会員の声と相談者の質問回答集2



会主の人生相談は他と趣を異にする (47歳 会員 真言宗僧侶)

 私が入会したのは、この会の発足直後のことで、ネット上に姿を現して、直ぐのことでした。その証拠に、私が「癒しの杜の会」の第一号会員であるからです。

 そして自分の考えるところがあって、現在も会員として属しています。それは会主の人生相談が、他の、並みの人生相談とは、全く趣きを異にしているからです。会主が自らの智慧(ちえ)をもって、一刀両断してみせるところに、何か強い興味を惹かれるのです。

 会主の言によれば、「如何に生きるべきか」は、「如何に死ぬべきか」を考えることで、それが成り立つとしています。

 そこで、私は真言宗僧侶として、ズバリお訊きしたいことがあります。
 なぜ、人間は苦悩しながら生きるのか?
 また、あれこれと迷い、その迷いは一体何処から生じるのか?と。

 更に、密教の世界では、常見じょうけん/世界やすべての存在は永遠不変の実在であり、死後も自我は滅びることなく、永遠に存続するとみる誤った考え)も断見だんけん/人は一度死ぬとそのまま断滅するとの誤った考えで、虚無思想などこれに入る)も誤りとし、定業じょうごう/苦楽の果報を受けることが決定している業)も真理ではないとし、真実の教えとして縁起えんぎ/一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因や条件が寄り集まって成立しているということ)を説いている事は、ご存じのことと思いますが、人間の生命は本来、因縁所生いんねんしょしょう/因は直接的原因で、縁は間接的条件が生れた所)のものであり、したがって、人の世は因縁が続く限り、生死もまた繰り返すと教えています。

 ならば、人の世は苦・悩・迷が実体であるから、それは永遠に続くとも言えるし、生死の輪廻が止み、そこで断滅だんめつ/絶え滅びること)すれば、生命は一体どうなるのか?ということを是非ともお訊きしたいと思います。

 【註】相談者の文章内には仏教の専門用語を遣っている箇所があり、これに読者が分かりやすいように注釈を加えました)



回 答

 人は、なぜ生まれて来るのか。
 ここに、この質問の答がある。《予定説》から言えば、人間の生まれて来ると言うのは、過去世(かこぜ)の臨終(りんじゅう)間際に、何等かの強い怨念(おんねん)か、執念をもって、この世に再び誕生したと言える。生まれた結果は、過去の死んだ原因に回帰されよう。

 生命の誕生について言えば、因縁の続く限り、生死は繰り返されるであろうし、逆に因縁を無視して、生命自体が永遠に繰り返し続ける事はない。
 更にその逆に、因縁が消滅しない限り、死んだからといって、それで生命が断滅するわけでもない。これこそが釈迦が指摘した「断見」の誤りとするところである。更には、また、因縁を抜きにして、業(ごう)が確定してしまうもわけでもない。

 生命は、あくまで因縁によって派生し、因縁によって断滅する。
 だが、ここにも落とし穴がある。
 因縁が続く限り、生命が存在するからといって、それに凭(もた)れれば、因縁を断滅しても、生死の輪廻を脱して涅槃ねはん/煩悩(ぼんのう)を断じて絶対的な静寂に達した境地)に入る事は出来ない。いつまでも騒音に満たされ、頭を振り乱す、ロック調の激しいビートに、身も心も委ねていなければならない。生死を繰り返しても安らぐ場所がなく、騒音の中の阿修羅Asura/人間界の一ランク下の世界)の世界で、いつもガチャガチャと来る日も来る日も、五官の総(すべ)てを総動員して、格闘し続けなければならない。これでは安住の場は永遠に訪れない。

 また、現象人間界では、闘争と共に、渇愛かつあい/渇して水をほしがるように、凡夫が五欲に愛着すること)を滅する事が出来ない為に、死後もまた、迷宮の世界に生まれ出て、輪廻の輪から脱する事が出来ない。

