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技法の根源となる「ただ一つのこと」

■ 人体に「内在する力」 ■
(じんたいに「ないざいするちから」)

●合気二刀剣もぎりの技術と、人体に「内在する力」について

   スポーツライター 宮川修明

 人間の行動原理には、二つのそれぞれ異なった筋肉が存在する。
 その異なった筋肉の遣い分けは、内向と外向によって異なる。つまり外側に向かう力と、内側から出ずる力の違いである。

 一般に力の表現は、「力を出す」とか「力が入る」と表現されるが、力は出すものであって、新たに入るものではない。したがって力は出ると表現する。この「出る力」が人体に内在する力である。こうした力を「内向」といい、これが自身の内側にある「内在する力」である。

 例えば、スポーツや格闘技や競技武道の殆どは、筋力とスピードを養成することを目的にしているため、バーベルや鉄唖鈴などを持って行う筋トレが必要となり、主にこれは表皮の「外筋」を遣う。
 この外筋は表面的には、筋肉モリモリの固い頑強な筋力を養うが、残念ながらこの養成法は年齢と共に衰え、生涯に亙ってこれを肉体に留めることが出来ない。体力の限界、肉体の限界、年齢の限界とは、これに由来するのである。

二刀剣と合気揚げの共通点

▲二刀剣と合気揚げの共通点(クリックで拡大)

 筋肉を固め、しかも表皮筋を俊敏に動かすためには、若い肉体が必要になる。しかしこれは年齢的なものが絡むため、おのずとそこには限界が出てくる。
 一方、大東流合気や内向武術は、表皮部分の外筋ではなく、「内筋」を遣うため、骨格部に近い骨と、その周辺の内筋を遣い、内側に内在する内筋の養成を図ることが出来る。この内筋は、鍛えればその威力は、生涯持ち続けることが出来、これが「内在する力」の実態である。

 古代ギリシア彫刻に出てくるような筋肉隆々の肉体美は、実は外筋を鍛えたものであり、重い物を持ち上げたり、強い弾力のあるチューブなどを引っぱったりして、外筋を養成したものである。
 しかし内筋は、こうした直線動作の単調な養成では養うことが出来ず、これに螺旋運動の捻りが加わって、「末端まで動く」という動作が出来て、内筋が養成されていくのである。物を動かす場合に捻りを加えるか、単調な直線運動を行うかで、遣われる筋肉の養成も異なってくる。

 合気二刀剣における基本鍛練は、手根骨の「もぎり球」の動きの回転に合わせ、木刀の尖先(きっさき)内筋の「螺旋勁」が伝わるように動作させることが肝心である。
 したがって単調な直線に振りかぶり、振り降ろすと言う動きだけでなく、螺旋勁が働くような動きでなければならない。
 この動きは「合気揚げ」の時も同様であり、「もぎり球」を回転させることによって、相手が我が手を握る手根骨の「もぎり球」の回転に合わせて螺旋勁が働き、この内筋を遣った動きの中に、相手の力を無効にする威力が隠されている。

 一般に言われる、「尖先に意識を送る」とか「尖先に気を通す」などの意識の集中は、「もぎり球」とその螺旋勁の捻りに秘密があり、単に直線に突き出しても、そこには相手の剣を跳ね返す意識は発生しない。
 そして合気二刀剣と合気揚げの共通点は、内側から「もぎり球」に伝える螺旋勁が働くからであり、この働きによって、相手は「もぎり球」を掴み、見えない意識によって跳ね返され、操られてしまうのである。
 最初、「もぎり球」は手根骨を基本においてこの修練を開始するが、「螺旋勁」の要領を得れば、次第に肘や肩、腰や膝にも伝えてこれを行うことが出来る。

 さて、両手取りとそれを絡め獲(と)る合気揚げの倒しの業(わざ)は、何らかの共通点を持っている。
 二刀をもって、上段に振りかぶる際、取られた両手首を握らせたまま、「浮かしの起姿」を掛け、次に相手のバランスを崩して、不安定な形に持ち込み、吊り上げて左右孰れかに顛倒(てんとう)させるというのが、合気揚げの一連の動作である。

