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合氣語録・サンプル ■
(あいきごろく・さんぷる)

【「合氣語録」の本文より】

●『合気之術』に代わって

 今まで『合気之術』を長年掲載してきたが、多くの読者の要望に応じて、今度は具体的に「合気とは何か」ということに迫ってみたいと思う。

 さて「合気」であるが、これは非常に表現の難しい「武術」である。そしてこれを書いている私自身、まだ「合気」は完成途中であり、また修行半ばであり、先代の山下芳衛先生のように、自由自在に合気を何人にも掛ける事ができるまでに至っていない。まだまだ未完成であり、しかしこの事柄を毎日考え続け、研究に研究を重ねていることは事実である。

 しかしその真相究明に関しては遅々として進まず、だからといって諦めるわけではなく、ただ真剣に、ひたすら真摯にこの難解な技術と取り組んでいる。読者諸氏に繰り返すが、難解な術である事は確かだ。

 私が道場を開いたのは十八歳の頃であり、昭和三十年代後半から四十年の初頭には既に50人の弟子がいた。そして大学一年当時、北九州市八幡東区春の町の豊山八幡神社の境内に道場を構えた。この時期から考えればもう既に、三十五年程の月日が流れ、私の指導を受けた門人は3500名以上に達している。しかしこの当時から現在残っているのは一人もなく、また初段補以上の有段者も500人ほど送出してきたが、誰一人として「合気」を会得したものはいなかった。

 多くは大東流の形だけを研究して、その形を「大東流」と思っているものも少なくなかった。また当時、各大学にも指導に出向いていたが、クラブ活動で大東流の部や同好会を主催する大学生の殆どは、当時流行していた合氣道の演武形式を真似て、約束だけによる「受け」と「取り」を決め、その約束の範囲で間違いなくこれを熟し、武術の何たるかを忘れ、演武パフォーマンスに汗を流すという状態だった。そしてこうした大学の部員達は次々に、合氣道の全国組織に見せられ、私の大東流から離れて、合氣道へと転向して行った。

 彼等の多くは、地味な日々の集積である「修行」という観念を軽視し、派手なものを好み、スティーブン・セガール並みの派手な合氣道アクションを目指して、他に乗り換えて行った。

 また一部には、造反が起こり、集団で私に脱退を伝え、対峙した勢力もあった。
 しかしこうした彼等は、全く合気の何たるかを知らず、ただ柔術百十八箇条を蒐集するコレクターに過ぎなかった。そして合気は全く解っていなかった。彼等の考える合気とは、柔術百十八箇条イコール合気だったのである。

 これは大東流や合氣道に限らず、柔術系統の武道や体術系統の格闘技は、一般に演武パフォーマンスを演じる事でその存在感を示し、これを日本の伝統美と称して、古流の古に回帰する事をその普及の第一目的に掲げている。これはこれで、局面においてはそれなりに存在感があるとは思うが、彼等は肝腎な武術という次元のものを忘れるか、あるいは放棄している。

 したがって内在する合気という難解な技術より、表面的で、表皮的で、目に訴える形のあるもののみを追求する現代の風潮が生まれた。しかしこうしたものは、武術的な立場から見れば、所詮「張子の虎」であり、虚仮威しの何ものでもない。こういう類のものと、護身術を混同する事は大変危険なことである。

 またこうした次元で古流武術を研究している人は、二十年やっていようと入門して一年程度の人であろうと、力の差においては殆ど変わりなく、先輩後輩というだけであり、あるいは子弟関係においても、その武術的実力はあまり大差がない場合が多い。

 演武パフォーマンスを演じる演武形式の武道種目にはこうした子弟関係が多く、互いの協力関係において、飛んだり、投げられたり、抑えられたりしている。したがって武術の言うところの「合気」ではなく、またこれに近づく努力もしていないというのが実情である。これは大東流の愛好者や研究者にも言える。彼等は柔術百十八箇条や御信用之手などの時代遅れの骨董品の蒐集家であり、真剣に「合気とは何か」ということを模索したり、その研究には取り組まないというのが実情で、基本的には合気への鍛練である重い木剣の素振りや、山稽古という足腰を鍛える訓練をしていない。

