会員の声と相談者の質問回答集11




運命は改善できないのでしょうか (38歳 女性 会員 会社役員)

 七年前、三歳うえの兄(一部上場企業を脱サラ)と出資して、食品の配送会社を始めました。会社は一時波に乗って順調を極め、僅か四人で始めた有限会社でしたが、今では従業員200人をこえる株式会社へと発展しました。これも偏に、兄と二人で知恵を絞り、管理体制の万全を期した配送システムが功を奏した為だと思っていります。そしてかねてより、兄の念願であった青年商工会議所や「漁り火会」の会員にもなれ、人脈も増えました。

 ところが最近は、我が社と同じような配送システムを真似した業者が出て来て、競争が激しくなり、伸び悩んだ状態になって来ており、営業成績もここ暫く頭打ちです。

 この為、部下に対して、今後の指針や進路を具体的に示せない状態になり、はっきり言って「先が見えない」状態なのです。
 兄に言わせれば、「うちみたいな小さな会社は、ビジョンとか方針とかは示す必要がない」と割り切っていて、社長としての自分の方針を、社員に示すことに積極的でもなく、熱心でもありません。

 それどころか、最近は運命学に凝ってしまって、お抱えの占い師がいるらしく、その人の言に従って営業展開をするなどして、運命学や占いのレベルで会社を運営していると言うのが実情です。もうこうなれば、ビジネスとは言い難いところまできて、何か漠然として、はっきりした根拠がないのですが、手形決済も何とか、やっとという状態で、銀行側の顔色も余りよくはありません。もしかしたら「このままでは倒産でもするのではないか」というような不安もはしります。

 兄は、占い師の処から帰って来ると、「近頃どうも伸び悩んでいると思ったら、オレは衰運期に入っているらしい」などと、こぼし、損益計算書や貸借対照表の数字を睨むよりは、占い師の言に従い、会社を動かしていこうとする気構えすら見受けられるのです。
 かつて一部上場会社の組織の一員として働いていた頃は、自他共に認める「切れ者」として通っていましたが、今ではその面影すらありません。

 こうした兄に、愚痴のような諌言をしますが、これに兄も感情的に反論して来て、「どうせオレは社員200人程度の中小企業の社長程度でピッタリさ。しかしオレは、これでも上出来だと思っている。このままで充分だ」などと言いますが、それ以前に、兄が、何か人生の目的を見失っているような気もしてくるのです。

 そして二言目には、「今は、オレは衰運期だから、このまま動かずに力を貯え、それが過ぎたら、またバリバリ働くよ」などと言って、会社にもろくに顔を出さなくなり(但し、青年商工会議所や「漁り火会」には熱心に顔を出す社交好き)、どうも二号宅へしけこんだような状態になり、聞くところによると、衰運期には、「果報は寝て待てさ」などと口走り、朝から酒を喰らっていると言う始末だそうです。

 そうした反面、重要な決断やその采配は、経験不足の私が行わなければならず、また女の私(副社長)では社員に対して、いささか押しも弱く、甘く見られたいるような視線すら、この頃は背中で感じるようになりました。
 自分でも、このままではいけない、もっと気をしっかり持って、頑張らなければならないと思うのですが、肝心な兄がこのザマでは、何か中心になる芯が抜けてしまっていて、非常に不安定な状態で、綱渡りのような会社経営がなされていると言った状態です。

 兄は徹底した運命論者ですから、私が何を言っても聞く耳を持つような人ではありません。そこで、兄の考えを一新するような、何かよいお知恵はないものかと、ご相談を申し上げる次第です。



回 答

(1)

 人間の命(めい)を造るものは天(てん)であるが、その造られた命を立てて実現していく実践者は、人間である。命は自然の摂理、その原則、あるいは宇宙の玄理(げんり)から出来ている。これを人間はどうする事も出来ない。

 しかし人間は、天によってそれを開発する使命を負わされている。したがってこの開発への使命は、努めて実行し、少しでも善行を行い、広く徳(陰徳)を積んで、最初に願った初心を忘れず遂行し、自分を見失わず、謙虚に邁進(まいしん)すれば、吾(わ)が前に立ち塞(ふさ)がる鬼神も道を譲り、如何なる福も得られない事はないのである。