 正座からの「崩し」において、正座自然体に正対し、攻撃を掛ける方は相手の手頸(てくび)を必死で押さえ、これを揚げさせないようにする。一方、術者はこれを揚げる。これが押さえられた手を解く「手解き」である。合気揚げは、「揚げ」を行いつつ、しかも「もぎり」という特殊な手の形(指を開いた状態の刀印)をもって、相手を揚げ、そして崩すのである。
 この時に働く術者の力は、筋肉などの、外向を意味するものではなく、内側に潜む内向の力であり、その筋肉系は「内筋」である。

 術者が相手を倒す手順としては、思い切り手頸を掴ませ、取らせたままの状態で指に力をみなぎらせる。こうすることによって、取らせた方と、取った方の力関係と対防禦は一体になる。指をパンと開けば、それは取った方の肩口まで伝わる。これが「内筋の働き」である。

 次に、これに追い打ちを掛けて、二刀剣を振りかぶる要領で「吊り揚げ」を行う。
 剣を振りかぶる際、一番容易に動くのは、剣を上段にまでもっていく「肩の動き」である。この肩の動きを「肩球」という。
 これは内筋を動かす時の「要の役割」をする場所であり、合気揚げは腕や肘の力で揚げるのではない。つまりリフトといわれる外筋を駆使して揚げるものではなく、内側の内筋を極限にまで動かして揚げるのが、合気揚げである。

 この時、術者の両手首を握り込んだ相手は、外筋で攻めてくる。それはまず第一が、「腕橈筋」であり、次に「上腕二頭筋」であり、これらの外筋を補助するものとして、「三角筋」や「活頸筋」が働く。そして力自慢の者は、握力に物を言わせ、揚げの両手封じの止めで、「大胸筋」を遣って止めを刺し、押さえ込もうとする。これらは孰れも「力」の代名詞である外筋である。この外筋によって、人間は肉体美を形成している。
 また、こうした力自慢に押さえ込まれれば、素人は為(な)す術(すべ)もない筈である。

 ところが、これに対抗する「業」(術)が存在する。
 それが「内筋」を巧妙に駆使する「術」である。この術を遣うから、合気揚げにおいて、これを掛ける者を「術者」という。
 術者とは「術に長じた者」の意味である。

 また術者は、普段人間が用いる力の源泉を知り、筋肉の種類を知っている。多くは外筋によって動かされている。そして格闘技で遣う筋肉も、大方は外筋によって闘われる。
 こうした外筋によって、力自慢が手頸を強く掴めば掴むほど、術者は相手を手玉に取りやすい。
 それは握った部分の支点が、上方に移動さやすいからだ。そして、ついにはバランスを失い、吊り上げられて、顛倒してしまう。
 この基本的な合気揚げを十分に鍛練することで、次は腕とか、肩とか、胸などを取らせて、合気揚げの要領で相手を顛倒させることが出来るのだ。

 合気に掛かれば、攻撃した方は宙吊り状態となる。特に掴んで来た場合、この状態に陥りやすい。
 例えば、術者の座っている座布団とか、椅子などの、孰れかの部分を握り、柔躙するという攻め方で、術者の誘いに乗ると、術者から宙吊り状態にさせられるというのが合気の特徴である。相手を自分の土俵に誘い込む、一種の手段である。

 術者の手頸を掴むという行為は、傍から観ていれば、離せばいいもののと思うようであるが、術に掛かっている本人は離せば落下するような錯覚に陥り、離すことが出来ないのである。
 そして落下するのが厭ならば、握り締めて宙吊りになる以外ない、と思い始める。こうして動きが封じられた時に、何らかの「踏み」や「止め」の業を掛けられれば、それを強烈な意識で感受してしまい、一瞬「死ぬのではないか」というような強烈なイメージを受けるのである。