 またこの修行にとって欠かせない、「動中に静を求める」ことや長時間の静坐によって「起姿の瞬間」を学ぶことを怠り、合気の汐時で最も大切といわれる「静中に動」の内在的技術を蔑ろにしている。
 こうした眼には見えない部分を放棄して、自分の愛好している流派が、流祖の武勇伝に準えて最強と信じているのであるから、これほど護身術として役に立たないものはない。

●実戦で戦って負けない「術」とは何か

 私は、父に連れられて初めて山下道場を訪れたのは三歳の時(昭和二十六年の春頃)であった。それから数えると、もう五十年以上もこの武術に取り組んでいる事になる。

 しかしそれでも解らない事が多く、この武術の奥儀は無限に広がっており、先が見通せないくらい奥が深い。それなるが故に、難解なものへの挑戦への闘志が湧く。

 人間は死ぬまで修行だと思う。これで完成という段階が無い以上、人間は不完全なるが故に死ぬまでが修行であり、そして人生とは一言で云って「戦い」であると思っている。

 この戦いとは、二種類の敵に対して戦う事を意味する。一つは外の敵で、自分より強い相手に挑戦してこれを打ち破る事であり、もう一つは内の敵で、自分の心に棲む「自分」という、自分自身との戦いである。そして一番難しいのは自分自身との戦いであり、己の裡側に居る自分の魂と戦う事こそ容易ではないのである。容易ではないからこそ、古人は「闘魂」と云う言葉をつけその裡側の魂と戦った。しかし、その内面的に存在するこの魂は、心を鍛えていかない以上勝つ事が出来ず、克服して、一線を乗り越える事は到底不可能である。

 私はそして、この修行と、戦いの中に真当の「合気」があるのではないかという信念で、日夜模索し、研究し続けているのである。

 合気は、幕末以降多くに武人達によって研究されてきたが、真当の合気の域に到達しえた人は意外と少ない。それはその修行法が徹底的に隠され、秘密にされてきたからである。

 しかし一方で、この「合気」という武術は「秘密」であるからこれが「切り札」となって、肉体を中心として格闘する他武道を引き離していると思う。
 「大東流」はマイナーな武道雑誌等に掲載されて、その流名こそ有名になったが、未だにその奥伝部分は大衆化されず、密かに秘密主義を第一としている。この奥儀に辿り着いた少数の先覚者達は、決して一般に公開する事はなかった。一般大衆の知らない事、常識では考えられない事、奇想天外な発想で辿り着いた「肉体以外の何か」を会得する事が出来たからこそ、それが「切り札」となりえた。そして他に研究の機会を与えず、徹底的に隠し通した。

 大東流は複数の研究者によって研究と改良が繰り返され、次第に原始的な柔術の技法から離脱して洗練された得意な柔術体系を構築したが、その根底には「秘密」という事が原則となっていた。敵に知られ、研究されれば敗れる事になるからだ。故に「御留流」の異名を取った。御留流とは「教えない」「見せない」「修行をしていると悟らせない」という独自の秘密主義がその思想の根底に流れている。だからここに「強さ」の秘訣があった。これはまた、秘密主義に再び回帰するのである。

 そして「肉体以外の何か」とは、筋力とスピード以外の「何か……」という事であり、この「何か」がつまり「合気」である。 しかし多くの人は「合気」と言えば「合氣道」を想像し、「合気とは『気の力』ではないのか……?」というような安易な結論に到る。だが合気は「気の力」ではない。
 人体に流れる気は、直接人体の外に、外圧的な力となって、他人に関与する事がないからだ。

 私は長年の武術の研究によって、合気は「気の力」などでは決してないという結論に達したのである。私自身最初は、合気とは気が関与しているという神秘的なオカルティズムで大東流を研究していたが、今日ではこれが間違いであると言う事に気付き、それが自分自身の躰に内包された、もう一つの機能であるという事を発見したのである。