 広く世の中を見渡してみると、聡明(そうめい)かつ優秀なる人物は決して少なくない。しかし、その人が如何に優れた才能の持ち主であっても、その才の用い方を知らず、徳が修まらず、人徳がなければ、その人の仕事は広まるはずがなく、ただ空しい日々を送るだけの人生となってしまう。
 したがって空しく送る人の生き方は、次第に消極的になり、享楽に明け暮れるような、つまらない人生を選択してしまうのである。
 自分の非を知らなければ、また自分を是(ぜ)として案じてしまい、日々新たに生きる事までもを忘れてしまうのである。そしてやがて、自分の運命の陰陽に支配され、そこから抜け出せなくなって、運命に示されたその通りの人生を履行(りこう)してしまうのである。

 つまり、運命を転換させる法は、まず自分の「不徳」を帳消しにしなければならない。
 その為には、自分の生き方を、第一番目に転換させねば理に合わないだろう。

 次に、自分の運命を転換させようと、企てるのであるから、今までの物の見方や、考え方は刷新させる必要があろう。これが出来なければ、運命は変わりようがないのである。
 ただ、予(あらかじ)め決定された命めい/天の定め)に従って、陰徳を積まなければ、やがて運命の陰陽に支配され、それを正確に履行するだけの人生となる。

 運命には、凡夫(ぼんぷ)・俗人に働く陰陽の支配がある。
 陰陽の支配とは、プラスに動いたり、マイナスに動く「周期」の事である。運命には、波があり、必ず上下に振幅する周期がある。その周期は、運気を顕(あら)わすバロメータである、運命学には大雑把(おおざっぱ)に言って、平運期、順運期、盛運期、衰運期、凶運期の五種類に分けられ、これが各々に並び、生まれた星廻りの運行に従って、次々に繰り返される。
 したがって、まずこうした循環を知る事であり、各々が、何年周期か、何ヵ月周期かで循環することを知る必要があり、一般人が人生において事を為(な)す場合、最も理想的な形は、平運期に事業の計画を立案し、順運期にこの準備を始め、盛運期にある程度の基礎固をして一時的な成功を納めて、それで築いた財を貯え、衰運期に入ったら拡張や展開をやめ、凶運期に入ったら、足踏みするか、潔(いさぎよ)く事業から手を引く事である。

 こうした循環が誰しもあり、この陰陽の周期によって支配された人生を送っているのである。世の成功者と言うのは、こうした運命の循環と、その周期の陰陽の波を知り、それを繰り返し、実行して成功を納めているのである。
 しかし、世の多くの人々は、これを無視したり、これ等の行動と正反対の行動に出て、みすみす失敗を繰り返しているのである。要するに、凡夫・俗人と言うのは、最悪の凶運期に、ばたついて、何かしようと焦るわけである。そこで辛抱する粘りがないわけだ。
 また、こうした凶運期に、どうしても幻想の影に惹(ひ)かれてしまって、その方向に流されてしまう人も少なくない。何をしても失敗する人は、こうした星廻りの運命を背負って生まれて来ているのである。

 少し賢い人なら、この時期は災いを避ける為に、「今は力を貯える時」と、自分に言い聞かせ、この時に勉強したり、実力の蓄積を行うものであるが、この運命の周期を知らない俗人は、どうしても自分勝手に動いてしまい、行き当たりばったりの勝負に出て、事業に失敗して身を滅ぼしたり、交通事故や大怪我や、病気が許(もと)で、無慙(むざん)な最期(さいご)を遂げるものなのである。

 例えば病気のうち、一種の憑衣現象であるガン疾患について考えてみよう。
 これを《予定説》から観(み)ると、ガンになる人は、「ガンになる運命」をもって生まれて来た人である。その為に、ガンに罹(かか)り易い性格を持ち、ガン体質に変貌する食事を好む日常生活を営んでいる。過食したり、食肉や乳製品を多く摂る食生活は、元々その人がカンに斃(たお)れる因縁を背負っているのである。

 《予定説》からすれば、そうした人がガンで死亡する事は、予(あらかじ)め定められていて、その人は、定められた通りの運命を自分で履行している事になる。だから動蛋白を多く摂取し、美食や珍味を好むのである。
 ガン疾患が明白になる前は、ガンに罹(かか)らぬように、予防医学である食養法を実践するチャンスもあったであろうが、これも行う事なく、したがって発覚した時は、既に末期で、手の施しようがなく、余命数週間で死んでいかなければならない運命を背負った人である。

