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誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●日本の秩序と治安が崩壊する日

 治安が良好な国家・日本は、やがてこれが崩れて「試煉の時」を迎えることになろう。
 根本的に言えば、「治安がいい」ことは、その国の国民が平均して裕福でなければならない。
 「衣食足りて礼節を知る」とは、経済的裕福さが、礼節を支えてることを物語っている。人民は、生活が豊かになって、初めて、道徳心が備わり、道理を弁(わきま)え、礼節や礼儀を知るようになる。

 「衣食足りて栄辱(栄誉と恥辱)を知る」ためには、まず、経済が好調であり、それに加えて、経済活動で得られた富が、人民の間に、平等に、公平に分配されていると言う裏付けがなければならない。そして、このような経済的かつ社会的な状況が、何年も継続・存在することによって、その国の治安は、比較的平穏に保たれるという事である。世界の中で、治安のいい国は、この条件を満たしている。

 しかし、経済状況が大幅に悪化したらどうなるか。
 経済情勢が悪化すれば、まず秩序が崩壊する。秩序が崩壊すれば、不穏(ふおん)な世の中になり、治安が悪くなる可能性が大きくなる。治安が悪くなれば犯罪が多発する。犯罪者の年齢は低年齢化し、年端のいかない未成年までが犯罪に加担することになる。犯罪が多発している国は、大方こうした悪循環に苛(さいな)まされている。

 これは他国の例を上げてみれば、一目瞭然であろう。南北問題を含めて、地球の北側と南側では、圧倒的に南側の経済状態が悪い。それは今なお、発展途上の段階にあり、経済的な不平等が存在しているからである。一部の、不正によって掻き集められた富が、末端の貧困層まで公平の分配されないからである。富を独占する者がいるからである。

 酷使される農奴。かつてツルゲーネフやゴーゴリが描いた農奴は、ロシアの全人口の60〜70%を占めていた。1861年に、アレクサンドル2世の戴冠式当日に「農奴解放宣言」が発せられた。しかし、アレクサンドル2世が暗殺されると、その後を継いだアレクサンドル3世は、ニコライ2世とは逆コースの治世を行い、自由主義は弾圧を受けることになる。一方、資本家を中心とする国会と、皇后を黒幕とする極右勢力が宮廷内で対立を見せた。

 農奴解放は、農民に土地が分割されたが、商品経済の中に取り込まれた農民達は、商業ペースのルートに、収穫した農作物を載せることが出来ず、分割された土地を手放さなければならなかった。一方、労さずして農民の土地を手に入れた資本家達は、資本主義的大経営をして、瞬く間に大富豪へとのしあがった。貴族も例外ではなかった。

 こうして富の独占が始まれば、この不公平に拮抗(きっこう)を保とうとして、必ず社会主義革命が起る。自然の摂理である。その典型がロシア革命であり、今日の反アメリカ主義を掲げるベネズエラにも見ることが出来る。一部の富豪の富の独占は、必ず、社会主義者によって平たくされ、一党独裁国家が誕生する。共産主義や社会主義が、虚構の論理で成り立っているとしても、貧困層はこの虚構に一縷(いちる)の望みを見出す。それが自然界と連動する現象人間界の実態だ。

 経済の不調と、社会の不平等は大きく貧富の差を隔てる。つまり、経済的不調と、社会の不平等が同時に発生すると、その国の治安は極度に悪化する。こうした状況下では、何処の国でも、マフィアのようなアングラ的な犯罪組織が勢力を伸ばしはじめる。犯罪組織の存在が大きくなり、犯罪ビジネスが活発化するのである。
 この意味からすると、今日の日本も例外ではない。欧米並みに、治安も悪化しているのである。犯罪の動機も、情状酌量の面が乏しく、極悪残忍である。

 1990年代初頭のバブル崩壊によって、日本人は「一億総中流」の意識が幻想であったことに気付き始めた。とても、「中流」などとは言えない実情にあることを、大半の国民は薄々認めざるを得なくなった。そして、この現実の背景には、金融経済が実体経済を上回っている実情が揚げられる。
 また、土地担保の神話が崩れたからである。

 その後の不良債権の蓄積が、銀行には山積みされ、実際には破綻(はたん)に追い込まれる金融機関が続出した。北海道拓殖銀行や山一証券などの金融機関が出現し、一層経済は不調の方向に進み、長引く不況の悪循環の後遺症が、今でも続いている。