●合気は自身の躰の中に内包されたテクノロジーである

 私がこれを最初に発展した時は、まさに「断食中」であった。今から十年前の平成三、四年当時、私の体重は105kgであった。身長が170cmそこそこであれば、この105kgという体重は異常であり、ウエストも120cmであった。

 元来の酒好きの私は、毎日20本入の麦酒一箱の大罎(760ml)を僅か一日で空け、それでも足らないので、焼酎を一升飲み、他にウイスキーやブランディーをストレートで呷って、やっと落ち着いた頃に、「さあ、それではそろそろ店終いでもするか」という独り言を呟きながら、家ではこれで「おしまい」であり、これからが本番というので、飲みに出歩く始末であった。

 飲み屋の支払も、一週間で三十万円も四十万円も支払っていた。またこうした不摂生な為体が、平成バブル崩壊と伴に会社を潰す原因になったのであるが、肉体的にも多くの欠陥を背追い込んでいた。こうした不摂生が祟って、寒い冬には鼻血を出すという状態が続き、病院に行って血圧を計ると、何と、240もあり、死の一歩手前であった。

 しかし当時、こうした不摂生を治す術は知らず、医者からは「まず、酒を慎むように」という投げ槍な忠告だけであった。医者は、私のような男に一々厳重注意したところで改めるような人間ではないと踏んだのであろう。

 こうした時、私は一冊の断食の本に行き当たったのである。
 この内容は長いので省くが、この本によれば、「人体には医者が棲んでいる」という内容の事が細かく書かれ、「断食を二十日続ければ今抱えている病気の半分は完治し、十年若返る」と書かれていた。確か、この著者は既に死んでしまった明治生まれの老医師であったと思う。

 この老医師は、自分の出身は西洋医学の最先端を当時勉強しつつ、結局西洋医学では病気が治せず、西洋医学に極めて有効なのは交通事故などによって緊急を要する手術並びにその科学的データによる臨床実験の検査方法であり、慢性病にはこうした西洋医学は極めて効果が薄く、ご自身は「禅と断食」によって、「新たな人体修養法」を発見したと書かれていた。

 この時、私は「新たな人体修養法」という言葉に異様に惹かれたのであった。「合気」という語源と重なったからである。今まで肉体を苛め、そして鍛えたが、それは、多くは力による強引な崩しや、掛け時のタイミングによる物理的な崩しであったからだ。

 こうした私自身の新たな転換が自身に訪れ、実際に自分で苦しい断食をやってみて、今までの一つ一つに思い当たることがあり、まずこれから改めねばという事で、断食をやったのが、合気への最初の取組であった。

 そしてこれで学んだことは、柔道のように、体力と筋力とスピードによって行う崩しと、合気のようにこれらを一切遣わず、己自身の内包的な「技術」で、相手を自滅する方向へ追い込む、つまり「術」とは全く違う、という事を発見したのである。

 そしてその「強さ」は、肉体を苛め、それを鍛えたからといってそれが直接強さに繋がるものではない。この強さは「長年やる」ことがこの強さの秘訣であり、肉体練習はしていなくても日々研究することである。

 私が此処で言う肉体練習とは、西洋式の筋トレ法で、重いバーベルを持ち上げたり、大胸筋運動をしたり、鉄唖鈴を数百回も数千回も動かし続けることではない。こうしてボディービルダーのような、後天的にあるいは人工的に作り上げた肉体美は「永遠」のものでないからだ。人間は齢をとる。齢をとりながら、逆三角形の体型は或る程度維持できたとしても、その鍛えた筋肉とスピードを内包した即席の人工肉は、単に骨を一時期だけ覆う物質に過ぎないからだ。これは一種の贅肉であり、豚や牛のそれと何ら変わりがないのである。

 したがって鍛えるのは心と躰であり、筋肉に付随する器官の養成ではない。殊に初心者は躰を鍛えるという事は非常に大事なことである。しかし往々にして間違いを冒すのは、「躰を鍛える」と言う事を「肉体を鍛える」という事に取り違えてしまうことである。