 こうして考えて来ると、人間は、人間である以前に、何か持って居たものを、今もなお、持っているという事になる。その持っているものを、自分で気付くか、気付かないかの、ただそれだけの違いである。そして、この「何か持っているもの」とは、直接人間の人生の喜怒哀楽に直結されているものなのである。

 では、「何か持っているもの」とは何か。
 それは人間の持つ「矛盾」である。人間が各々に、「何か」を持っていて、自分自身で割り切れないもの、解決できないものを持っているのである。これは自分の努力では如何ともし難いものである。この「矛盾」こそが、「人間の業(ごう)」と言われるモノの正体である。

 人間の運命の背後に存在する「人間の業」とは、能々(よくよく)考えてみると、これこそが私たち人間を動かしている正体なのである。これこそが人間の持つ、自分では解決できない「矛盾」だったのである。
 そして、人間は人生を通して、この矛盾に振り廻され、運命の陰陽に惹(ひ)き寄せられて操られ、最後は、運命が定める通りの結末を迎えるのである。

 こうして考えてみると、動植物は、自然の摂理である因果律に従うだけだが、人間の場合は、業が運命を造り、運命は因果の摂理ならびに因果律に従って展開されるものであるという事が分かる。これこそが《予定説》で、予(あらかじ)め定められた「人間の運命」の実体であると言えよう。なん人も、この決定を覆(くつがえ)したり、否定する事は出来ないのである。
 そして「逆因果律」の形をとりながら、縁と因が結びつき、結果と原因が結びついて、私たちの人生を形作っているのである。人生とは、予め定められたレールの上を、縁と因が結びつき、結果と原因が結びついて、それがあたかも輪廻(りんね)のリングとなって、結果が先で、原因が後の、逆因縁が描く、「必然的な運命」の軌跡を描くのである。人生の実体は此処に存在するのである。

 例えば、自家用車を転がして高速道路を走り、この順調な流れに乗り、あるトンネルに差し掛かったとしよう。トンネルに侵入しても流れは順調で、更に出口へと向かって進行しているとする。
 ところが、一台の乗用車のドライバーに、不心得者がいて、がわき見運転で、中央分離帯を超えて対向車と接触し、それを立て直そうとしてハンドルを切り損ね、横転したところに、次々と後続車が衝突する事故が発生したとする。それがもとで、何台かが炎上すれば、忽(たちま)ちトンネルの中は火焔地獄になってしまうだろう。多くの死傷者も続出するであろし、その中に自分も含まれるまも知れない。
 結局「自分」と言うのは、自分だけではなく、他人が起因して起こす事故に巻き込まれ、横死(おうし)する場合もあり得るのである。恐らく、トンネルを通過した先に、誰もが輝かしい未来を心に描いていたに違いない。しかし、その未来は、事故発生と共に潰(つい)えてしまうのである。

 どんなに輝かしい未来を描いていても、生きる縁は、此処で絶たれてしまうのである。また、因が縁を結んで派生する結びつきも、運命学から見れば、こうした横死は、最初から予定されていて、横死の因を、自分自身で保菌して生まれて来た事になる。

 それが航空機事故だと、更に明確となる。
 乗り物の中で、一番事故の確率の少ないのは航空機である。しかし、航空機事故は完全にゼロでないので、必ず世界の何処かで、何週間に一回か、何ヵ月に一回かの確率で大小の事故が起っている。そして飛行機が一度墜落すれば、その機の搭乗者と乗務員は、殆どが全員死亡である。

 しかし問題は、墜落する飛行機に乗り合わせた人達である。事故発生率の少ない、数ある航空機の中から、事故の確率が非常に低いと称される、墜落しなければならない飛行機に、なぜ乗ったかという事である。乗り物の中では、一番安全と称される航空機に、わざわざ搭乗して、何故この機に乗り合わせた者だけが、横死という結果を迎えるかと言う事が問題になるのである。

 墜落事故の遭遇した彼等は、搭乗する以前から、墜落をする因子を持った飛行機を選び、それに搭乗し、その縁によって、飛行機事故で無慙(むざん)な最期を遂げたと言う事になる。
 人間の運命を考える上で、因縁と言うものが問題になり、《予定説》で言うならば、まさに逆因果律であり、逆因縁である。こうした結果は、最初から、予め予定されたものだったのだろうか。