 釈迦は「生命の再生」を次のように説く。
 生命(命体の意)は「火」であり、肉体は「薪たきぎ/燃料の意)」であるが故に燃えるのである、と説く。薪が尽きれば、炎は消えるが、しかし薪が尽きても、「火種(ひだね)」は残る。残った火種こそ、渇愛による「異蘊いおん/「蘊」とは、五蘊(ごうん)を指し、集合体の意で、現象界の存在の五種の原理をいう。色(しき)・受・想・行(ぎよう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識。一切存在は五蘊から成り立っており、それ故に、「無常」とか「無我」であると説かれる。一方、異蘊はこれを否定し、墮落に向かわせ、「慢断(我慢を断滅すること)ぜざるがゆえに、此の蘊を捨て己(おわ)りて異蘊相続して生ず」と言う一行が、そもそもの仏道の眼目とするところである)」である、と。

 異蘊は残った火種であり、それは業(カルマの意。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為である「三業」を指す。但し、仏道は行為が未来の苦楽の結果を導く働きを持つとしているのに対し、《予定説》では「逆因果律」になっており、結果から原因に向かって、結果的な悪人は悪行の原因を持ち、結果的な前任は善行の原因を持つとされる。ここが仏道と正反対になっているので注意)の風に吹かれて、また新たな薪へと燃え移る。そして、そこで新しい炎となって燃えはじめるのである。

 この新しい薪が、どんな薪で、どのような炎を上げるか、それは火種である、かつての渇愛と、異蘊と業の風(形勢または成り行きの意)が決定するのである。故に、人は種火が新たな薪に燃え移るが如くに生まれ、そして炎が消えるが如くに死ぬ。死んでは生まれ、生まれては死ぬ。
 業の風に吹かれて再生するのであるから、過去世(かこぜ)の因縁を引き摺(ず)っている。この因縁の火種は、多くの場合、悪因縁であり、それ故に苦悩を背負う。苦悩があるから、また、迷うも生ずる。

 そこで生き方について、もう一度考え直してみなければならない。
 因縁は、「必然」と同義語であるから、現象人間界で起る事象に偶然はあり得ない。常に必然である。《予定説》で考えれば、結果として起った「偶然に思える事象」でも、予(あらかじ)め神が仕組んだ事であった。だから偶然に思える事すら、必然である。必然であるならば、また、苦悩も必然。
 必然から総てが派生するのである。

 だが、ここで問題になるのは、人生は元々、苦悩が必然になるが故に、苦悩によって、自らの魂を洗い、迷いや悲しみの中で、心を育てると言う働きがある事を知らねばならない。

 苦悩の中に於てのみ、その苦悩から脱しようとする「藻掻き」そのものによって、次に心は、新しい、本当の喜びが何であるか、と言う事に出くわすのである。迷いと、悲しみの中で、こうした悲惨な状態に嘖(さいな)まされながら、この状況下に於てのみ、新たな力と、新たな喜びを膨(ふく)らませていかなくてはならない。
 したがって現象人間界では、苦・悩・迷は、人生の必要十分条件necessary and sufficient condition/AがBの必要条件であると同時に十分条件である場合、AをBの必要十分条件という)の三要素となる。

 ちなみに渇愛は、激しい欲望や執着を指し、「咽喉(のど)の渇き」の意味であるが、咽喉の渇きを覚える者は、ひたすら水を求めてやまないように、その執念は「燃える念」の如く、また赤き炎に比較すべき、人間の性愛や恋愛、情愛や肉愛も渇愛に落ちる所以(ゆえん)を持ち、これに嵌(はま)り過ぎれば、溺愛となる事の愚を戒めている。したがって「愛agape/神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、愛餐(あいさん)とも。あるいは仏道で言う慈悲)」そのものとは区別する必要がる。

 さて、「如何に生きるべきか」は、「如何に死ぬべきか」について迫る事にしよう。
 人の心は、一度は死ななければならない。人は、一度は必ず自己否定をしなければならない。人生を本当に生きる者は、いつも絶望と断念の中から、何か新しい力と希望を掴(つか)み取る。死と自己否定の崖(がけ)っ淵に立たされて、はじめて目が覚め、窮地から、新しい自己を発見し、新しい力と希望を得る。これこそが、古い自己の殻(から)を脱ぎ捨てた、新しい自己であり、そしてこの自己に、もはや不安や迷いや苦悩はない。再生したのだ。

 だからこそ、「如何に死ぬべきか」を模索しなければならない。一度は死ななければならない。死ななければ生まれ変わる事はできない。したがって、苦悩と絶望、不安や迷いを通過しなかった自己は、所詮(しょせん)「単なる自己」に過ぎない。軽薄な自己に過ぎないのである。こうした自己は、一度死ない限り、新たなものは生まれない。