 私が此処で言う「躰を鍛える」という事は、躰そのものを鍛えるということである。当然内臓も健全であり、頑強でなければならず、その頭脳すら健全である事は言うまでもない。手足はよく動き、膝は長時間の静坐にも耐えられ、寒さ暑さに影響されず、寒さにあっても、また、暑さの中でも頭脳は健全に働き、よく考える事が出来、特に階段を登り降りする膝関節と股関節は常に衰えないように鍛えておかなければならない。

 また長時間歩く事も大事である。こうした事を昔は「山行」あるいは「山稽古」と言った。しかし今日、こうした稽古は軽視され、試合中心の格闘技が普及しているため、人間にとって大切なこうした重要な躰を鍛える要素が抜け落ちて、ただ矢鱈に肉体を酷使し、苛めれば強くなれると誤解しているスポーツ選手も少なくない。肉体を苛め過ぎれば何事も逆効果で、ただ老化を早めるだけである。そして現代人が早熟で、異常性欲状態に陥るのは、血液を汚染させる肉食が大きな原因であることを忘れてはならない。

 肉食を好めば、その思考法も野獣的になり、好戦的で傲慢な、歪んだ人格ができ上がってしまう。スポーツ格闘技家や、乱取り上手の柔道家や、組手を主体とする空手家らが一種独特の傲慢性を持ち、挑戦的なで高圧なものの言い方をするのは、食肉による食の乱れによる影響である。そして彼等の多くはスキャンダルも人一倍多い。

●武術修行は西洋スポーツとは逆の下半身が主、上半身が従

 さて私は、この武術の修行以来、足腰を鍛える事を重要視する運動を中心に、それに枝葉をつける形で下半身の安定を「主」、上半身の業を「従」において稽古してきた。つまり大東流の業を幾ら覚えていても、結局実戦には何も役に立たないという事実を痛い程知っているからだ。

 そして足、腰、膝の鍛練は極めて重要である。
 人間がその行動の中で、危険を回避する最小単位は上半身による頭部や内臓の保護であり、特に修行に不慣れな素人の場合、両手・両腕で頭部をカバーしたり腹部を保護しようとする。しかしこうした防禦法では完全に危険を回避することはできない。

 下半身が動いてこないからである。頭上から降り掛かる落下物や、連打で襲う拳や蹴りを両手・両腕でカバーしても、結局下半身が止まったままでは被害を大きくしてしまい、危険回避の主体は下半身であるという事が分かる。
 喩えば素人が、口論から喧嘩に発展する最初の攻撃ならびに防禦は両手・両腕であり、まず上半身による攻防戦が主体となる。人間は防衛本能から、まず「手が出る」のである。

 しかしこうした攻防戦は、愚かな正攻法であるため、両者とも体格ならびに体力が互角である場合、あるいは伎倆が互角である場合、双方は50%ずつの被害を受け、決定的な勝ちを修めることはできない。この結果は、上半身で戦ったという結果に導き出されるもので、仮に蹴技を加えたとしても結果は同じ様なものになる。これは足、腰、膝の鍛練ができていないからである。

 こうしたことは素人同士の喧嘩に限らず、長年大東流や合氣道や八光流などをやった人も同様であり、下半身の養成ができていない人は悲劇的な結果を招く場合がある。したがって下半身を養成した上で、合気の習得が必要不可欠となるのである。

 大東流の、複雑に絡み付く高級技法すら、結局「合気」ができなければ敵に対して業すら掛ける事ができず、喩えば「四方投げ」一つ上げても、これを喧嘩に用いて遣うという事は極めて困難な事である。幾ら大東流の修行をしていても、こうした局面に遭遇すると、まず先に飛び出すのは大東流の高級技法などではなく、手であり足である。

 何故ならば、人間の防衛本能として最初に飛び出してくるのはこうした直線運動を中心にした、単純で素朴な、然も効果的な二次元においての殴り合いであり、後は噛みつくなどの動物的行動が出るものであり、こうした最短距離を通る直線運動を無視して、複雑極まる螺旋運動を行うというような馬鹿は居ない筈である。そして円運動然りである。