 人間と言う生き物は、先天的に、親から受け継いだものと、後天的な、環境や育ちで受け継いだ二種類の気で成り立っている。
 人は誰しも、性質や体質を、ある一定の確率で両親から受け継ぎ、あるいは両親を通り越して、祖父母から受け継いだものをも所有している。これが先天的な要素を造り、後天的なものは家庭環境やその育ちなどである。

 次に、先天的かつ後天的な性質や体質を受け継ぐ人間は、それに加えて、情報と情報処理と言うものが問題になってくる。そして人間の情報処理には、二つの系(けい)からなっている。
 一つは能力であり、もう一つは類型もしくは様式である。情報は、人間の個性によって各々受け取り方が違う。また能力とは、それを処理する上での、高級か低級か、緻密(ちみつ)か粗雑かなどの程度の差を言い、類型とは、受け入れる際の個人の型を言うのである。つまり受け入れの際の、個人の「個性」の事である。

 情報とは、能力と個性によって受け入れられ、取捨選択と言う形で処理されていく。つまり処理された記憶によって、その後の記憶が受け入れられ、更に試行錯誤を繰り返して、経験や体験の記憶が集積されていく。このレベルでは、何の矛盾も発生しない。
 ところが記憶に関して、根本的な問題が派生する。それは人間の記憶が、自分がこの世に生まれてから始まっているものではなく、生まれる以前の過去世(かこぜ)からの記憶が存在する事だ。これを因縁という。

 生物と言うものは、過去からあらゆる経験や体験によって、記憶を蓄積し、必ずその影響を後世の生物に残し、生物はこの影響の下で、次の経験や体験を受け入れていく事になる。
 その影響の実体こそ、習気(じっけ)と言うものであり、これが記憶痕(きおくこん)である。
 心理学的に言うならば、大脳の記憶中枢の内部に存在する痕跡(こんせき)を示す「記憶痕」であり、この記憶痕は、そそまま形を変えて、次世代へと受け継がれていく。つまり記憶痕には、個体の記憶の他に、種族系統の個性が記憶として残っているという事である。

 この「個性」こそ、その人の運命を決定する因子なのである。個体における記憶が、その後に起る運命を暗示し、予め予定通りに履行する運命の記憶巣(きおくそう)を記憶しているという事である。
 したがって不幸現象の多くは、この記憶巣から引っ張り出された結果通りの原因が派生し、その因子によって、横死する者は「横死」という最期を迎えるのである。まさに《予定説》のそのままを人間の運命は、確実に履行していると言う事になる。
 運命が成立する場も、転機を齎す場も、「記憶の場」によって展開されているのだ。これこそ、げに恐ろしき、「記憶の場」と言わねばならない。過去世に刻み込まれた「記憶痕」が、運命が成立する「転機の場」を借りて、そこで運命の転機が図られるのである。

 ここに人間の持つ宿業しゅくごう/現世に応報を招く原因となった過去世の善悪の行為)の悲劇があると言っても過言ではない。したがって不幸現象に遭遇するか、しないかは、一切知性と無関係になる。また、知性で解決出来る程、人の運命は単純なものではない。
 人間がホモ・サピエンスHomo sapiens/知性人あるいは叡知人の意)といわれ、知性を持つ種族に、人間はなり得たが、運命と言う現象界を見てみると、それは知性とは一切無関係なく、人の幸・不幸が展開されている事に気付かされる。人間の人知の範囲では、運命の危機から回避出来るだけの智慧は、持ち合わせていない事になる。

 したがって「運命学」という分野で、人間の人生を見た場合、人の運命は、有能な運命学者が、それを予見し、その人の運命の総てを解き明かした時、その人の運命は、予見した通りに履行されると言う実例は無数にあるのだ。

 しかし、幾ら有能な運命学者でも、予見した運命を転換したり、改変したりと言う実例は、運命学にない。
 だがしかし、安岡正篤(大阪生まれの日本屈指の陽明学者。明治31年〜昭和58年)先生が著わした『陰隲録(いんしつろく)を読む』(竹井出版、平成2年2月21日初版発行)には運命転換法が記されている。
 そもそも「陰隲」とは、天帝が秘かに人間の行為をみて、禍福を下す事を指し、明(みん)末期に纏(まと)められた道教の経典から由来した言葉である。そしてこの『陰隲録』には、中国明代の袁了凡(えんりょうぼん)の運命についての話が出て来る。

