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誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●人間は徒手空拳を以て、一撃では倒せない

 日本人は一種の妄想の中に生きている。これは何も政治や経済の世界ばかりではない。あらゆる世界に於て、不可解な妄想が取り憑(つ)いている。武道界や格闘技界も同じ妄想によって振り廻され、同じ行動原理が働き、愛好者はこうした妄想に現(うつつ)をぬかしている。自流優位説である。

 わが流こそ世界に君臨しなければならないという画策と、それに伴う妄想が表面に打ち出されている。その為、他武道攻撃や他派攻撃が激しく、我こそ第一人者と豪語する輩(やから)も少なくない。

 さて、人間の躰(からだ)は、非常に精巧に出来ている。
 肉体の組織構造は、精密かつ巧妙で、更には神秘に満ちている。これが小宇宙たる所以
(ゆえん)である。したがって、人間は、人間の徒手空拳を以て、ただの一撃では倒せない。瞬時に即死させる事は不可能である。

 これは「一撃必殺」を標榜(ひょうぼう)する格闘技のテクニックを使っても、一撃で、寸時に即死させられない事は明白である。二度三度、あるいはそれ以上の打撃が必要である。
 こうした、徒手空拳を以て、一撃で倒せない事は、多くの格闘技大会や徒手空拳を標榜する空手等の試合を見ても明白である。また、手加減の度合いは異なるが、かつてのブルース・リーや、近年のジャッキー・チェンの徒手格闘アクションを見ても、一撃で倒せない事は明白である。

 それはあたかも、かつての日本のチャンバラ映画の斬られ役、同様の再生率で、斬っても斬っても、斬られ役が起き上がり、次々に攻撃を仕掛ける、あのシーンを彷佛(ほうふつ)とさせる。これはこれ等のアクション映画が、何度、突きや蹴りを行っても、敵が起き上がって来る、あの悪夢のような再生率を思い起こさせ、一撃で叩き伏せられないのである。

 主役に襲い掛かる悪役は、映画の内容からすると、暗黒組織の集団であったり、銀行強盗の集団であったり、悪徳のタクシー運転手の集団であったり、凶悪を屁とも思わないヤクザの類(たぐい)である。彼等は、凶悪ではあるかも知れないが、どうみても普段から心身を鍛え、朝晩精進する格闘のテクニックに精通している手合いとは思えない。

 そうした彼等が、殴られ、蹴り倒され、投げられて叩き伏せられても、主役の襲い掛かる。こうした殺陣(たて)のシーンがそうなっているのかも知れないが、悪役は、突かれても蹴られても、凶暴で残忍な犯行を繰り返す。そして、実に不思議に思う事は、一打や二打では、中々戦意を失わない事である。戦意を失わないどころか、アドレナリンがはじけて、益々エスカレートするのである。

 主役は、こうした再生率にたじたじとなりながら、一撃必殺の攻撃を試みるが、それでも一撃ではノックアウトできないのである。これは映画の、想像・創作上の作り話であろうが、また、これは一概に想像上の作り話とも言えない。
 例えばチャンバラ映画である。
 殺陣のシーンで、斬られた悪役は、出演者の演技力かも知れないが、一旦斬られても、再び起き上がって再生し、二度三度と斬られる。これは恐らく、歌舞伎のリアリズムのない演劇から始まったものと思われる。主役は、一撃で敵を切り倒すことができないのである。

 この「一撃で切り倒す」ことができない、この場面は、いったい何処から持ち込んだのであろうか。それとも演出者の頭に描いた想像上の、ワン・カットなのであろうか。
 これは決して想像上の、斬られ役の姿とは思えない。やはり、実戦を通して、誰かが視
(み)て来た事が、その根拠になっているのである。

 特に日本刀を用いる場合の死闘は、その遣(つか)い方の知らない者は、敵を一撃で倒す事は出来ない。遣い方を知らない者が使った日本刀は、遣い方を誤れば、斬るどころか、全く斬れずに曲ってしまうのだ。剣筋が正しくなければ、目標の媒体を斬っても、全く切断することができないのである。刀は、飴(あめ)の棒のように曲り、二太刀、三之太刀は打ち出せないほど、全く使い物にならない状態になるのである。

 だからこそ、古人は日本刀の遣い方を学ぶ為に、剣術を極めようとしたのである。
 剣術を極める目的は、あくまで日本刀を用いて、「斬る」ことが目的であり、次に「突く」ことが目的であった。単に江戸幕末期に流行った、北辰一刀流などの、防具を付けての町人や豪農相手の旦那芸ではなかったのである。ここに刀術(剣術)と、近代剣道の違いがあるのである。