 こうした螺旋や円の軌跡は、「合気」を習得し、それが備わって以降のことであり、最初からこうした螺旋や円運動ばかりを中心に稽古するとその動きに慣れてしまい、単純明快な行動がとれなくなり、また動きも制約されて無慙に敗れる事になる。ここに自在性を失った「円運動のこだわり」が露出してしまうのである。

 大東流における、喩えば「小手捻り」(手首関節の手根骨を攻める技法で、大東流では「猫之手」という)一つ挙げても、合氣道で行う小手捻りとは次元が異なるものである。大東流ならびに合氣道においての基本的な小手捻りは、掛ける相手の肘と手首を「くの字」にして折曲げ、これを固める技法であるが、上級者になるとこうした基本に則した螺旋の軌跡を動く動きは行わず、最も短い最短距離を通り、然も素早い行動線を通る直線方向に攻める掛業となる。

 即ち、手首や肘を「くの字」に折らず直接直線方向に攻めて、一瞬にして固め取ってしまうのである。つまり巧妙に、複雑に螺旋運動をするより、直線の方が早いのである。したがって合気は一瞬にして決まるのである。

 大東流のコレクターが、多くの高級技法を蒐集するこれ等の技法は、結局合気なしでは掛け取れないものであり、第一掛け捕る迄の間、相手は何も反撃せず、術者の意の儘に誘導されて、全く抵抗しないのだろうか。
 こういう戦いでの心理状態を考えた場合、相手も必死に逃れるとするので、やはり抵抗し、固めから逃れようと藻掻くのである。こうした藻掻く相手に大東流や合氣道の技を掛けることは、極めて至難の技であるということが分かるであろう。

 したがってこうした藻掻く相手に「力貫」を施すことが肝心であり、一切の抵抗を無効にすることができなければ高級技法は遣えないのである。

●健康な躰と丈夫な躰の違い

 多くの人は、健康な躰を最も理想とし、これが一番であると表する。しかし武術家にとって、単に躰が健康であるということだけでは何の意味もない。武術家の体躯にとって重要なことは、「健康である」ということよりも、「丈夫である」ということが最も重要な課題となるのである。
 つまり躰を鍛えるということは、長時間、何事にも耐えられる耐久力や持久力を言うのである。

 しかし昨今に流行しているスポーツや格闘技は、瞬発的な力を養成するだけで、長時間、物事に対峙する真摯な姿勢を失わせてしまった。
 多くのこうしたスポーツ形式を採用する武道や格闘技は、一種の観戦スポーツであり、観客存っての試合であり、観客がいなければ試合などは成立しないことになる。そして観客に技を「魅せる」という試合展開を進行させるため、時間を制限して、勝ち負けがはっきりしていて、瞬発的に技が決まることを最も「良し」とするのである。

 したがって試合中と、普段の体躯状態に大きな落差ができ、長時間の緊張が続かない「スポーツ依存症」に陥っている。つまり二重人格的な実態が現われてくるということである。試合をする選手と、試合をせずにくつろいでいる選手とは同一人物でありながら、二重人格的な側面を持ち、武道家でありながら試合での英雄の側面と、私生活でのスキャンダラスな側面を同時に併せ持つことになる。格闘技選手やスポーツマンと称される人達の中に、異性関係で週刊誌を騒がせるのはこうした二重人格的な側面が暴露されるからである。

 こ れを別の側面から評すると、「動」と「静」の不一致ということになるであろう。「動」とはスポーツをする運動の側面と、「静」というスポーツをしていない時の側面である。スポーツマンは往々にしてこの両者がアンバランスである。

 健康と思われる体躯でスポーツをし、しかし一方で丈夫な躰を維持できない側面が実在する。手首、肘、腰、膝、足首などの故障がこれである。
 丈夫な躰というのは、勿論健康体の上に組み立てられるものであるが、躰が丈夫というのは、精神的に鍛えられた躰のこのであり、長時間何事にも耐えられるということである。