 この『陰隲録』は「立命の書」として、袁了凡が我が息子・袁天啓(えんてんけい)に書き与えたものである。
 『陰隲録』が貫いているものは、「人間の運命」であり、また「人間の宿命」である。そしてその思想体系は、「自らの努力によって、立命に転換していける」という直観内容に、論理的反省を加えて出来上がった思惟(しい)である。そしてこれは、体系的に純然たる、運命論を貫く、深い内容を包含している。

 徹底的な宿命観あるいは運命観の陥っていた袁了凡が、雲谷禅師(うんこくぜんじ)を棲霞山せいかざん/中国南京の北東、摂山にある名刹(めいさつ)であり、劉宋の泰始(465〜471)年間、明僧紹(明徴君)の創建。南朝三論宗の中心をなした)に訪ね、その深く感ずるところから、この特異な「運命転換法」は始まるのである。

 袁了凡は雲谷禅師という当代屈指の達人に遭(あ)い、その教えを受けた。それによると、「禍福は、みな自分より求めないものはない」という真実の言葉であった。つまり禍福は、自分の不注意や、不完全から起り、これは自分が未熟ゆえに、自分で求めているようなものであると言っているのである。

 本来、俗人が考える事は、「禍福は人間の力ではどうにもならない」あるいは「人知ではどうする事も出来ない」というものであって、運命学的に言って、これ以上進展させる方法はないが、雲谷禅師の言によると、「謙虚、積善、改過」という道徳的精進によって、自らの運命を開拓し、素晴らしい人生を実現出来るという、運・不運の根源的な人生観を述べている。これにより袁了凡は、これまでの運命論者から一転して、運命転換論者となるのである。

 安岡正篤先生は、『陰隲録を読む』の冒頭で、こう述べている。
 「運・不運というものは確かに人生にはあります。しかし本書を読めば、運を招き、不運を呼ぶその根本のものは、冥々めいめい/事情のはっきりしないさま)の裡(うち)に、自分自身が作っているのであろうということを、真実味を帯びてさとられるのであり、ここに本書の妙味が存するのであります」と、難解な文章で書かれた『陰隲録』を見事に現代化し、私たちに「運命と立命」という課題で、分かりやすく解き明かしているのである。

陽明学の祖・王陽明(おうようめい)の著わした「一掴一掌血 一棒一條痕」の諌言を認めた安岡正篤先生の書(曽川和翁所蔵)


 さて、袁了凡なる人物を追おうと、この人は、明の時代の1550〜1600年代にかけての時代の人で、江南の豪族出身で、最初、官吏を目指した人であったが、母親から「医者になって欲しい」と言う願いを聞き入れ、最初、医術を学んだ人である。

 ある時、彼は慈雲寺を遊山した。そこで雲南の人で、「孔」と名乗る老人ろうにん/一道に秀でた達人あるいは名人)に遭ったのである。この時の感想を、袁了凡は次のように語っている。

 「私が慈雲寺を訪ねた時、一人の老翁(おじ)に出合った。この老翁は頬髭(ほほ)の長い偉大な風貌を持ち、飄々(ひょうひょう)とした仙人のようであった。私は思わずその老翁に敬礼をした。するとその老翁は、“君は官吏になって役人生活をする人である。来年は科挙(かきょ)の試験に向かってその勉強をやる事になる。しかし、今どうしてその勉強をしないのか”と訊(き)くので、自分は、実はこういうわけで……と、母からの経緯を話し、併せて老翁の名前と住所を聞いた」
 ここから『陰隲録』の物語が始まるのである。

 この孔老人は邵康節しょうこうせつ/北宋の学者で易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤(しゆうとんい)の理気学に対して象数論を開いた。1011〜1077)の秘伝を受け継いでいるという、大変な易の達人で、この老人が、袁了凡の一生涯の運命を占ったのである。孔老人の占いは凄まじく、悉々(ことごと)くが一致し、また予言の総てが適中した。これにより、袁了凡は驚嘆し、運命論者になるのである。

