
 そして礼法における作法を体系的に整理し、これを記憶して、その場、その時の空気にそぐわない行動をする態度を、迂愚(うぐ)で、見苦しいと嫌ったのである。

 しかしこれは法に照らし合わせて、正しいか否かを判断する教条主義的なものではなく、そうした判断基準とは無関係に、その場の空気に逸しているものを、「あさまし」とか「きたなし」とか「見苦し」あるいは「ことごとし」等と言う感覚で表現し、これは教条的な固定したものではなく、「場」に於ての批判の言葉として、こうした感覚用語を遣(つか)ったのである。

 そして他人の諸動作やマナーを評価する場合、その判断基準になるのは、それを評価する側の個々の人間の主観であり、見識が判断材料になり、この場合、その人間の教養が基準になって働くという事である。
 こうした情況下での結果としては、当然のように人各々に格差が出来、ある人物は礼儀正しいと評価が下されても、ある人物は不躾で見苦しいと言う態度だけは突出して、評価される側は、同一人物でありながら、人によっては不愉快と映る現象が起る事も、また事実である。

 しかし基本的には、「あさまし」とか「きたなし」とか「見苦し」あるいは「ことごとし」という判断評価が下されるが、礼法はあくまで、閑人(ひまじん)の身を飾る為にアクセサリーではないのである。そして人間は、社会的な生き物であると言う事を忘れてはならない

 人間自身が、自分に対し、社会的な生き物であると言う事を忘れてしまった時、そこには礼法として不躾な「見苦しい所作」が起り、他から見ていて評価を受けない所作に及ぶ事があるのである。

 時代が移り変わり、大きく変化したとしても、無用の長物になったものは消え去っていく。しかし構成の人間の為(な)すべき事は、こうした武門の礼法として培われて来た、先人の遺産を正しく伝承し、これを時代に即応したものに洗練していかなければならない義務を負うのである。


戻る << 御式内礼法・武門の心得(八) >> 次へ
 
Introduction
   
    
トップ リンク お問い合わせ