 一部の楽観的なアナリスト達は、いま日本の経済は好調に向かい、アメリカの株式市場の株高に連動して、日本の株価も上昇し、不景気から抜けだせたと呑気(のんき)な発言をしているが、実際には、今日の日本経済の好調は「仮の姿」であり、本格的な不況はこれからだと思われる。その経済不況の露払い的な行事として、今日の経済が「上向き」であるかのような、日本経済人の思い込みと自惚(うぬぼ)れがあるのである。日本の仮の姿として、好調の恩恵を受けるのは大企業だけに限られている。

 不穏で、混沌とする社会の出現の経済モデルは、今日のヨーロッパの世相を見れは明白であろう。
 現在、ヨーロッパでは経済成長の伸びが殆ど止まり、例えばフランスなどでは、失業者の続出で、社会的不平等が拡大している。これはアメリカを見ても同じである。アメリカで富を手に入れているのは、一部の大富豪に限られる。現代の社会は「格差社会」であり、この影響が、もろに世相に顕われている。

 資本主義経済下では、「金持ち」対「貧乏人」を、ユダヤの黄金率から言うと、28%:72%で分割・配分する。これが最もバランスのとれた状態である。
 ところが今日の経済体制下では、富裕層が
24%、中間層が57%、貧困層が19%となっている。24%の富裕層に対し、76%の中間層以下の経済格差に広がりつつあるのだ。ユダヤの黄金法則から言っても、富裕層が4%減り、この4%が中産階級に転落している事実である。

 その中で、中産階級の底辺に位置する階層が、貧困層へと転落し、こうした貧困層に追いやられた階層を「ワーキング・プアー」という。働いても、働いても生活が楽にならず、豊かになれない層である。

 その反面、アメリカの富の60%は、僅か5%の大富豪達に独占され、アメリカの商業社会の根底に流れていた契約社会と言う、これまでの概念が崩れ始めた。そして金持ちであるか、貧乏人であるかの決定は、白人であるか、大学院などを出た高学歴であるか等は一切問題ではなくなり、所謂(いわゆる)スーパー・リッチ富裕層の金が、金融経済のマネーゲームによって、金が金を呼ぶ商法形式へと変わって来ている事である。

 つまり、こうした構図が格差社会を急速な勢いで造り上げているのである。そこに、現代の「富裕層」対「貧困層」の配分比率を24対76に分割しているのである。この格差構造が、金持ちと貧乏人の、現代のアメリカ社会の構図を造り上げている。

 こうしたアメリカの現実社会の背景には、キリスト教やユダヤ教の「契約」が、物質文明至上主義者たちによって、踏みにじられる現実があるからだ。既にアメリカは、契約社会を捨てる傾向にある。
 そして、アメリカが契約を完全に捨て切ってしまった時、モーセと契約を破る者には、恐ろしい神罰が下る。

 絶対神ヤハウェは、恐ろしい神である。呪がかかる神である。その呪いを一旦背負えば、如何なる大富豪といえども、最後は帝政ロシアのニコライ2世のような悲惨な結末を迎えなければなるまい。その呪いの兆候は、ベネズエラの国家体制が社会主義に変わり、反アメリカ主義を打ち出していることから見ても明らかであろう。アメリカに楯を突く国が南米でも、朝鮮半島でも、中近東でも、アフリカでも増え始めているのである。そして、その敵対国の総元締めは、中国であろう。
 ここに呪われた国、アメリカの現実がある。

ニコライ2世(帝政ロシア最後の皇帝。94年即位。極東に積極政策を展開したが、日露戦争に敗れて革命となった。1906年国会を開設。17年、二月革命により退位、シベリアで家族とともに銃殺さる。1868〜1918)と皇后のドイツ人・アレクサンドラ。
 
 神を否定し、理知のみが万能であると盲信し、科学一辺倒主義に傾き、ひたすら金銭のみを追いかけ、利益を一人占めして、人々の生命を塵芥(じんかい)の如く軽視して弄(もてあそ)び、経済戦略と称して嘘をつき、金融経済を操って世界を騙(だま)し、一気に利益を掻(か)き集め、それによって新世界秩序を打ち立てようとする、ひと握りのエリート富裕層が支配する国際ユダヤ金融資本の国アメリカは、近未来、神に呪われた国に成り下がるであろう。
 富の独占は不公平が生じて、利益配分の不平等が生じ、社会全体が迷走を始めるのである。そこに不穏な影が忍び寄る。犯罪組織が溜まり場を作る。