 後に袁了凡は、仕事で北京に行った時、棲霞山(せいかざん)を訪ね、雲谷禅師に遭う機会を得た。一室の中で対座して、三昼夜眠らずに雲谷禅師と向かいあった。
 そして雲谷禅師が、袁了凡に問われて次のように言った。
 「多くの人が、聖人になれないのは、ただ邪念が付きまとう為である。ところが、あなたは三日間も座りっきりで、一念の邪念も起きる事はなかった」
 これに応えて、袁了凡曰(いわ)く、「私はかつて易の達人である孔先生に、易断され、一生涯、栄辱(えいじょく)も生死も、皆その運命が定まっております。したがって邪念を起こし、妄想しようにも、妄想しようがありません。私の何もかもは、総て定まっているのですから」と落胆して言った。

 すると雲谷禅師は、にこやかに笑いながら、「私はあなたが期待されるべく、優れた人物であると思っていたが、ただの俗人であったか」と嘆き、失望を思わせるような言い方をされたので、袁了凡はこれをすかさず切り返し、その理由を訊(き)いた。

 雲谷禅師が言うのは、「人間と言う生き物は、無心であると言う境地が中々保てない。したがって、最後はどうしても運命の陰陽の働きによって、支配され、束縛されてしまう。それはただの俗人作(な)るが故の悲しさであり、本当に運命を転換させるのであれば、徳(陰徳)を積む事である。
 極善の人に対しては、運命もその人を当然拘束する事は出来ない。また極悪人に対しても、運命は、その業(ごう)に引き回されて中々定まらないものである。あなたは二十年このかた、かの孔老人の易断に縛(しば)られたままで、少しも変化していないと言うのは、何たる凡人であるか」と厳しく叱責された。

 これに対して、袁了凡は、再び問い質(ただ)す。
 「ならば、運命と言うものは、その支配から逃れる事が出来るのですか」
 雲谷禅師は「然様(さよう)」と応えて、再び淡々とした話をされた。

 「運命は自分から造り、幸福は自分から求めるものである。功名を求めれば功名が得られ、富貴を求めれば富貴が得られる。また長寿を求めれば長寿が得られ、子宝を求めれば、男女何(いず)れの子宝も求められる。これは仏教の教典にも書かれている事で、何故、仏や菩薩が人間を騙(だま)す事をしようか」と言われた。

 袁了凡は膝を乗り出し、「では御伺い致します。孟子は、求めれば得られるが、それは自分にあるものを求めるからであると言っています。道徳や仁義は、心の裡側(うちがわ)にあるものですから、努力によって求める事が出来ましょうが、功名や富貴は本来、天にあるもので、幾ら努力しても求める事が出来ないのではないでしょうか」と。

 これに応えて、雲谷禅師は「孟子の言っている事は間違いではない。あなたが勝手に間違って解釈しているだけの事だ。六祖大師ろくそたいし/南宗禅の根本思想を説いた人物で、中国禅宗の第六祖の慧能(えのう)も次のように言っておられる。“総ての幸福の称する畑は心の中にある”と。
 心の中(うち)に従って求めたならば、感じて通じないものはない。自らの裡(うち)にあるものを求めれば、ただ道徳や仁義を得るばかりでなく、功名や富貴すらも得られるのである。本来、自分が求めれば、裡(うち)に備わる道徳ならびに仁義はおろか、外に備わる功名や富貴も得られるのである。これが求めて益ある事である。しかし、我が身を反省せずに、外面のみに求めたならば、うまく行く筈(はず)がなく、内外ともに失うであろう。これが孟子の言う真意である」
 その後、袁了凡は孔老人が占ったこれから先の運命を、包み隠さず雲谷禅師に告げた。

 まず、清流に魚棲(す)まずの喩(たと)えを上げ、自分は科挙の試験に合格しない事。子どもが出来ない事を告げた。
 雲谷禅師は「なるほど」と言って、「では、あなたは孔老人の占った運命とは考えを別にして、自分自身で求める通りの人生を考えてみなさい。科挙の試験が及第するか否か、また子どもが生まれるか否か。これをどう判断するか」と叱責するように言われた。

