会主の人生相談は他と趣を異にする (47歳 会員 真言宗僧侶)
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人は、なぜ生まれて来るのか。
ここに、この質問の答がある。《予定説》から言えば、人間の生まれて来ると言うのは、過去世(かこぜ)の臨終(りんじゅう)間際に、何等かの強い怨念(おんねん)か、執念をもって、この世に再び誕生したと言える。生まれた結果は、過去の死んだ原因に回帰されよう。 生命の誕生について言えば、因縁の続く限り、生死は繰り返されるであろうし、逆に因縁を無視して、生命自体が永遠に繰り返し続ける事はない。 更にその逆に、因縁が消滅しない限り、死んだからといって、それで生命が断滅するわけでもない。これこそが釈迦が指摘した「断見」の誤りとするところである。更には、また、因縁を抜きにして、業(ごう)が確定してしまうもわけでもない。 生命は、あくまで因縁によって派生し、因縁によって断滅する。 だが、ここにも落とし穴がある。 因縁が続く限り、生命が存在するからといって、それに凭(もた)れれば、因縁を断滅しても、生死の輪廻を脱して涅槃(ねはん/煩悩(ぼんのう)を断じて絶対的な静寂に達した境地)に入る事は出来ない。いつまでも騒音に満たされ、頭を振り乱す、ロック調の激しいビートに、身も心も委ねていなければならない。生死を繰り返しても安らぐ場所がなく、騒音の中の阿修羅(Asura/人間界の一ランク下の世界)の世界で、いつもガチャガチャと来る日も来る日も、五官の総(すべ)てを総動員して、格闘し続けなければならない。これでは安住の場は永遠に訪れない。 また、現象人間界では、闘争と共に、渇愛(かつあい/渇して水をほしがるように、凡夫が五欲に愛着すること)を滅する事が出来ない為に、死後もまた、迷宮の世界に生まれ出て、輪廻の輪から脱する事が出来ない。 釈迦は「生命の再生」を次のように説く。 生命(命体の意)は「火」であり、肉体は「薪(たきぎ/燃料の意)」であるが故に燃えるのである、と説く。薪が尽きれば、炎は消えるが、しかし薪が尽きても、「火種(ひだね)」は残る。残った火種こそ、渇愛による「異蘊(いおん/「蘊」とは、五蘊(ごうん)を指し、集合体の意で、現象界の存在の五種の原理をいう。色(しき)・受・想・行(ぎよう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識。一切存在は五蘊から成り立っており、それ故に、「無常」とか「無我」であると説かれる。一方、異蘊はこれを否定し、墮落に向かわせ、「慢断(我慢を断滅すること)ぜざるがゆえに、此の蘊を捨て己(おわ)りて異蘊相続して生ず」と言う一行が、そもそもの仏道の眼目とするところである)」である、と。 異蘊は残った火種であり、それは業(カルマの意。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為である「三業」を指す。但し、仏道は行為が未来の苦楽の結果を導く働きを持つとしているのに対し、《予定説》では「逆因果律」になっており、結果から原因に向かって、結果的な悪人は悪行の原因を持ち、結果的な前任は善行の原因を持つとされる。ここが仏道と正反対になっているので注意)の風に吹かれて、また新たな薪へと燃え移る。そして、そこで新しい炎となって燃えはじめるのである。 この新しい薪が、どんな薪で、どのような炎を上げるか、それは火種である、かつての渇愛と、異蘊と業の風(形勢または成り行きの意)が決定するのである。故に、人は種火が新たな薪に燃え移るが如くに生まれ、そして炎が消えるが如くに死ぬ。死んでは生まれ、生まれては死ぬ。 業の風に吹かれて再生するのであるから、過去世(かこぜ)の因縁を引き摺(ず)っている。この因縁の火種は、多くの場合、悪因縁であり、それ故に苦悩を背負う。苦悩があるから、また、迷うも生ずる。 そこで生き方について、もう一度考え直してみなければならない。 因縁は、「必然」と同義語であるから、現象人間界で起る事象に偶然はあり得ない。常に必然である。《予定説》で考えれば、結果として起った「偶然に思える事象」でも、予(あらかじ)め神が仕組んだ事であった。だから偶然に思える事すら、必然である。必然であるならば、また、苦悩も必然。 必然から総てが派生するのである。 だが、ここで問題になるのは、人生は元々、苦悩が必然になるが故に、苦悩によって、自らの魂を洗い、迷いや悲しみの中で、心を育てると言う働きがある事を知らねばならない。 苦悩の中に於てのみ、その苦悩から脱しようとする「藻掻き」そのものによって、次に心は、新しい、本当の喜びが何であるか、と言う事に出くわすのである。迷いと、悲しみの中で、こうした悲惨な状態に嘖(さいな)まされながら、この状況下に於てのみ、新たな力と、新たな喜びを膨(ふく)らませていかなくてはならない。 したがって現象人間界では、苦・悩・迷は、人生の必要十分条件(necessary and sufficient condition/AがBの必要条件であると同時に十分条件である場合、AをBの必要十分条件という)の三要素となる。 ちなみに渇愛は、激しい欲望や執着を指し、「咽喉(のど)の渇き」の意味であるが、咽喉の渇きを覚える者は、ひたすら水を求めてやまないように、その執念は「燃える念」の如く、また赤き炎に比較すべき、人間の性愛や恋愛、情愛や肉愛も渇愛に落ちる所以(ゆえん)を持ち、これに嵌(はま)り過ぎれば、溺愛となる事の愚を戒めている。