 そして日本も、この後を、急速な勢いで追い駆けている現実は否めない。
 その証拠に、昨今の多発する事件を見てみると、更に、この現実が一層身近に感じられることであろう。それは最近の感情の爆発以外に、経済的利益を狙った犯罪が多発している事である。「振込め詐欺」等は、この典型と言えるであろう。

 また、経済格差の隔たりが大きくなるにつれ、経済的犯罪がエスカレートして行き、「悪循環のシナリオ」が現代社会を、やがて包み込み、支配することになるであろう。
 こう言う意味で、日本の犯罪社会化は、もう既に始まっていると言える。そして、こう言う社会が出現すると、一番怖いのは、社会のトップに立つクラスの人達が、大衆から信頼感を失うことである。政治家であるだけで、「何か疑わしいことをしているのではないか」という眼で見られる。
 また、清貧に甘んじた生活をしていても、「あいつらだけが、いい思いをして」という嫌疑が掛かることだ。

 所謂、富裕層に対する風当たりが強くなり、信頼感が損なわれるばかりでなく、不信感を抱かれる意識が明白となり、更には、政治家や高級官僚のスキャンダルによって、リーダーシップをとっているトップクラスへの信頼が失墜することである。

 また、犯罪集団の社会支配が始まれば、スキャンダルは、ある意図をもって、故意に組み立てられ、仕掛けられ、それが実行犯によって実行されるという事である。犯罪組織の手にかかれば、トップクラスのスキャンダルなど、意図も簡単に作り出せよう。こうして今までにも、闇の中に葬り去れたれトップの、何と多いことか。
 エリートと称される人達はスキャンダルに塗(まみ)れ、真相は隠されたまま、犯罪集団に不利益をなす社会のトップクラスは、汚職や収賄の偽装工作によって、次々と葬り去れれる運命を辿る。

 最早(もはや)こうなれば、大衆はトップクラスに対して、耳を貸さなくなるばかりでなく、かつての幕末の「ええじゃないか運動」のような、政府転覆の目論みが実行に移されるかも知れない。その行き着く先は、日本人全体のモラルの崩壊であり、最悪のシナリオで、日本は好むと好まざるとに関わらず、日本人の社会の根幹であった、良識を維持したモラルが瓦解(がかい)してしまうかも知れないのだ。

 そして現代の日本人は、こうした現実の中で、亡国の危機を知らないで日常生活を営んでおり、経済格差の広がっている事実を、誰もが真剣に捉えていない。
 また、一部の経済エリートは、官僚制度の厳しい日本から離れ、日本を見捨てて、アメリカや東南アジアなどの海外に向かうであろう。
 こうした傾向が激化すれば、国内の残っている日本人の生活水準は、平均的にゆっくりと落ちて行き、それを待ち構えたかのように、貧困が表面化して来る。こうなれば犯罪組織の思う壷である。つまり秩序が崩壊し、治安が兇(わる)くなり、不穏な混沌とした社会が出現するという事である。

 犯罪社会が支配する世の中では、淫乱や色情の現実が浮上して、社会全体は悪化に向かう。
 これは1980年代のアメリカの歴史を見れば、一目瞭然になろう。失業者やホームレスが街頭に溢れ、夜ともなれば、コールガールが街角に立つ事になる。ゲイも殖(ふ)え、ホモ同性愛も、蔓延(はびこ)るようになる。それに併せて、性病が猛威を振るい、その悪化の一途には、不治の病といわれるエイズが、大きく関与することになる。
 シカゴをはじめとする大都市では、次々に暴動が起り、世の中は不穏一色となった。この事実を忘れてはなるまい。

 日本では、日本人のモラルが失われた時、アメリカのように、大都市での暴動が起るか否かは、定かでないが、今日の「一億総中流」というような平均的な豊かさは徐々に失われ、10億円以上の資産を持つスーパー・リッチが顕われる一方で、今日の食べ物にも困る大勢のワーキング・プアーが顕われるもの確かなようである。

 そして、これから浮上することは、戦後の日本の特長としてきた社会的安定は失われ、個々人の人間的尊厳は軽視され、纔(わずか)な金銭で、犯罪を請け負うような輩(やから)が出て来ることも予測されるであろう。
 既に日本は、アメリカを総本山とした近代資本主義の最後の足掻きである、経済格差の中で、次なる火と水の試練が待ち構えているのである。

 

●生き残りを賭けて

 生き残りを賭(か)けて、生存術を学ぶ為には、ただ、気持ちだけではどうにもならない。
 具体的な生き残りの「術」を学ぶことが大事であるが、その術だけでも、どうにもならない。生き残る為の精神的な支柱も大事であるが、その前に、「敵を知り、己を知る」と言う、内面的な分野も学ぶ必要があろう。