 袁了凡は暫(しばら)く考えて、「及第する事も出来ず、子どもも生まれる事もありますまい。第一、科挙の試験に合格する人は、まず福相があります。しかし私は福相が薄く、陰徳を積み、善行を重ねて、幸福の基礎など造る事は出来ません。その上、世の中の煩雑(わずらわ)しさには耐えられず、度量も狭く、人徳もなく、なん人も受け入れるような寛容さもありません。また屡々(しばしば)自分の才能をひけらかして、それで他人を押さえ付けようとする事もあるし、思う儘(まま)に言動して感情的になったり、罵倒(ばとう)したり、他人を誹謗(ひぼう)したり、口も軽く、軽々しい談義もします。こうした事は総(すべ)て自分の薄徳から出たものです。このようなありさまで、どうして官吏登庸(とうよう)試験に合格し、高官などのになれましょう。
 土地の穢(けが)れている処は、多くの物を生じますが、水の清い処では、魚が棲(す)まない喩(たと)えがあります。私は潔癖性ですから、子どもも授かる事がありません。これが子を持てない第一の理由です。
 春のような、和らいだ気は万物を育てますが、私のように感情に激(げき)し易く、些細(ささい)な事で怒る性格では、和らいだ気はありません。子が持てない第二の理由は、これです。
 愛と言うものは、万物を育む本(もと)であり、一方残忍は万物を育成させない根本となります。私は名誉とか節操とかを、自分の保身の為に、ただ自分を大事にし、それ等を失う事を惜しみ、また自分を犧牲にして、他人を救う事が出来ません。これが子を持てない第三の理由です。
 その上、私の過(や)ちを数え上げるなら、この程度ではとても納まらず、もう数え切れないくらい無数にあります」と、自分のこれ迄の非を、次々に吐露(とろ)し始めた。

 これを聞いた雲谷禅師は、「それは官吏登庸試験の合格・不合格、子どもの有る無しは、総て徳の如何によるものだ。その上、あなたは、いま自分の非を悟った。これまでを考えると、孔老人の占い通りであったが、これからは及第も出来ず、子も生(な)せないという悪相を改め、つとめて徳を積み上げて、人の言を聞き入れるような度量を持ち、和やかな愛情を持つようにすればよい。そうすれば昨日までの自分は死に、今日からは新しく生まれ変わる事ができる。
 書経(五経の一つで、尭舜から秦の穆公ぼくこうに至る政治史・政教を記した中国最古の経典。孔子の編という。漢代には尚書、宋代に書経といった)の太甲篇には“天が下す災いは、なお避ける事ができるが、自分の作った罪科による災いは避ける事が出来ぬ。どうしようもない”と云っている。
 つまり孔老人は、あなたに言った、科挙の試験も及第できず、子も生せないと占ったのは、書経の云う“天の為せる災い”と同じ事であるから、自分を変えれば避ける事ができる。徳分を充分に満たし、善行を行い、多くの陰徳を積んでいったならば、自分が作った福で満たされる事になる。
 自分が作った罪科による災難が、どうしても避ける事が出来ぬものならば、また自分の作った福も受け入れられないという事になり、そんな事があろう筈がない。
 過去の罪を真情に尽くして懺悔(ざんげ)し、誓願文一通を作り、まず第一に科挙の試験に及第する事を願い、善事三千余りを行い、天地祖先の神々の徳に報いる事を誓う事だ」

 こうして袁了凡は、雲谷禅師から、自らの運命を根本的に変えてしまう「人生の貸借対照表」の書き方を教わったのである。
 また、その他に「御符(ごふ)の書き方」も習った。

 「予言書を書く家には、このような言い伝えがある。それは御符の書き方だ。御符を書く秘伝を知らなければ、鬼神に笑われると言うのである。この秘伝は、決して思慮を動かさない事だ。筆を取り御符を書く為には、先ず第一に、世間一切の因縁を捨て去り、一点の雑念も起こしてはならない。心に動揺なく、一切の蟠(わだかま)りが消えて、澄み切った時機(とき)、最初の一点を書き下ろす。これを“混沌開基(天地開闢の初めをあらわし、物事のもといを開くこと)”という。
 これにより、一筆で書き上げて、その間、思慮を差し挟まなかったら、この御符は霊験があると云う事になる。
 あなたは、まだ無心になる事ができないから、ひたすら準提咒じゅんていじゅ/規則や基本に則ること)を誦持(じゅじ)して実行せよ。その時に何回誦したとか、それらを記憶したりしてはいけない。間断なく誦持する事が出来て、初めて無心になれるのだ。そして念頭に、何も動かなくなって、始めて霊験が生じる」と、有り難いお言葉を頂いたのである。そして一切の福は、努力によって始まると、雲谷禅師は結ばれたのである。
 袁了凡の運命転換ならびに立命の実践は、この時に始まったのである。