 お分かり頂けただろうか。

 真の「生きる」とは、絶望のドン底から生まれて来るのである。悲しみと寂寥(せきりょう)に洗われた後に、漸(ようや)く、この意味が分かって来るのである。
 だからこそ「依って以て死ぬべきもの」を見つけ、不安と絶望の底に沈み、そこから生き還(かえ)って来るものでなければならないのだ。
 哲学的に言えば、能動を否定する事が、実は本当の能動を生かす事なのだ。

 「何によって生きていこうか」ではなく、「何によって死のうか」という事を知るべきなのである。
 「依って以て死ぬべきもの」を捕まえたと時、人は、はじめて心の安住を得るのである。




自他同根について (23歳 会員 地方公務員)

 「癒しの杜の会」のHPで「自他同根」という箇所を繰り返し読みました。しかし今の世の中で、自他同根などと言う聖人のような考え方で、生きている人が果たしているのでしょうか。

 現代人の多くは、みな自分勝手だし、自分だけよければ良いと言う考え方に固執し、誰もが個人主義に走っているではありませんか。他人を押し退け、蹴落としてまでも。
 肩を並べた好敵手としてのライバルも、結局は、陥れるだけの対象でしかなかったのでしょうか。

 かつてはgive and takeという言葉がありましたが、今日の社会を見てみると、何処かしらtake and takeだと思うような気がして来るのです。

 商取引でも、公平な遣り取りは失われ、社会の背後では、不正なやり取りが行なわれています。したがってgive and takeは、もはや死語に思えてならないのです。

 また「譲り合い」や「歩み寄り」は、現在では悪い意味でつかわれ、裏社会では「談合」が勢いを増しているとも言います。
 しかし、こうした世の中は、どこかおかしいのではないでしょうか。人はどうして仲良くなれないのでしょうか。助け合わないのでしょうか。
 譲り合って、礼儀正しく物事をすすめれば、何事も円満に運ぶと思うのですが、曽川先生は如何お考えでしょうか。



回 答

 あなたは、この世の狂った箇所に、少しでも気掛かりになる点を見つけそれに義憤(ぎふん)を抱いているようだ。それは自他同根の気持ちが、心の片隅に存在しているからだ。あなたは、その点で、まだ、救いがあると言えよう。

 これが自他離別になると、「他人の事など、どうでもいい。自分だけよければ」という個人主義に趨(はし)ってしまうようになる。それも悪しき個人主義だ。こうなれば、人生の課題は、金儲けが中心になり、「金を儲ける為に働く」と言う人生が演出される。

 人が齷齪(あくせく)、今を働くのは、結局、老後の暮らしを考え、老後の生活で楽をしたい為である。少なくとも、多くの人間は、このような人生設計を立てている。
 そして人生は、一生懸命に働く事で、「より多くの金を掴む事だ」と言うのが、現代人の偽らざる人生の目標の到達点ではなかろうか。

 ところが一生懸命に働いて、より多くの金を掴む事が出来なかったらどうなるか。その人の人生の目標だった「金儲け人生」は失敗した事になる。
 そして、金への不安、物への不信が生じはじめる。

 多くの人は、金を頼りに生き、金を頼りに働いている。結局、「金の為に働く」と言う事を余儀無くされ、それが当たり前であり、「人生は金儲け」という図式が自然に出来上がっているのである。
 毎日毎日、芥あくた/塵(ちり)や屑(くず)を指す)のような生活の中で、出没没頭し、多くの金を得る為に齷齪(あくせく)と働く。それは金銭欲に他ならない。

 では何故、金銭欲を露(あらわ)にするのか。その動機は、いったい何か。
 それは「金さえあれば、幸福になれる」と信じているからである。金さえ出せば、「買えないものは何一つない」と信じているからだ。

 事実、大金を得て、富者になる生活を夢見ている人は、決して少なくない。
 大金を得る事が「人生の目的」と信じて疑わない人も大勢いよう。もし、こうした考えの人が、一生懸命に働いて、金持ちになれなかったら、その人の一生は無意味であったと言えよう。

 現実は幻想とは違う。
 多くの人は、より多くの金を掴もう、高給取りになろうとして、一生あくせくと働き、あるいは博打に手を出して一獲千金を狙うが、大金を掴むどころか、未だに貧乏生活から抜け出せずにいる。これが幻想の成れの果だ。