したがって「愛(agape/神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、愛餐(あいさん)とも。あるいは仏道で言う慈悲)」そのものとは区別する必要がる。 さて、「如何に生きるべきか」は、「如何に死ぬべきか」について迫る事にしよう。 人の心は、一度は死ななければならない。人は、一度は必ず自己否定をしなければならない。人生を本当に生きる者は、いつも絶望と断念の中から、何か新しい力と希望を掴(つか)み取る。死と自己否定の崖(がけ)っ淵に立たされて、はじめて目が覚め、窮地から、新しい自己を発見し、新しい力と希望を得る。これこそが、古い自己の殻(から)を脱ぎ捨てた、新しい自己であり、そしてこの自己に、もはや不安や迷いや苦悩はない。再生したのだ。 だからこそ、「如何に死ぬべきか」を模索しなければならない。一度は死ななければならない。死ななければ生まれ変わる事はできない。したがって、苦悩と絶望、不安や迷いを通過しなかった自己は、所詮(しょせん)「単なる自己」に過ぎない。軽薄な自己に過ぎないのである。こうした自己は、一度死ない限り、新たなものは生まれない。 お分かり頂けただろうか。 真の「生きる」とは、絶望のドン底から生まれて来るのである。悲しみと寂寥(せきりょう)に洗われた後に、漸(ようや)く、この意味が分かって来るのである。 だからこそ「依って以て死ぬべきもの」を見つけ、不安と絶望の底に沈み、そこから生き還(かえ)って来るものでなければならないのだ。 哲学的に言えば、能動を否定する事が、実は本当の能動を生かす事なのだ。 「何によって生きていこうか」ではなく、「何によって死のうか」という事を知るべきなのである。 「依って以て死ぬべきもの」を捕まえたと時、人は、はじめて心の安住を得るのである。 |
自他同根について (23歳 会員 地方公務員)
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あなたは、この世の狂った箇所に、少しでも気掛かりになる点を見つけそれに義憤(ぎふん)を抱いているようだ。それは自他同根の気持ちが、心の片隅に存在しているからだ。あなたは、その点で、まだ、救いがあると言えよう。
これが自他離別になると、「他人の事など、どうでもいい。自分だけよければ」という個人主義に趨(はし)ってしまうようになる。それも悪しき個人主義だ。こうなれば、人生の課題は、金儲けが中心になり、「金を儲ける為に働く」と言う人生が演出される。 人が齷齪(あくせく)、今を働くのは、結局、老後の暮らしを考え、老後の生活で楽をしたい為である。少なくとも、多くの人間は、このような人生設計を立てている。 そして人生は、一生懸命に働く事で、「より多くの金を掴む事だ」と言うのが、現代人の偽らざる人生の目標の到達点ではなかろうか。 ところが一生懸命に働いて、より多くの金を掴む事が出来なかったらどうなるか。その人の人生の目標だった「金儲け人生」は失敗した事になる。 そして、金への不安、物への不信が生じはじめる。 多くの人は、金を頼りに生き、金を頼りに働いている。結局、「金の為に働く」と言う事を余儀無くされ、それが当たり前であり、「人生は金儲け」という図式が自然に出来上がっているのである。 毎日毎日、芥(あくた/塵(ちり)や屑(くず)を指す)のような生活の中で、出没没頭し、多くの金を得る為に齷齪(あくせく)と働く。それは金銭欲に他ならない。 では何故、金銭欲を露(あらわ)にするのか。その動機は、いったい何か。 それは「金さえあれば、幸福になれる」と信じているからである。金さえ出せば、「買えないものは何一つない」と信じているからだ。 事実、大金を得て、富者になる生活を夢見ている人は、決して少なくない。 大金を得る事が「人生の目的」と信じて疑わない人も大勢いよう。もし、こうした考えの人が、一生懸命に働いて、金持ちになれなかったら、その人の一生は無意味であったと言えよう。 現実は幻想とは違う。 多くの人は、より多くの金を掴もう、高給取りになろうとして、一生あくせくと働き、あるいは博打に手を出して一獲千金を狙うが、大金を掴むどころか、未だに貧乏生活から抜け出せずにいる。これが幻想の成れの果だ。 もし金持ちになる事が人生の目標ならば、その目標に向かって進みながらも、これが実現せず、プール付きの豪邸や高級車にも乗れない、その他大勢の「並みの生活」しかできない現実が顕われれば、その人にとって、自分の人生は無意味であったという事になりはしないか。 「金さえあれば幸福である」あるいは「金で幸せになれる」と信じて疑わぬのなら、大金持ちの財産分与や遺産相続争い、家庭争議、お家騒動は一体どう考えればよいのか。大金持ちだからといって、幸福であるとは限らないのだ。 それよりも、「金はなくても、楽しくて、平和な家庭を」と、望む人の方が圧倒的多数であろう。 金が総てで無い事がお分かりか。 しかし、安易に「金が総てで無い」と一蹴(いっしゅう)してはならない。 こうした事を一蹴する人の唸(ねん)には、金持ちへの「悔(くや)し紛(まぎ)れ」に発した羨望(せんぼう)と劣等感が宿っているからだ。守銭奴に対する、守銭奴になり得なかった、自分の心と裏返しの、「穢(きたな)さ」と「醜さ」が、負け惜しみ唸となって毒づいているからだ。 この世の中は、総て表裏の対照関係になっている。それは、あたかも『貸借対照表』のようにである。 「穢い」と思えば、それはあなたの心が穢いのであって、実際に自分の肉の眼に映った媒体が穢いのではない。 総て、心に映った反射が、総べての事象を作り上げているのである。 |