 某かの武道やスポーツ格闘技をやっていて、大東流の術者の誘いに乗って、蹴る、殴る、打ち据える、手を掴む、四つに組むなどをして、業に掛けられる場合、こうした誘いの術中にはまっていることが多い。
 例えばそれは、「点穴・胸中」(大東流点穴用語)などを指一本で押さえられても、ここは「呼吸停止のツボ」であるから、ここを押さえられれば、一瞬息ができなくなる。
 また、肘と肩のほぼ中間にある「点穴・青井」を踏まれれば、その激痛は腕や肘ばかりでなく、頸まで激痛が走り、呼吸が出来なくなるような息苦しさを覚える。

 また、こうした基本合気を遣った鍛練法に、「吊り」の業がある。
 吊りの業は、両手封じの手解きである。「揚げ」と「手解き」を十分に鍛練することで、相手が崩れるのが確認できる。手解きは合気揚げの意味からすると、掴まれた手頸を抜くための儀法であるが、単に「抜き手」を遣うのではなく、「抜き手儀法」を用いつつ、その一連の動作の中で、崩れる瞬間がある。

 吊りの儀法(ぎほう)は、こうした崩れる瞬間に技を掛ける「手解き」の一種であり、「手解きの残体」を利用する。相手が両手を封じてきた時、その力に任せて十分に攻めさせる。次に「肩球」を遣って肩を動かし、回転させると、相手はそれによって浮き上がる。いわゆる、これが「宙吊り」である。
 こうして宙吊りにしておいて、相手が術者の手を持ち切れなくなると、体勢が崩れて顛倒するのである。

 宙吊りの儀法を鍛練すると、相手の動きを封じる「先手の掛け獲り」が自在となる。
 その儀法は、種明かしをすれば、術者は相手に力一杯わが手頸を掴ませる。この時、力一杯であればある程、掛かりやすい。
 逆に、力一杯掴まず、肘や腕や肩などの部分だけに力を入れて掴んだ場合、抜き手は容易に行われてしまい、手解きと合気揚げは連動させることが出来ないから、とにかく力一杯握らせることである。力ませる程よい。

 また、握られた後、相手の力を吸収することが大事である。そして何よりも力んで、力で力に対抗しないことだ。もはやこうなれば、外筋どうしの競い合いになるからである。外筋どうしの競い合いであれば、当然外筋力の強い方が勝ってしまうからである。したがって十分に掴ませ、逆らわず、内筋から、相手とは違う部分から力を出すことだ。

 こうして上肢だけを遣って、十分に鍛練するとその作用の程が、徐々に理解できてくる。
 この作用を一連の動きで観察すると、その「先手の掛け獲り」は相手の手から肘、肘から肩へと上肢に移動し、更には外筋の「三角筋」や「活頸筋」や「大胸筋」に働くことが分かるようになる。
 そして次に、「側鋸筋」や「外科腹筋」へと伝染する。こうした伝染する流れを追うと、胸部、背筋部、腹部へと移行していくのが分かるであろう。

 この伝染において、イメージすることは、それぞれの移行上の伝染の流れを追うことである。
 術者は自分の発した内筋の捻りが相手に徐々に伝わり、次に伝染して、その目的の部位に、自身の内筋力の螺旋形の動きをともなって伝播する集中力を駆使することが肝心である。
 そしてその集中力が、相手に作用し、相手が頑張っても、最終的には「崩れてしまう」という境地に持っていくことなのだ。

 その合気揚げの秘訣が、二刀剣には隠れている。

 二刀剣は単に、同じ長さの二刀をもって、上下に素振るだけの動作でない。
 剣を振り上げ、素振るということは、その動きが、剣を握った自身の手、肘、腕、肩と至り、その軌跡が円運動をしていることが分かる。特に肩は回転する。この肩の回転が「肩球」の働きなのである。そしてこの働きが相手への「崩し」となる。