 もし金持ちになる事が人生の目標ならば、その目標に向かって進みながらも、これが実現せず、プール付きの豪邸や高級車にも乗れない、その他大勢の「並みの生活」しかできない現実が顕われれば、その人にとって、自分の人生は無意味であったという事になりはしないか。

 「金さえあれば幸福である」あるいは「金で幸せになれる」と信じて疑わぬのなら、大金持ちの財産分与や遺産相続争い、家庭争議、お家騒動は一体どう考えればよいのか。大金持ちだからといって、幸福であるとは限らないのだ。
 それよりも、「金はなくても、楽しくて、平和な家庭を」と、望む人の方が圧倒的多数であろう。
 金が総てで無い事がお分かりか。

 しかし、安易に「金が総てで無い」と一蹴(いっしゅう)してはならない。
 こうした事を一蹴する人の唸(ねん)には、金持ちへの「悔(くや)し紛(まぎ)れ」に発した羨望(せんぼう)と劣等感が宿っているからだ。守銭奴に対する、守銭奴になり得なかった、自分の心と裏返しの、「穢(きたな)さ」と「醜さ」が、負け惜しみ唸となって毒づいているからだ。

 この世の中は、総て表裏の対照関係になっている。それは、あたかも『貸借対照表』のようにである。

 「穢い」と思えば、それはあなたの心が穢いのであって、実際に自分の肉の眼に映った媒体が穢いのではない。
 「醜い」と思えば、それなあなたが醜いのだ。怕(こわ)いと思えばあなたが怕いのであり、現世の総ての、肉の眼を通して、心に映る全ての事象は、その醜美が表裏一体の関係になっているのである。この事を知らずして、「醜美一如の法則」は分からない。

 総て、心に映った反射が、総べての事象を作り上げているのである。
 そこで「自他同根」と言う意識が大事になる。自他同根が理解できれば、同時に「礼儀正しさ」も理解できよう。
 この「定義正しい」という事こそ、実は「品性」ならびに「品格」の実体である。

 魂を磨き、心を洗うと言う行為は、実は品性と重要な関連を持つ。
 したがって「品性を磨く」と言う行為は、自他同根の中から、慈悲の「愛する想念」を導き出す事に他ならない。そして「人間が幸福を目指して奔走する」と言う行為は、「品性を磨く」行為だったのである。これこそが、人間の魂が求めて止まない、究極の目的だったのである。

 人間の躰からだ/本体・霊体・幽体・肉体の四分構成)の中には、四つの構成要素がある。各々にエネルギーを放っている。そして、他と「反発」もしくは「吸引」する作用がある。
 しかし反発と吸引は元々、同根であった。根は同じであるが、結果的には相対関係にある。したがって自他同根も、自他離別もその根は、同じ所から成長した相対産物であると言う事が分かろう。

 憎悪も裏を返せば、愛情と同じ根を持つ。したがって根の部分は「慈悲」の要素で構成されているのである。
 慈悲は、本来、強い者から弱い者へと、上から下へ、高い処にから低い処へと流れて行く。例えば、親から子に流れる慈愛の慈(いつく)しみは、子に当たって光を放つ。
 エネルギーの放出は、必ず反射して光り輝くのである。親が子に放った慈愛の光は、子から親へと再反射する。子もまた、その光を受けて、親へ向かって信愛の光を放つのである。

 まさにこの関係こそ、公正な取り引きから考えれば、ギブ・アンド・テークが立派に働いている関係ではないか。これが親子の関係で行われば、「孝」であり、一般には「親孝行」の言葉で知られている。

 一方、上から放たれた慈悲の光が下の者に当たり、これが照り還(かえ)って、光を放つ事を「忠」という。忠は「孝」を伴って「忠孝」となり、忠は「信」を伴って「忠信」となる。また、忠信の「信」こそ、愛の概念であり、慈悲の概念ではなかったか。

 人間社会の構造は、本来、「忠」と「孝」の表裏一体の働きがあり、これが共に作用しあう事によって、社会の秩序が保たれていた。
 古人は「忠孝」の秩序をもって、この中で生きて行く事を「道」をしたのである。日本人には、この「道」に対する造詣(ぞうけい)が深く、この要素こそが日本人の生活概念であった。