 刀術の本義は斬る為であり、これは新撰組の天然理心流が目指した、真剣太刀合の奥儀を極めようとした日本刀による戦いであった。則(すなわ)ち一撃必殺であり、一撃のうちに、寸時に敵を討ち取る術であった。

 寸時に討ち取る術は、日本人が発明した「刀剣」という武器の於てのみ有効であった。だから、素手で倒す効率の悪い事を避け、日本刀と言う、人間を瞬時に切断する事のできる武器を用いたのである。徒手空拳で事が足りるのなら、新撰組の彼等も、日本刀ではなく、徒手空拳だけで幕末を戦ったであろう。

 しかし、徒手空拳では即死させると言う行為に無理がある。だから暗殺には、日本刀が用いられたのだ。
 一撃必殺をもって、瞬時に即死させる事は不可能である。もし、人間を一撃必殺の論理をもって、即死に至らしめる事が出来るのならば、徒手空拳の格闘家の拳、手刀、蹴り等の引きに当たるそれは、日本刀と同格・同等という事になり、人間は日本刀を発明するまでもなく、徒手空拳のまま、手・足を武器にした戦えばよかったという事になる。日本刀の発明など、無駄な努力をした事になる。

 ところが実際に、日本刀の発明は、無駄な努力などではなく、徒手空拳に勝る、大きな発明であった。
 徒手空拳のままで、戦って手・足のみで敵を倒せるのなら、人間は戦争においても、手・足のみで戦った筈である。ところが、石器時代に石を使った武器が登場し、古墳時代には銅戈
(どうほこ)が登場し、大和時代には鉄の武器が登場している。これは、人間が手・足で人を殺すことができないという事を、歴史が証明しているのである。手・足で格闘をし、戦いの為に人殺しをしたのは原始時代の事である。

 近代に近づくにつれ、人間は、人間を殺す場合、武器を用いなければ殺すことができないという現実に気付いたのであった。
 徒手空拳も用いて、「一撃必殺」で人を殺すということは、一種のロマンである。「一撃必殺」の四文字が語るように、そうでありたいと願って人は、徒手空拳の格闘に精を出す。しかしこれは、ロマンの範疇
(はんちゅう)を逸(いっ)する事はない。ロマンはロマンの範囲で止まっているのだ。

 また、一撃で即死に至らしめる名人は、実際には居ようが、本来こうした人は裏側に隠れてしまって、表に出る事を好まない。裏の世界の人間であるからだ。
  武道雑誌にしょっちゅう顔を出している連中は、殺人拳を持ち合わせない。彼等は、一種の評論家に過ぎないのである。

 そして、人を瞬時に、一瞬のうちに即死させる技術は、実際に人殺しを遣ってみなければ証明しようがないからである。
 一撃で殺せるかどうかは、原爆実験同様、実用に使えるかどうかの破壊力を試す、試し斬りならぬアクションを起こさねばならず、実用範囲なのか、それ以下の威力しかないのか、それは実際に、素手で人を殺してみなければ証明する事は出来ない。しかし、表の世界でこうした事は罷り通っていない。

 現代人は今日、武器の携帯を認められていない。
 武器の携帯が認められないからこそ、自分の手・足を武器にして喧華で勝ちたい、ストリートファイターとしての喧嘩師を気取ってみたい、格闘で勝ちたいと言う、現代人の願望が生まれた。今日でも空手や中国拳法が、大いに持て囃
(はや)されているのは、この為である。

 また、一部の大東流が、柔術百十八箇条と共に、合気拳法なるものを奨励して、組手を行っているのは、空手や拳法に遅れをとる恐怖感と焦りからであり、投げや極め技は柔術で、突きや蹴りは空手や拳法でという分割した格闘思想が、こうした行動に繋(つな)がったと思われる。大東流柔術では、この流儀が、徒手空拳によって粉砕する、この手合いに役に立たないことを物語った昨今の風潮だと言えよう。
 何故ならば、柔術百十八箇条は、既に、型を中心とした「古式の型」の骨董品になってしまっているからだ。

 しかし合気拳法を自称し、組手をその主体と置くのなら、最初から役には立たない柔術など稽古せずに、空手か、拳法を練習すればよいのである。あるいは、運良く接近戦の組打に至った場合、相手に組み付いて柔術の技でも使おうというのか。

 果たして合気拳法なるものが、空手や拳法の制空圏に入って、徒手空拳の制空圏で敗れている者が、接近戦に持ち込み、組打に至って、これで敗者復活が可能になるとでも思っているのか。