 では、「敵を知り、己を知る」とは、一体どういうことか。
 一般的な思考として、「敵」を考える場合、それは「外側の敵」を想像するようである。しかし、敵は、何も外側だけにいるのではない。裡側(うちがわ)にも、敵は存在するのである。そして、外の敵より、内の敵の方が、遥かに手強いのである。

 人間の肉の眼は、外側に向けられている為、外側を警戒する識別は辛うじて備わっているが、裡側(うちがわ)を監視する眼は殆ど養われていない。表皮だけを見て、それに評論を下す事は長(た)けていても、その深層部まで見抜ける人は稀(まれ)である。
 また、外に向けられた肉の眼は、裡側を覗けないように出来ている為、裡側で起っている現象に殆ど気付かない。

 人間界は、また、現象世界でもある。因と縁が交互に押し寄せ、空間的にも、時間的にも、この因縁により連動され、大きなリングの輪を為(な)している。
 このリングの輪は、総(すべ)てが連続されている為、何処が始まりで、何処が終わりか明確ではない。

 一般的に、事象や現象は、原因があり、その原因によって結果が起ると信じられているが、これも連続する巨大なリングの輪の中では、何処が始まりで、何処が終わりか、また、どれが原因で、どれが結果か、釈然(しゃくぜん)としない所がある。一つの因縁で繋がっているからだ。

 こうして観(み)て行くと、「因」「縁」は、それに齎(もたら)される「果」の関係において、空間的にも、時間的にも、網の目のように繋(つな)がっていて、どれが最初か、どれが最後かも明確でなく、ただはっきりしていることは、全体の力が「一点に集約」されて居る事である。そこに「要」の一点がある。

 だからこそ、一点を掴んで、その紐を引けば、一つの目を中心にして、全体の目が引き寄せられる仕組になっている。この理論に基づいたものが、実は「合気」であった。
 したがって、自然界もこれと同じ仕組になっている。合気の修行は、人体の一点に集約された「要」を探求することなのである。

 我々の肉の眼で見る、例えば、木の葉が散ったと言う自然界の現象は、空間的には世界の端々まで関係し、時間的には、未来にまで影響し合っている。
 また逆に、大陸の彼方の誰かの行動も、何百万年もの過去の猿人の運動も、今日の我々に影響を遺(のこ)していると看做(みな)すことが出来る。

 人間の棲(す)む現象世界は、総(すべ)ての個人、あるいは、あらゆるものに存在する宇宙的絶対性と、清浄性は、総ての生き物に内蔵されている。ただ、人間以外の生き物は、仏心を有していないので、これを自覚することができない。
 この自覚は、「無分別智」に至って、初めて分別により、知覚できるものである。

 ちなみに、「智慧」「知恵」の違いを御存じだろうか。
 知恵は、一般的に言って、物事の理(り)を悟り、適切に処理する能力をいう。つまり、人知から起ったものが「知恵」と呼ばれるものである。
 ところが「智慧」は、真理を明らかにし、悟りを開く働きであり、知識を伴わない、古人の教訓がその集積となっている。この智慧こそ、「無分別智」であり、その意味で知恵は、単なる人知が考え得た知識に過ぎない。

 人間世界を、分別知の「知恵」の概念で凝視すれば、自他離別に映り、世界は各々に独立した姿で映るが、「無分別智」で、現象人間界に起る事を洞察すれば、各々は互いに関係し、影響し合っている事が分かる。
 関係し、影響し、然(しか)も途切れる事なく、変化を続けているのである。無分別智に至って、宇宙全体は壮大な動きの中で、刻々と変化する態(さま)が観測される。この様相を、「諸法無我(しょほうむが)」と言うのである。

 諸法無我とは、三法印の一つで、いかなる存在も、永遠不変の実体を有しないというこという。また、「我(が)」を否定する事で、人間存在や、事物の根底にある永遠不変の実体的存在を感得できるのである。
 そして、このような認識を「依他起性(えたきしょう)」というのである。

 依他起した存在とは、肉の眼に映る現象を捕らえ、日常、普通に映る、家や車や家具等の物体であるが、これ等の存在は、我々の認識的感覚では、何(いず)れもしっかりしていて、頼りになり、実体としての存在感があり、変わる事の無い、不変なものと思われがちである。