 その時の具体的な対策として、孔老人から絶対に科挙の試験の合格しないと予言された、この試験に合格する事を第一の目標に定めた。次に、「三千の善行」を行い、積徳の行の実践を誓った。これは袁了凡自身が、これまでの不徳を転換する為である。

 定まった運命を転換させる為には、運命が支配する陰陽の周期から抜け出さねばならない。これから抜け出す為には、自分の生き方を変えなければならない。しかし運命を変えようと思ったところで、今までと同じ物の考え方では変わりようがない。運命を変えようと思えば、これまでの自分は、一度死ななければならない。死ぬ事で生まれ変わる。

 悪い事を積み上げていけば、その運命は悪くなっていく事は明白である。他人の物を盗めば窃盗犯であり、他人を暴力で傷つければ傷害犯とされ、人を殺せば殺人犯という、各々の犯罪者としての運命が待っている。
 反対に、良い方向に変えようと思ったならば、良い方向に変わっていく事は明白である。

 袁了凡は昨日迄の罪科の数々の非を顧みて、自分はこれまで、のんべんだらりとして、呑気に構えた生活を送っていた。日々を無駄に送っていた。これからはこうした事では、結局、運命の陰陽に支配されて、その周期に一喜一憂しなければならない。喜怒哀楽に振り回される。これでは旧(もと)の木阿弥(もくあみ)だ。
 その支配から抜け出す為には、一挙一動、一言一句、等閑(なおざり)に出来ない。人の見ていない、独り居の時でも、慎みを忘れるような事はしてはならない。

 また、他人から悪口を云われても、それに対して、軽々しく弁明や反論しまい。感情的な議論は軽々しく論ずるまい。それは、対象が天地でないから、他人から誹(そし)られたくらいでは、自分の心は動かないのだ。
 そして、いよいよ「善事三千の行」を始め、運命転換に向けて行動を開始したのであった。

 しかし袁了凡は、自分の今日一日を反省して、それを振り返ってみると、余りにも自分の身に誤りが多い事に気付いた。道を行うにも純粋でなかったり、正しい事を行おうとしても、勇気に欠けていたり、他人の困っているのを黙って見過ごしたり、中途半端な事で妥協をしたり、信念が途中でぐらついたり、礼儀に反した事をしたり、間違った事を口にしたりということで、自分の反省点が多かった。

 あるいは、酒を飲まない場合は、身を保つ事が出来たのに、一旦酒が入ってしまうと、酒の酩酊(めいてい)に従って気が大きくなり、約束不可能な事を約束したり、結局これまでの善行を帳消しするような事ばかりをしている自分に気付いた。せっかく善行を積もうとして行った努力も、これでは水の泡ではないかと嘆くのであった。そして、空しく時が過ぎ去って行くのを、自分でもどうする事もできなかった。

 再び初心に戻る事にした。雲谷禅師の教えを受けて感動した時の、自分の運命の転換法について再び考え直してみる事にした。人間は、常に初心に戻ってフィードバックしないと、信念を貫く事は出来ないものだと猛反省した。
 その日一日に、自分の運命転換への「人生の貸借対照表」の善行の欄に、得点を重ねられなくても、気を落とす事なく、明日への善行を誓ったのである。こうしながら、袁了凡は「善事三千の行」を行うのに十余年がかかった。
 袁了凡は「善事三千の行」の誓を立ててこれを始めたのが、隆慶三年の己巳(つちのとみ)の歳で、完了したのが万暦ばんれき/中国、明(みん)の神宗朝の年号)七年の己卯(つちのとう)の歳であった。

 孔老人の占いからは、残念ながら子どもは出来ないと言われて諦めていたが、辛巳(かのとみ)の歳に、男子天啓が生まれた。
 そして再び、「善事三千の行」を行った。これは四年で完了した。
 更に、次は進士及第の誓いを立て、「善事一万条の行」を行った。これは癸未(みずのとひつじ)の歳の万暦十一年(1583)の九月十三日で、進士試験に合格したのが丙戌(ひのえいぬ)の歳であった。そして晴れて官吏になり、宝テイ知県(河北省)の知事に任ぜられたのである。