 但し、制空圏のみを取り上げるならば、長い得物(えもの)が有利である。短刀より小刀が有利であり、小刀より大刀が有利であり、大刀より薙刀(なぎなた)が有利であり、薙刀より長槍が有利である。これは試合をする逮捕術などを検(み)ても明らかである。

 逮捕術に於ては、「素手」対「警棒」が戦った場合、警棒に軍配が上がる場合が多い。これは武器を持つ者が有利であると言う事を物語っている。武器を熟知し、その操法に精通したならば、素手では歯が立たない事を物語っている。
 これは自動小銃を向けられれば、狙われた者が、幾ら武道の猛者でも、撃ち殺されるという必然的な道理である。

 また、手裏剣などの投擲(とうてき)武器に長じた者が、柔術や空手や拳法の猛者と言えども、これから我が身を護る事は至難の業(わざ)である。投擲武器は間合が長く、制空圏が広範囲となる。組み付いて来る前に、討ち取られて居る。
 一部の大東流の演武会で、演武主役者が、受けになる門弟を投げ伏せ、極め伏せた後に掛け捕ったまま両手を左右に大きく開いて、「見得を切る」場面があるが、あれなどは手裏剣術の立場から言うと、恰好の標的であり、演武主役者が手を叩き、両手を広げた瞬間に、ど真ん中に手裏剣を命中させることが出来る。

 数人の敵を抑えても、更に「何処からでも、いらっしゃい」というそうであるが、本来武術の心得のあるものは、こうした「見得を切る」などの愚かな行為はしないものである。これこそ、「残心」という武術の持つ、基本的な動作を忘れた愚行といえよう。「標的」になるのと、「残心」というのは根本的に異なり、戦闘思想に、わざわざ標的になる馬鹿はいない筈である。全く、軽薄な行為といえよう。

 そして、柔術組み打ちを始めるには、間合の遠い制空圏下では、合気拳法と自称して、徒手空拳を用い、接近戦の組打に近い範囲に入れば、大東流柔術の投げや極めや押さえ技を使おうという試みは見事に破られる。

 これらは一種の早計は発想である。楯(たて)と戈(ほこ)の関係を知らなければならない。徒手空拳格闘術の描く、ロマンの上にロマンを重ねた発想は、同じような立場に在(あ)る者同士や同好者が格闘で決着を着ける試合場の事である。

 だが、戦場と試合場は似ても似つかない。実戦に移した、こうした発想が通用しない事は、戦争を見れば明白である。何故ならば、戦争は個人戦ではないからだ。
 格闘技の100%は、個人戦を想定し、「試合をする」という行為の中で繰り広げられる。ところが戦争は、これ等と大いに異なる。ルールもなければ、審判員も居ず、小数の敵を多敵で袋叩きしても、「卑怯」の類の言葉は発せられないからだ。
 再度、あらためて現象人間界の現実を見るべきである。
これが念頭に入っていないとサバイバルには、生き残れないのである。

●力で押さえる思想の危険

 現象人間界は、何によって動かされているか。
 それは人間の持つ「欲望」であろう。
 人間は有史以来、欲望の渦
(うず)の中に身を投じ、それを満足させる事に執念を燃やして来た。そこには、「支配する側」と「支配される側」の関係があり、この関係を巡って、争いを展開して来たのである。

 民族や王朝、国家や企業と言ったものも、則(すなわ)ち「支配する側」と「支配される側」の関係により、歴史を変化させて来たのである。人間の根底のあるものは、欲望であると言う事が、ここから如実に窺(うかが)えよう。そして人間の追い求める欲望とは、「富の形成」である。あるいは「富の独占」である。

 支配者や権力者は、その地位を保持する為に、それを巡って、あくなき執念を燃やす。一方、被支配者は、その地位や立場の逆転を狙って、反抗の執念を燃やす。この原動力こそ、欲望である。
 民族間や国家間も、欲望の原理で動かされている。

 人類は近代史において、植民地主義や帝国主義を経験し、それが猖獗(しょうけつ)を極めた。近代における富の形成や独占は、資源や食糧、貴金属や工業製品、あるいは労働力や領土などであろう。または、権力という、人の上に立つ君臨欲かも知れない。君臨欲は、他人の上で傍若無人に振舞うことにより、自己の欲望を満足させることが出来るからだ。