 さて、「崩し」という言葉は、柔道でもよく遣われる。
 しかし大東流の肩球による回転の働きと、柔道での外筋の力による強引な崩しとは違う。

 柔道は、まずスピーディーな体の移動と、腕の外筋力が必要である。力のぶつかり合いが生じ、襟と袖の掴み合いの先手攻撃が始まるから、特に相手を引き寄せるには、「上腕二頭筋」が対峙する腕力が相手以上に勝っていなければならない訳で、この強化は、バーベルを持ち上げたり、鉄唖鈴を握っての上下の反復をしたり、チューブなどを引っぱって引き付けの反復練習をする以外ない。いわゆる苛酷な筋トレである。
 しかしこの筋トレは、齢を取った人や、虚弱体質者には苛酷な運動となり、かえって今以上に身体を痛め、健康を損ねることになりやすい。

 ところが内筋を遣えば、こうした無理な外筋を鍛えるハード・トレーニングの必要がなくなる。
 「先手の掛け獲り」においても、柔道の場合は、相手の身体の移動を先手取り争いにおいて、動きを一瞬止める。この一瞬の「止め」は、身体の動きが止まるばかりでなく、今まで吐納していた呼吸も一瞬止まるのである。

 つまり、一瞬ではあるが吐納が停止され、「力んだ状態」となる。気合いを掛ける時機も、「エィー!」と掛けた直後、呼吸は「吐く息」から「止まる息」になってしまう。
 実は、気合いの正体は「止まる息」であり、「力んだ状態」であり、呼吸の吐納が逆になった状態なのである。人間の意識は、力めば「強いと錯覚」するのである。

 呼吸を一瞬止め、相手の自由を奪おうとして、外筋力で制した場合、それは外筋力を鍛えた者の方が有利であり、年寄りよりは若者が有利となる。
 柔道を始めとして、相撲、フルコン空手、レスリング、ボクシングなどの格闘技の選手は、若者主体であり、七十・八十の愛好者が現役のレスラーであったり、相撲取であったりするということは、現実には殆どありえない。
 これは肉体力における、外筋トレーニングに、おのずと限界があるからなのである。

 したがって同じ崩すにしても、合気揚げの方法で行えば、その力の伝播は、上肢(手頸・肘・肩)を動かす(螺旋形をとる回転)ことにより、わが内筋力は相手の各関節へと伝染させることが出来る。
 また動きの伝播と、螺旋形に捻る内筋の伝染力は、やがて相手の関節部を攻め、わが集中力をもって、相手を制する自己表現が可能になる。
 その秘密は「肩球」にある。

合気揚げと肩球の関係

▲合気揚げと肩球の関係(クリックで拡大)

 肩の一瞬の回転と、一瞬の浮かしによって、相手を自在に顛倒させることが出来るのである。(詳細は口伝であり、宗家のお許しがないのでこれにとどめる)

 肩はバーベルや鉄唖鈴で外筋を強化しなくても動くものである。前後に動き、上下に動き、そして回転もし、時には螺旋形の軌跡を辿ることも出来る。また肩を前に寄せることも出来るし、回転させつつ、背に開くことも出来る。この「動き」が分かれば、縦に回転することも自在である。
 その縦の回転が、「合気二刀剣」には隠れているのである。

 人間は齢を取るものである。歳を重ねるごとに老化するものである。そして確実に死に向かっている。
 いつまでも若くはない。肉体に留める外筋を甘く観ないが、齢を取ってからの外筋は、それほど役に立つとは思えない。

 また、いつまでも若い肉体を自分の裡(うち)に留めておくことはできない。人間の魂が、その人に行動原理を指令しているのであるから、その行動原理は肉から発するものではなく、内側からの、魂から発するものでなければならない。
 すなわち、魂の内側から発するもの。それが自己に内在された「真の力」であり、内筋によってもたらされる「内在する力」なのである。


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