 さて、人間の行動には「静」と「動」がある。概ね西洋スポーツは「動」で構築された肉体鍛練法で、「静」は殆ど無視されたまま、動物的な躍動のみを相手にする競技である。つまり躰で表現するアクションのみが相手にされるだけであって、その体内に宿る内面的な部分は全く相手にされないのである。
 しかし武術は「静」を「動」と同じくらい、あるいはそれ以上に大事にする、心身ともに養う武技である。つまりこの「静の部分」が躰の丈夫さということになる。

 曾て私は、先師(初代宗家の山下芳衛先生のことをこう呼ぶ)より、蒙満の民(蒙古人と満洲人を総称であり、一部の漢民族が含まれる)の先天的な躰の丈夫さを聞いた事がある。
 先師の話によると、「蒙満人は暑さや寒さに対して異常な強さを持っている」ということであった。

 「日中戦争当時、冬季(旧日本陸軍の冬期特別調査)に田舎を旅(当時先師は特務機関の将校だった)すると、家々(百姓家)の土塀の陽溜まりで小さな子供が数人で遊んでいる。しかしその子供達は陽が傾き、陽溜まりが移動しても元の場所の陰になって、寒い場所に居て、寒気が襲ってきてもまだ同じ位置で遊び続けていた。こうした光景を見た時、何という忍耐力、そして恐るべき体力だと思った。全く平気なのである。日本人ならば、ちょうっと頭を使っただけで日向へ移動することを考えるが、奴等はそれをしない。暖かい場所が直ぐ横にあるのに、そんな場所には頓着せず、喜々として不相分遊んでいる。また、砂漠の猛暑に焼け付くような酷暑にあっても、日本人や欧米人が額から脂汗を流し酷くされている時でも、蒙満人は粗衣粗食に徹し、低度の生活に甘んじているにもかかわらず、人力車を曳き、それも汗を殆どかかずに平気で、然も悠々と余力を残して走り続けている。ここに蒙満人の本当の恐ろしさがある」(日本人には到底真似できないと思ったのであろう)と表したのである。

 そして後に続けた言葉が、「この恐ろしさは、最下級の百姓に限らず、上流階級に至っても同じ頑健さがあり、日本人が大陸に進出して、奴等を牛耳ろうとしても所詮無理な話であった。揚子江や黄河を制御する奴等に、たかが島国の日本人が『日本民族の大陸発展政策』と称して乗り込んで行ったところでどうなるものでもない。戦えば、必ず奴等に敗れるのがオチであった。日本人の思い上がりも甚だしい……」(当時の北進策の日中戦争の愚を吐露した)と、溜息混じりにぽつりぽつり話したことを憶えている。

 いわゆる「丈夫」ということはこうした頑健さを指し、そこに忍耐力と、恐るべき体力と、最低限の生活に甘んじながらもそれに平気で耐えられる、粗衣粗食の彼等の生活スタイルそのものなのである。これが中国五千年(一説には四千年というが……)の歴史の中で、太古より基本となって大陸人特有の体躯を形成してきたものと考えられる。つまりこれこそが「静」の実態である。

 当時の日本(大正二三年から昭和五年頃で、大陸で馬賊が活躍していた時期)では「五族共栄」や「五族協和」が叫ばれた時代である。そしてその「五族」とは、当時の中国推定人口のうち、約三億三千万人あるいは四億四千万人と称される住民以外の、漢族、満洲族、蒙古族、トルコ族、チベット族らの共栄であり協和であって、清朝の「五色旗」はこれらの五族を表わしたものであった。しかしこうした彼等を、当時の日本人たちは「支那人」と呼び、一種の、恐るべき畏敬の念をこめてこう呼んだのであるが、その実は、彼等こそ恐るべき民族であり、また頑強な体躯の持ち主であった「蒙満人」であったのである。

 そして彼等が、日常旨としたことは、粗衣であり、粗食であり、簡素で、然も単純な生活の繰り返しであり、こうした体躯と大自然が結び付いた時、そこには元来の健康に加えて、更に頑強になるという一面が加えられるのである。