 かつて、「忠孝一本」という水戸学(江戸時代、水戸藩で興隆した学派で、国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とし、藩主徳川光圀(みつくに)の「大日本史」編纂に由来)の思想があった。
 これによれば、日本民族は総べて天祖(天皇の祖先のことで、普通には天照大神をいい、また、国常立尊(くにのとこたちのみこと)から天照大神までをいう)の末裔(まつえい)で、皇室はその直系ゆえ、天皇は日本民族の家長であり、従って「忠」と「孝」とは、本来、一本であるとする思想である。

 忠孝を一本とし、これを「道」として、この道から外れてはいけないのである。何故なら、道から外れれば、人間の魂は磨かれず、心は洗われないからである。これを総じて、「品性」は永遠に磨かれないと言っても過言ではない。
 しかたがって、「品性」とは忠孝の秩序の中に在(あ)ってのみ、磨かれ、洗われる媒体(media)なのである。しかし残念な事に、現代人は、品性の磨き方を忘れてしまっているのである。

 では、なにゆえ品性を磨き、しかも洗い浄めなければならないのか。
 それは品性の磨かれ具合、洗われ具合が、死後の生活のレベルに決定を下すからだ。
 品性が死後の世界の、どのランクで暮らすかという決定材料になるからである。

 では、「品性」は何によって磨かれるか。あるいは何によって洗い浄(きよ)められるのか。
 それは人間の躰から発するエネルギーの根源である「慈悲」である。あるいは「慈愛」である。
 慈悲の心は、人間の善行をおこなわしめる。善行は慈愛の心無くして、実践できるものではない。自他の垣根を廃して、他人の為に、自分のエネルギーを遣(つか)う事を「善行」という。善行こそが、品性を磨く唯一の手段である。善行こそが、品性を洗い浄(きよ)める最高の方法である。

 では、品格は何によって高められるのか。
 それは品性を磨き、洗い浄める事で高められる。古人はこれを「徳」と呼んだ。
 人間は「徳」がなければ、その行為は「道」に則したものとならない。善い行いをする性格こそ「品性」であり、「品格」である。「道」に背けば、忽(たちま)ちに品格は穢(けが)れる。また、人を感化する人格の力も威力を失う。こうして霊的神性は曇らされ、その身魂は穢れて行く。

 結局「道」とは、品性を磨き、品格を高め、洗い浄める「悟り」の行為だったのである。
 道を踏み外さないという行為は、また「礼儀正しさ」にも顕われて来る。
 「道」を全うしている者は、総じて礼儀正しい。礼儀正しさをモットーとしている人を、「有徳人(うとくじん)」という。
 そして死後の世界は、有徳人のみが霊界へと上っていける。

 以上を総じて考えて行けば、人生の目的とは、結局、霊界に至る、死後の生活の為の「修行の場」であると言う事が分かる筈である。したがって人生が「金儲けの場」であったり、「出世の場」であると考えるのは、見当違いも甚だしい限りである。

 人生は、レベルの高い霊界に行く為の「修行の場」という事になるのだ。
 だから、人生には楽しい事など殆ど無いと言ってよい。むしろ苦しみの方が多い。したがって、決して「今まで生きて来て、少しも楽しい事などなかった」と安易に、こうした言葉を吐き捨ててはならない。

 苦しいから「修行の場」となりうる。楽しくないから「修行の場」なのだ。
 人生を「慰安場」か「娯楽室」と思ってはならない。享楽ばかりを貪(むさぼ)っていては、修行も何もあったものではないではないか。

 自分の人生をしみじみ反芻(はんすう)してみて、「今まで、少しも楽しい事はなかった。好(い)い思いをした事も殆どない。何から何まで、辛く苦しい事ばかりだった」と、こういう思いに浸った時、その悲しみや寂寥感(せきりょうかん)の中から、今、あたなの魂は「磨かれ、洗い浄められようとしている」のである。この現実から、逃避してはならない。真摯(しんし)に、お受けするのだ。これを神は検(み)ているのである。

 これが苦悩の実体であり、品性が磨かれ、品格を高めようとする絶好のチャンスが、今、到来している事を、あなたは心して気付かなければならない。

 この「修行の場」は、苦悩で魂を磨き、悲しみと寂寥(せきりょう)で心を洗い浄める「場」なのである。これこそが、現象人間界での品性を磨き、品格を高め、そして心を洗い浄める、重要な要素となるのである。