 しかし、こうした物も、無分別を通してその智慧で透徹すれば、今なお、変化して止まない、頼りにならない、幻想としての存在でしかないからである。何れも幻(まぼろし)としての響きから脱していない。つまり、現象界で起っている総ての現象は、「仮の存在」以外の何ものでもないのである。

 我々が五感を通じて感じる事が出来る諸々の存在は、「因」と「縁」が掛け合わされて派生したものであり、「存在する」という影響下において、生じたものである。しかし、この存在の影響は、因縁によって生じたものであるから、因縁が変われば、また、消滅の憂き目を見るのである。

 依他起する存在は、刻々と変化し、変化の後、他のものへと姿を変えていく。姿が変化するものは、則(すなわ)ち、今は「存在しているもの」であるが、実は、やがて姿を変える「仮のもの」という事になる。

 現象界の如何なる存在も、「因縁」によって生じたものである。心に映し出される、現象世界では、多種多様の存在のうち、どれが迷妄であり、どれが真実であるか、それを判定するのが固定観念に囚(とら)われない「無分別智」である。無分別智こそ、真実を判定する原理なのである。

 現象世界では、我々が認識したその儘(まま)の姿が、その儘の真実として存在しているわけではない。然(しか)も、認識する前に、種々の迷妄に惑わされ、執着や煩悩(ぼんのう)によって歪(ゆが)められている。つまり、歪められたものを、真実として感得する事こそ、分別知と言う固定観念から生まれた最たる元凶で、真実への認識は狂ったものとなる。認識した、その儘が、無条件に真実ではないのである。
 ここに、一般常識として信じられている、分別から起った「分別知」の元凶がある。

 知識に頼り、知識だけを優先させて、現象界で起ることは、「変化だ」という真理を忘れれば、最悪の事態を迎えることになるであろう。これは変化を嫌い、変化を恐れた時にやって来る。
 最悪の事態は「分別知」は、これまで上手く機能したのであるから、これから先も上手く機能するであろうと、安易な希望的観測を抱くことである。
 現象界に生きる人間は、本質的に批判を嫌う習性を持ち、一種の安住を拠(よ)り所にして、その安全圏から出ないことである。いつまでも、そこに居て、その恩恵を貪(むさぼ)ろうとすることである。こうなると手後れになる場合が多い。

 日本がこれから先も、今日の平和がずっと約束されて、これが半永久的に存続すると言う考えを持つ者は、よほどのお人好しか、楽天家である。しかし、こうした考えを持つ日本人は少なくない。
 理想を旨(むね)とする世界では、多くの賢人を配し、その智慧(ちえ)に御伺いを立てる事が多い。見通しが利き、未来を予見し、こうした賢人は、嵐が来る前に、必ず避難所の準備を始めるものである。その準備する日は、どう考えても、嵐の来そうもない、晴天の穩やかな日である。

 しかし、理想と現実は違う。晴天で穩やかな日に、シェルターの建造を始め、人から「何でシェルターを造っているのか」と訊(き)かれれば、「近いうち嵐が来る」と答えたらどうなるだろうか。多くからは大笑いされ、馬鹿にされるだろう。大衆・庶民とは、こうしたものである。
 大衆・庶民は無垢(むく)である一方、また無知である。嵐の前の生活が、余りにも居心地がよく、快適で便利で豊かであればあるほど、その安住にしがみついてしまうものである。

 したがって、先覚者の閃(ひらめ)きの一言は、嘲笑(ちょうしょう)の域を出ない。また、大衆・庶民は、「嵐が来る」の言には、決して耳を傾けようとしないものだ。ただ一蹴(いっしゅう)し、「馬鹿馬鹿しい」で終わりである。晴天の穩やかな日に、賢人が造るシェルターの意味は、大衆・庶民から見て、「馬鹿馬鹿しい、現実離れ」のものと映る。

 ところが多くの人々は、大雨が降り始め、豪雨に変わり、強風に曝(さら)され始めて、シェルターが必要であったと気付くのである。
 豪雨や強風に襲われては、のんびりと野原で遊んで居るわけには行かなくなるのである。そこで、人々は大騒ぎをし、慌(あわ)てて避難場所やシェルターを造りはじめる。しかし、もうこの時には遅いのである。
 現代日本人の頭上には、そんな現実が、もう直ぐそこまで迫っているのである。
 あなたは「転ばぬ先の杖」を、無用の長物と思うだろうか、それとも現代人には、なくてはならない必需品と思うであろうか。その意識だけで、生き残れるか、そうでないか、選別されてしまおう。


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