 こうして考えていくと、彼等の恐るべき体力の根底を形成している裏側には「貧しさ」というものがあり、この「貧しい時代」を体験してきた先祖の遺伝子には恐るべき力が秘められていて、日本人には無い一面と、想像を絶する、然もそれに付随する体力的・体格的特徴を持っているのである。

 現に、支那人と呼ばれる彼等の体躯には、膝の関節部の半月盤の裏側に、同じ蒙古型でありながら、日本人には無い「薄皮一枚」が先天的に内蔵されていて、「静」の一面を垣間見ると、特に中国拳法における「大架式」の「チーシ」という沈む動作や、「這い」という地面すれすれに、腰の高さを一定にして移動する運動を長時間できるような体躯が備わっている。

 しかし日本人はこれが無いため、こうした動作を長時間行うと、じわじわと重い負荷が掛かり、十年、十五年という単位で膝や腰を損傷してしまうのである。日本人は、こうした動作をやればやるほど、重い負荷を担うのであるが、蒙満人はますます頑強になり、恐るべき拳法の遣い手のなるのである。揚子江や黄河が彼等のものであるのと同様、中国拳法や擒拿術が、彼等独特の所有する無形の財産であり、日本人がこれを真似しても、到底及ぶところではない。

 さて、「丈夫な躰」とは、以上説明したものを指すのであるが、「恐るべき体力」とは、動的なものの中には視ることができず、寧ろ、静的な、内在的な部分にその恐るべき頑強さを包含しているといえるのである。

 曾て大陸文化を吸収した日本人は、これを日本人に合うように国風化し、日本独特の国風文化を作り上げた。日本における武技も、こうした大陸の影響が少なくない。しかし日本人の特徴は、良いものと悪いものを選別する、あるいは向くものと向かないものを識別する特異な能力を有していたため、良いものは取り入れて、やがて日本独特の「特異な武技」を構築して行った。

 日本における武技の始まりは、愛洲移香斎の影流であるといわれ、剣術は同時に柔術をも表裏一体の技法をなした。そして柔術は極めて大陸の擒拿術を手本にしたとも言われる。更に、「刀」の原形は「剣」である。全て大陸のものだ。しかし日本に渡来して、日本人に適合した武器が改良され、術が編み出された。

 その中でも「やわら」と称され、極秘の裡に編み出された「合気」は、発想的にも、術理的にも、極めて稀で、「静」の修行の集大成といえる。
 静は内蔵されているために、表面には見えない。また、内蔵されたものを鍛練するためには、丈夫な躰が必要になる。つまり持久力があり、耐久力がある体躯だ。長時間静坐をし、あるいは暑さ寒さの中でじっとして耐える能力である。

 私はこうした丈夫な躰をつくるために、若い頃から周天法を訓練し、それを今日まで欠かさず練り上げてきた。私が周天法に目を付けたのは、内蔵エネルギーを養成し、それを蓄える事が出来ると考えたからで、ある非常に寒い日、室内には暖房器具がなかったため、その寒さを凌ぐためにそれを始めたのであった。当時はそれが周天法であると言うことを知らず、必要に迫られてのことであった。いわゆる「貧しかった」ためである。

 こうしたことがある意味で周天法会得に繋がったのである。これがある程度会得できると、夏は冷房なしでも耐えられ、冬は暖房なしでも耐えられる体躯ができ上がる。また長時間静坐をする訓練もしたし、剣の素振りの一万回、二万回と一日のうちに繰り返したし、四股立ちで頭の上に水の入った茶碗を載せて一日頑張ったこともあるし、兎飛びは一〇キロ連続で飛び回ったこともある。飲まず食わずで、三日間山の中を歩き通したこともある。

 また、粗衣に徹したため、薄着で寒い冬を越冬したこともある。九死に一生を得る修行を経験したのだ。まあ、私など、強靭な、先天的な支那人の体躯には及ばないであろうが、ある一面でこれらは全て、今日の現代人には持たないものである。

 躰が丈夫とは、単に健康であるということではない。恐るべき忍耐力を指すのである。


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