 さて、支配者や権力者が潜在的欲望が突出して、既存の支配領域で満足できなくなった場合、長時間掛けて経済的な利益を待つよりは、軍事力を駆使して、相手側から即座に奪い取ると考えたのが、植民地主義や帝国主義であった。
 自らが強力な軍隊を従えて出向いて行って、隣国や弱小国を侵略したり、民族や王朝を征服して、そこから富を得、纂奪
(さんふん)する方法が、非常に効率がよく、最も手っ取り早い方法であった。こうした支配思想が植民地主義や帝国主義であったのである。また、これが、人と人が争う理由である。

 現象人間界では人類が、この争いの中に、有史以来の歴史を刻み込んで来た。何よりも、戦争の歴史は、これを雄弁に物語っている。ある国家が栄え、その国家がやがて衰退して行くのは、自然の摂理である。栄枯盛衰は、まさに自然の摂理に他ならない。こうした栄枯盛衰の自然の摂理の中に人間は生きている。

 だが、近年は、単に人間が栄枯盛衰に生きていると言う「自然体」の摂理は崩されつつある。意図的に企てる仕掛人によって、自然の摂理が崩されているからだ。
 交通網が、より発達し、国家間が接近すれば、そこで一種の主導権争いが派生する。その主導権争いは、統一の宗教、統一の言語、統一の通貨をもって、「世界は一つ」の覇権勢力の中へと導かれ、融合する新世界秩序が形成されて行く。つまり、白人主導型の世界運営である。今日の世界は、紛(まぎ)れもなくこの中に包含されている。

 白人主導型の世界運営は何を指すか。
 ここに存在する思考の原点には、「力は正義なり」という思想が働いている。正しいと言う事は、力の行使によってのみ証明される考え方である。この考え方が、いま人類に定着しつつある。力がなければ、群れは率いられないと言う考えが人類を支配しつつある。これが力関係によって、支配層が決定される要因を生んだ。

 これは、古来、日本人が持っていた天与の資産と称された悠久(ゆうきゅう)の歴史と、深い精神文化を破壊し、科学万能と物質中心主義のみに走る考えへと導いたのである。
 古来より、日本人の持ち続けた心の本質は「善」であった。誰もが「慈しみ」を持ち、他人への哀れみと思いやりを持っていた。平和を願って止まない純粋さを持っていた。こうした天与の美徳は、しかし、今では薄らいでしまった。あるいは廃れてしまった観が強い。

 これにより「浄化された精神性」は、圧倒的な科学万能主義と物質中心主義に押し流され、この流れを食い止める事が出来なくなった。
 誰もが欲望を露
(あらわ)にする。権力者は野望を露にする。野望を滾(たぎ)らせて、自分こそ、全世界に君臨し、支配すべきだと言う勢力に掻き回されている。現代社会は、それに翻弄(ほんろう)され続けている。
 その謀略性は凄
(すさ)まじく、無防備で自覚症状のない、底辺に位置する微生物的な庶民は、これを防ぐ術(すべ)を知らない。そして、あたかも集団催眠術を掛けられたように、あるいは夢遊病者のように、日本人の美徳を放棄し、虎口へと惹(ひ)き寄せられているのが、今日の日本国民の実態である。防備する、サバイバルの意識が低い。

 日本的な、古来からの精神性は薄れ、よき伝統は、アメリカ的なものに作り替えられてしまっている。ただ只管(ひたすら)に、アメリカに追随する思考ばかりが突出している。目先に利益や享楽主義に日常生活の拠(よ)り所を求め、それに浸る快楽主義を、人生だというふうに考えるようになった。

 だが、魂を黄金の奴隸に売り渡すことの見返りとして、精神的にも、肉体的にも、種々の弊害を身に受けるようになった。
 人間は能力に応じて階級化され、機能化される、構成される歯車の一部と成り果てた。これは現代を生きる能率的な生き方であるかも知れないが、実は、体裁のよい、古代とは形を変えた奴隷制度であり、能力の上の者は、頭脳労働をする高級奴隷であり、才能や能力がなく、あるいは能力が認められない者は、肉体を酷使するばかりの低級奴隸の階級に封じられる。人権はあってないようなものだ。しかし、これに自覚症状を感じる者は少ない。
 こうした現代社会こそ、今の現象人間界で繰り返されている現実なのだ。

 それは何処の世界でも同じであり、世の中の物質化は、同時に体力主義の現実を招いた。体力こそ才能だと言う世界を作り出し、その中に現代人は生きているのである。また、豪語者の言には、「体力も才能のうち」という言葉まで作り出された。
 だが、その体力中心主義には、サバイバルの意識が伴わない。体裁のよい、今日の奴隷制度の盲点に気付かないからだ。


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